QandA (1)-古代エジプトに関するQ & A (1)
質問1. ローマ人は牛肉を食べなかったそうですが、古代エジプト人は牛肉を食べたのですか? 食べなかったのですか? (福元)
ギーザのピラミッド近くで発見された労働者村からはたくさんの屠殺された牛の骨が見つかっていますから、労働者たちは牛肉を食べたと思われます。また祭礼時に神々に捧げられた牛肉も、あとで神官達や町の人々に配分されて、食べられましたね。(西村)
質問2. ナルメル王のパレットで首を切断された死体が並んでいますが、ギロチンのない当時は何で首を切断したのですか? (福元)
1996年にヒエラコンポリスの北にあるアダイーマで、ナカダ2期に年代付けられる埋葬から、喉を切られた後、頭を切り落とされた殉死者の例が二つ見つかっています。喉を切るのはフリント製のナイフででもできると思いますが、フリント製のナイフで頭も切り落とせるのかどうかわかりません。他方、ナカダ2期から銅製の斧やナイフの製造が盛んになりますので、銅製のナイフで喉を切った後、銅製の斧で頭を切り落としたのかもしれません。ナルメル王の後継者アハ王の銅製の斧はすでに二つ見つかっていますので、ナルメル王が銅製の斧で捕虜達の首を切り落とした可能性は十分にありますね。(西村)
質問3. 中東では邪視をはねかえすための眼の形をした護符をよく見かけますが、古代エジプトの眼にもそのような力がありますか? (泉)
邪視とは嫉妬や憎悪のまなざしによって災いがもたらされるという民間信仰のことですね。古代エジプトには二種類の眼があって、一つはホルスの眼、ウジャトです。これはセト神によって潰されたホルス神の左眼をトート神が魔力で復元したことから、病気治癒の力があるとされています。またこの眼はオシリス神の復活に必要不可欠であることから、ミイラの護符としてもよく使われます。もう一つはラーの眼で、ハトホル女神あるいはセクメト女神と同一視されています。これはラー神に背いた人類を滅ぼすためにラー神によって地上に送られた殺戮の女神で、彼女を人間の血に見立てたワイン(人類滅亡の神話ではレッド・オーカーを混ぜたビール)で宥めることによって彼女の破壊力は守護する力に変えられたとされてい ます。一般に図像でよく見かけるのはホルスの眼ですが、邪視を防ぐために使われたかどうかは不明です。(西村)
質問4. 私達は羊と言えば角が側頭部で渦を巻いているものをすぐに思い浮かべますが、古代エジプトの羊は角が渦を巻いていませんね。品種が違うのでしょうか? (北村)
現代の家畜の羊は品種改良がくり返されて生まれたもので、古代から現代までどのような系統樹になっているのかは、私にはよくわかりません。古代エジプトの羊は水平にねじれながら伸びた角を持ちます。学名をOvis aries longipesといい、紀元前五千年頃から飼育されました。角以外の特徴は、垂れ耳で、毛が長く、毛の色は白・茶・白と黒のまだらなどです。中王国第12王朝になると、学名をOvis aries platyuraという別の種類の羊が輸入されました。通常「アメンの羊」と呼ばれます。この種類の羊はまず後方へ大きく彎曲し、それから前方へ伸びる角を持ち、羊毛を取ることができました。後者は現代のエジプトでも飼育されています。古代エジプトでの羊の利用法は、その乳を飲んだり、肉を食べたり、農作業で種を踏ませたりすることでした。(西村)
質問5. 故人の名前にはマア・ケルウ「声正しき者」という賛辞が付けられますが、どうして遺族に故人が死後オシリスの裁判で勝ったかどうかがわかるのですか? (福元)
それは亡くなってから遺族が埋葬の準備をするのではなく、故人が生前に代金を払ってお墓や棺、供養碑などを作らせるからですね。故人は、職人に注文を出す時に、決まり文句の供養文の他に書いてもらいたいことを言っておくのです。あまりたくさんの代金を払えない人は、名前の部分が空欄になっている既製品を購入し、自分の名前を入れてもらいます。古代エジプト人は経済的に余裕ができればすぐに死後の準備を始めましたが、死後の準備が整わないうちに死んでしまう人も多かったようですよ。(西村)
質問6. 供物として捧げられる鳥とは鶏ですか? (芝田)
ガン、カモ、ガチョウなどの水鳥ですね。鶏はプトレマイオス時代になるまで一般的な家禽ではありませんでした。トトメス3世の年代記には王が西アジアから持ち帰った珍しいものとして鶏の記述が見られますが、鶏がいつどのようにしてエジプトに輸入されたかについてはまだ議論されています。(西村)
質問7. 上・下エジプトの統一を象徴するセマ・タウィで表される植物はパピルスともう一つは何ですか? (藤永)
一般に「南のユリ」と呼ばれていますが、もちろんユリではありません。パピルスが下エジプトを象徴する植物であり、ロータス(睡蓮)が上エジプトを象徴する植物なので、ロータスかもしれません。しかし、すでに様式化されているので、どの植物かは不明です。(西村)
質問8. ホルスとセトの神話で、セトがホルスに対して性行為を行おうとする場面がありますが、古代エジプトでは神様の性別は一定ではなかったのですか? (加藤)
ホルスもセトも男神です。セトが性行為によってホルスより優位に立とうとしたのですね。セトは荒々しい力の権化であり、性欲もそのような力の一つと考えられているのです。(西村)
質問9. テレビの通販番組で、ザクロは古代エジプトで医療用として使われていたと言っていましたが、本当ですか? (加藤)
医学パピルスのエーベルス・パピルスによれば、ザクロは虫下しや胃薬として利用されていました。虫下しの治療法としてザクロの根を水に浸し、一晩置いたものを服用するとあります。ザクロの根にはタンニンが含まれているので、虫下しに効果があるのですね。また胃薬としては、ビールにつけておいたザクロの根をたたきつぶし、水瓶の中で一晩置いたものを布で漉し、飲用するとあります。古代エジプトでは牛肉や豚肉から寄生虫が人体に侵入することが多く、若死の原因になっていたようです。(西村)
質問10. あるテレビ番組で、古代エジプトの王妃は絹の衣装を着ていたと言っていたのですが、古代エジプトでは絹織物を作っていたのですか? それとも交易で入手したものを着ていたのですか? (加藤)
絹糸を吐き出すかいこが中国からヨーロッパに伝わったのは、ユスティニアヌス帝の時代、つまり6世紀のことなので、古代エジプトでは絹は作られませんでした。古代エジプトの亜麻布には基本的に4つのランクがあり、最高級のものはロイヤル・リネンと呼ばれていたそうです。私人墓の供物リストや神殿への寄進リストからはもっと多くの種類が知られていますが、テレビ番組ではおそらくこのロイヤル・リネンを絹と言っていたのだと思います。(西村)
質問11. ナイル川の恩恵を受け、人々が生活する土地は「黒い土地」(ケメト)、ナイル川の恩恵が届かなく、死者の領域と考えられていた土地は「赤い土地」(デシェレト)と言われますが、古代エジプト人は「黒」・「赤」に対してどのようなイメージを持っていたのでしょうか? (加藤)
黒はナイル河がもたらした肥沃な土の色であるだけではなく、冥界の色でもありました。したがって壁画で冥界の領域に属する者たちは黒く塗られます。オシリス神の肌の色が黒く塗られるのは、彼が豊穣の神であると同時に冥界の支配者でもあるからです。死者を冥界に導くアヌビス神も常に黒く塗られます。死後テーベ西岸の守護女神となったアフメス・ネフェルタリ王妃も肌の色を黒く塗られます。ツタンカーメン王の彫像の中には黒く塗られているものが何体かありますが、これは彼が来世で再生復活することを願って、オシリス神のように黒く塗られているのです。しかし、ときどきアメン神やミン神が黒く塗られるのは、彼らが豊饒の神だからです。豊饒と冥界が同じ色で表されるというのは、一見奇妙な感じを受� �ますが、あながち無関係とは言えないと思います。というのは、死者は冥界を通過して再生するのであり、豊饒は新しい生命を生みだすからです。だから古代エジプト人は黒に対して大変良いイメージを持っていたと言えます。
赤はセト神の色です。外国人はセト神の領域に住む人々なので、壁画に描かれた外国人はしばしば髪の毛を赤く塗られました。神に捧げられる動物も赤毛の牛が選ばれます。赤毛の牛の屠殺はセト神の殺害を意味しました。デンデラのハトホル神殿には赤毛のロバがセト神として屠殺される場面を表すレリーフがあります。赤はまた死・危険・血も表します。夕焼けは太陽神の敵たち(冥界で太陽神の航行を妨げようとする魔物たち)が流した血で空が染まるから起こると考えられました。ワインは神の敵たちの血として捧げられました。埋葬の際に赤い壷を割ることは、オシリス神の敵を殺すことを意味します。宗教テクストで書名や章の題名は赤インクで書かれますが、書名や題名に含まれる王名、神名、死者の名前だけは危険 防止のために黒く書かれます。反対に文中に現れる危険な魔物の名前は赤く書かれます。しかし、赤が守護力を意味する場合もあります。イシス女神の帯留めを象った紅玉髄製の護符は、ホルス神を身ごもったイシス女神をセト神から守ったので、ジェド柱とともに併用されて、死者の生命の安全を保証します。また赤色っぽい珪岩や花崗岩は太陽の再生力を表すと考えられました。その他激怒や炎も表します。赤はつねに悪い意味とは限らないのですね。(西村)
質問12. アビュドスのオーパーツはどのようにして生まれたのですか? (岡沢)
どのように芸術の意味と問題ofthe時間を伝えるのでしょうか?
アビュドスのセティ1世葬祭神殿にはセティ1世の碑文の上にラムセス2世が碑文を彫らせた箇所があります。それがオーパーツとしてヘリコプターや速射砲のように見えるだけです。例えば、こちらではデルペジェト9ネスートビーティーネブターウィーメンマートラー(セティ1世の二女神名と即位名)が消されずに、その上にネブティメクケメトウアフハスートネスートビーティーネブターウィーウセルマートラーセテプエンラー(ラムセス2世の二女神名と即位名)が彫られています。セティ1世の碑文は高浮き彫りで、ラムセス2世の碑文は浅浮き彫りです。(西村)
質問13. 日本では死者の頭が北の方角を向くように埋葬されると聞きますが、エジプトのミイラはどの方向に向けて埋葬されるのですか? (加藤)
エジプトのミイラの場合、先王朝時代には、通常頭は南に置かれます。顔の向きは西向きも東向きもあります。しかし、古王国第4王朝以降は、ヘリオポリスの太陽神信仰の影響で、頭を北側に置き、左半身を下にして、顔を東に向けて埋葬される例が主流となります。古王国末期から中王国の彩色木棺にはどれも東側の長い側面の北側の端に両目と偽扉が描かれていることから、ミイラの向きは古王国と同じだと分かりますね。両目と偽扉は、死者が朝日を見ることができるように、偽扉を通って日中外出できるようにとの配慮から描かれています。しかし、人型棺が登場する第12王朝以降は、ミイラは仰向けですね。頭はやはり北の方角に向けて置かれました。ちなみに、棺に描かれる神々の位置と方角は決まっていて、北側� �頭の方の側面にはイシス女神が、南側の足元の方の側面にはネフテュス女神が、長い両側面にはホルス神の四人の息子たちが描かれます。ホルス神の四人の息子たちは、東側面の北端にイムセティ神が、東側面の南端にドゥワムゥテフ神が、西側面の北端にハァピ神が、西側面の南側にケベフセヌゥエフ神が配置されます。これらの神々の配置はオシリス神信仰の影響ですね。頭が北側に置かれるのは、周極星が決して地平線の下に沈むことがなく、イケムゥ・セク「不滅の星々」と呼ばれて神々として扱われたことから、北の空は神々の住む来世があるところと考えられたからです。これはピラミッド・テクストに記された古い来世観を反映しています。このようにミイラの埋葬にはいくつもの信仰が影響を与えているのですね。
先王朝時代に見られる頭を南に向ける埋葬については、次のように推測しています。古代エジプト人がヒエログリフでは西を表すサインを使って右(ウネミー)を表し、東を表すサインを使って左(イアビー)を表すことから、彼らは心情的に南を向いて立っていたことが分かります。これは彼らがナイル河の氾濫を常に待ち望んでいたからではないかと思われます。おそらくそのために頭を南に向けて埋葬されたのでしょう。(西村)
質問14. ベルリン博物館所蔵のライオンの頭部を持つホルス神像の台座には四つ丸い環がついていますが、これは何のためのものですか? (加藤)
おそらく祭列の間神像を聖船に固定するための環だと思います。高さが50cmもある結構大きい像なので、聖船の重さに神像の重さが加わったら、相当重たかったでしょうね。聖船が何人もの神官達に担がれているのが理解できます。(西村)
質問15. ジョセル王の階段ピラミッドの周壁の解説に登場するniche façadeとかpalace façadeとは何ですか? (加藤)
壁がん正面(niche façade, panelled façade)とは王国統一直後に現れる建築様式で、建築物の壁に多数の規則的に連続する突出部と後退部があり、さらに壁の表面には浅い縦長の壁がん(niche)があります。壁がん正面は初期王朝のマスタバ墓の壁に、次いで古王国・中王国のピラミッドの周壁によく使用されました。さらに二本の束ねられたパピルスやござの彩色模様による装飾が加わったものを宮殿正面(palace façade)と呼びます。宮殿正面は、第4王朝以後は、建築物の外観よりも石棺や墓室の壁の装飾としてよく使用されました。これらは死者のための王宮を表現していたと思われますが、いつまでそのように認識されていたのかは不明です。
第1王朝の宮殿正面復元図(W.B.Emery, Archaic Egypt, Penguin Books, 1961, p. 181より)
もう少し補足しておきますと、第4王朝以後王と王族のメンバーは宮殿正面で装飾された墓室あるいは石棺に埋葬されました。というのは、ピラミッド・テクストによると、王は来世では太陽神とともに地上の世界と天上の神々の世界の両方を支配する支配者なので、来世でも王宮に住むと考えられたからです。したがって墓室あるいは石棺に地上の王宮に似せた装飾が施されました。一部の高官たちも宮殿正面で装飾された石棺に埋葬されましたが、それは死後も王のお側近くに仕えて永遠の生命にあやかろうとしたからでしょう。
ただ壁がん正面・宮殿正面が王国統一直後に突然現れた理由は不明で、メソポタミアの影響とも、今は失われてしまった下エジプトの建築物に起源を持つとも言われています。(西村)
質問16. ヒッタイトは鉄の国と言われていますが、どこに鉄鉱山があったのですか? (野中)
原料の鉄や鉄製品は、腐食しやすいため、また当時の生産量が少なかったため、出土例があまりありません。ヒッタイト文書には鉄製の剣、王笏、玉座、神像などの記載がありますが、これらは神殿への奉納物や外交上の贈り物などに限られていたようです。ツタンカーメンの墓から出土した一振りの鉄の短剣もヒッタイト王からの贈り物と考えられています。このためヒッタイト人たちが主にどこの鉄鉱山を利用し、どこで製鉄したのかはいまだに不明です。窪田蔵郎著『シルクロード鉄物語』(雄山閣出版、1995年)の187ページに掲載されている地図「トルコの鉄鉱産出地」によると、Upper land及びキッズワドナからアンカラにかけての地域に産出地が集中しています。この中にヒッタイト人たちの利用した鉄鉱山があったかもしれませんね。(西村)
質問17. 古代エジプトにも三途の川はありますか? (野中)
三途の川とは仏教用語で、この世で悪業を犯した死者たちが地獄へ行く時に渡らなければならない川のことです。しかし、古代エジプトには「冥界」という概念はあっても、「地獄」という概念はないので、「三途の川」という概念もありません。御存じの通り、死者の書にはオシリス神の前で死者の心臓を天秤にかける場面がありますが、心臓がマートの羽根の重さと釣り合わなかった時、すなわち現世での行いが正しくなかった死者はアメミット(「死者を食べるもの」の意)と呼ばれる怪物に食べられてしまいます。冥界は現世での行いが正しかった死者だけが行くことのできる場所なのです。(西村)
質問18. あるテレビ番組で、ラムセス2世が即位する時に聖油を注がれたと解説されていましたが、それはどんな意味があるのですか? (加藤) その聖油は何から作られていたのですか? (奥山)
即位に際して、新王は王権の授与式を受けなければなりませんでした。彼はまず神殿の中で、ホルス神とセト神の役を演じる神官たちによって浄められた後、王の衣装を身に付けます。それからバスと呼ばれる聖油を頭に注がれました。この聖油には聖地の土が混ぜられており、それを注がれることによって、王の体内に宇宙のエネルギーが満ち、その結果王は宇宙の秩序を安定・維持させる魔力を持つことができるのです。つまり宇宙を支配する神となるのです。この聖油の儀式はセド祭や新年祭でも行われました。というのは王の魔力は常に充電される必要があるからです。ちなみに、新年祭の聖油の儀式で唱えられた呪文はブルックリン・パピルス47.218.50に記されています。宇宙の秩序の安定と維持は国の繁栄にもつなが� ��ますから、この聖油の儀式は極めて重要だったと言えます。(西村)
質問19. 古代エジプトでも手術は行われていたのですか? またその時麻酔はどうしていたのですか? (上地)
古代エジプトでは戦争での負傷や建設労働者の骨折などがよくありましたから、外科手術はよく行われていたようです。外科手術を受けたあとのあるミイラは多数発見されていますし、外科手術専門の医学パピルス、エドウィン・スミス・パピルスも残っています。麻酔については、よくわかりません。今後の薬学の研究に期待しましょう。(西村)
質問20. 王像や神像が踏み付けているものは何ですか? (加藤)
九つの弓です。九つの弓は上・下エジプトを含むすべての異民族を象徴しています。九つの弓を踏み付けている王像や神像は世界の支配者としての王または神を表現しています。王朝時代を通じて極めてよく使用されるモチーフですね。(西村)
質問21. 供物リストに現れる「リビア産の最高級油(ハト・ネト・チェヘヌー)」とは何の油ですか? (奥山)
原王朝時代のリビア・パレットに見られるように、リビアはオリーブの地なので、「リビア産の最高級油」も良質のオリーブ油ではないかと推測されてきました。しかし、植物から取られた油ということ以外正確なことは何も分かっていません。(西村)
質問22. 古代エジプトにも地図はあったのでしょうか? (加藤)
デル・エル・メディーナで発見されたラムセス4世時代のパピルスには、ワーディー・ハンマーマート地区の硬砂岩の採石場や金鉱山などの位置を示す地図が描かれています。現在トリノ博物館が所蔵しています。ラムセス2世のカデシュの戦いのレリーフもオロンテス河に囲まれた地域の詳細な地図です。また、「二つの道の書」やイミドゥアトなどの葬祭テクストは冥界の地図ですね。(西村)
質問23. 古代エジプトにも幽霊はいたのですか? (奥山)
spanis文化starteはなかった
幽霊が登場する物語が二つ知られています。一つは、ラムセス時代の物語「コンスエムハブと幽霊」で、中王国に宝庫長だった人物の幽霊がアメン神官長コンスエムハブに自分の墓を見つけだして再建するように命じています。もう一つはプトレマイオス時代の物語「セトネ・カーエムワセト物語 I」で、ラムセス2世の王子カーエムワセトがトート神自身によって書かれた魔法の書物を奪いに大魔術師ナネフェルカプタハの墓へ降りて行ったところ、ナネフェルカプタハとその妻子の幽霊がいて、書物を奪って行った王子をひどい目に遭わせたので、王子は魔法の書物を彼に返し、彼の要望で彼の妻子のミイラを彼の墓に埋葬し直しています。しかし、これらの物語に登場する幽霊は正式な埋葬を受けた死者の霊(アク)です。これとは別に犯罪者など正式な埋葬をしてもらえなかった死者の霊(メト)があります。後者は人の体内に入り込んでさまざまな病気を引き起こしたり、精神を狂わせたり、悪夢を見させたりすると考えられました。そのため、古代エジプトでは、このような悪霊たちを遠ざけたり、追い出したりするための、護� �・呪文・薬などが非常に発展していました。(西村)
質問24. 古代エジプトのカバは動物園にいるカバと同じ種類ですか? (加藤)
古代エジプトのカバは学名をHippopotamus amphibiusと言い、今現在アフリカにいるカバと同じ種類です。カバは更新世の時代(180万年前〜1万年前)には北アフリカと東地中海沿岸に分布していましたが、今は北緯17度以南のアフリカにしかいませんので、動物園にいるカバと古代エジプトのカバは同じ種類だと言えますね。ちなみにエジプトにカバは19世紀初めまでいたそうですよ。(西村)
質問25. 聖母マリアは15〜16歳で婚約したと言われていますが、古代エジプトでは女性は何歳で結婚したのですか? 兄妹結婚は多かったのですか? (上原)
E. リュデケンスの調査によると、プトレマイオス時代の結婚契約書から、女性は12〜14歳ぐらいで結婚したことが知られています。兄妹結婚については、J. チェルニーの調査によると、第一中間期から第18王朝までの490例のうち、たった2例しかなかったそうです。恐らく、王家を除いて、義理の兄弟姉妹、叔父と姪、いとこ同士の結婚の方がより一般的だったと思われます。(西村)
質問26. 旧約聖書の創世記ではヘビが知恵の象徴として現れますが、古代エジプトの知恵とは何ですか? (平山)
古代エジプトの知恵というと、神々の秘儀や魔術、天文学、占星術などのことであるというイメージがありますね。このイメージは後世にエジプトにやってきたギリシア人、ローマ人、イスラム教徒たち、ルネッサンス時代のヨーロッパ人たち、そして現代のエジプトマニアたちによって作り上げられてきました。ヘルメス文書は、知恵と学問の神ヘルメス神によって書かれた古代エジプトの知恵の書と言われていますが、これは紀元前3世紀〜紀元後3世紀にアレクサンドリアの神官たちがギリシア語で書き著した42冊の書物です。古代エジプトでは第一中間期の頃から知恵と学問の神トート神によって書かれた書物に対する信仰があったので、ヘレニズム時代にトート神と結び付けられたギリシアのヘルメス神の著作とすること で、それらの書物の権威を高めたのだと思われます。
このような秘教主義が生まれた背景には、古代エジプト人たちのヒエログリフに対する信仰があります。古代エジプトでは、全時代を通じて、読み書きができる人は多くて全人口の3-5%で、神殿の図書館に保管されている学術的なパピルスに近づける人々はさらに制限されていました。なぜなら古代エジプト人たちは、発声された言葉は創造力を持つと信じていたからです。新王国以後神官たちの影響力が強くなり、彼らは他の文化圏の人々に彼らの知識がもれないようにヒエログリフ書法を一層複雑にさせたので、他の文化圏の人々は、古代エジプトの読み書きができる人々はすべて魔術師かあるいは予言者であると考えました。
しかし、古代エジプト人たちが知恵と考えていたものはそうではありませんでした。それは古代の賢人たちによって書かれた教訓文学のことでした。教訓文学の作者たちは神官ではなく、高位の行政官達でした。彼らは人生の成功者として自分の息子や不特定の幹部候補生達に、王に対する忠誠心、目上の人々の前での自制心、家族や召使い達と領民達に対する保護、その他諸々の賢明な生活態度について説きました。これらの教訓はこの世での成功と繁栄のみならず来世における永遠の生命をも保証するものであると考えられました。というのは、それらはすなわちマアトを話すこととマアトを行うことだからです。マアトとは創造神が造り出した秩序のことです。マアトに従わない者はどこに行っても生きられないと厳しく� ��められました。従って古代エジプト人たちの知恵とは極めて生活に密着したものだったのです。(西村)
質問27. 古代エジプトにおいてネコが神格化された理由は何ですか? (加藤)
すでに第5・6王朝に「子だくさん、子供の保護」のためのネコの護符が存在していました。特にネコの姿をしたバスト(バステト)女神は妊婦の守護神でした。ピラミッド・テクスト§1111でも「我が母バステトは私(=王)に授乳した。ネケブに住む者(=ネクベト)は私を育てた。ブトに住む者(=ワジェト)は彼女の両手を私の上に置いた。」と書かれており、バステトの母性が示されています。
また闇の中でも光るネコの目はネコを太陽神ラーとラーの眼と関連づけるのに役立ちました。死者の書第17章では、ネコは大蛇アポピ−渾沌、闇、邪悪の象徴−を殺す太陽神ラーとして描かれています。ラーの眼との関連はバステトのセクメト女神やハトホル女神との同一視にもつながります。
しかし、王朝時代を通じてネコが神格化された理由は、古王国以来の信仰に基づいていると思います。(西村)
質問28. ペットをミイラにしたのは貴族だけですか? 一般庶民もしていたのですか? (森山)
ペットをミイラにするのにどれだけ費用がかかるのかが問題ですね。安ければ、一般庶民もペットをミイラにしていたでしょう。費用とその変動が分かれば、社会経済史的考察ができそうですね。(西村)
質問29. 古代エジプト人たちは夕方のいつ頃に夕食を取ったのですか? また、古代エジプトでは朝・昼・夕の三食を取っていたのですか? (加藤)
朝食を意味する一般的な言葉は、アブー・エルまたはイアウ・エルです。正午と夕方の間に取る午後の食事はメシェルートです。日没時あるいは日没後の食事、いわゆる夕食を意味する一般的な言葉はメシートです。どれがメインの食事なのかは議論が分かれていますが、おそらく古代エジプト人は一日三回食事をしたのでしょう。ただし、貧しい人は一日二回あるいは一回だったかもしれません。逆に高貴な人は一日三・四回食事を取ったかもしれません。シヌヘ物語の主人公シヌヘは宮殿から一日に三・四回食事を受け取ったとありますから。(西村)
質問30. 古代エジプトにおいて王の命令などをそれぞれの州に伝える際の伝達手段はどういったものがあったのでしょうか? 馬や伝書鳩といったものはあったのでしょうか? (加藤)
ウヘムーとウプーティー/イプーティーと呼ばれる行政官たちが王の命令を伝達したと思います。まずウヘムーについて、中王国にはウアレトという行政区に二人ずついて、司法行政に携わっていました。新王国には王のウヘム−がいて、外交使節を出迎えたり、戦場での兵士たちの行動を報告したり、王のための宿泊所を用意したり、王宮の命令を遵守させることに責任がありました。一般に伝令使と訳されます。ウプーティー/イプーティーについては、中王国・新王国に、大臣クラスの高官が任命され、外交使節として外国の王の宮廷に派遣され、王の言葉を伝えました。早馬の制度があったかどうかは知りません。伝書鳩と言えるかどうかは分かりませんが、古代エジプトでは、王の即位や戦勝を知らせるために、東西南� �の四方向に向かって四羽のガチョウが放たれました。時々四羽のガチョウではなく、ハヤブサ、トキ、ハゲワシが一羽ずつ放たれることもありました。今でも大きな祭典では多数の鳩が一斉に放たれますが、それは古代エジプトのこのような習慣に起源があるのかもしれませんね。(西村)
質問31. スフィンクスは古代エジプトに特有のものではなかったのですか? シリアやギリシアにもあったのなら、それらはエジプトに起源を持つのですか? (福元)
スフィンクスという言葉はギリシア語なので、ギリシアにもスフィンクスはいました。ギリシアのスフィンクスは女性の美しい顔を持つ有翼の動物です。通常ライオンとともに描かれます。古代エジプトのスフィンクスは通常人頭を持つライオンであり、翼は持っていません。エジプトでスフィンクスとして表現されるのは王だけではなく、王妃や王女もスフィンクスとして表現されました。シリアのスフィンクスは女性の頭部を持つ有翼のライオンで、頭部にはターバンのようなものを巻き、さらにその頂上部に植物を生やしています。人頭を持つ有翼の動物像はバビロニア、シリア、アッシリアからも広く知られており、それらの起源は知られていません。ちなみにワシの頭部と翼をライオンの胴体と組み合わせたものをグ� �フィンと呼びます。
参考までに、Janice L. Crowley, The Aegean and the East : an Investigation into the Tranference of Artistic Motifs between the Aegean, Egypt, and the Near East in the Bronze Age, Jonsered(Sweden), 1989, pp. 40-45の要約を示します。
シュメール人は、食べたもの
この本ではスフィンクスやグリフィンも扱っています。スフィンクスのモチーフは紀元前三千年紀にエジプトとメソポタミアに見られ、エジプトのスフィンクスは中王国の終わりまでにシリアに伝わり、雄から雌に変えられ、伏せの姿勢からお座りの姿勢に変えられ、頭部の羽根飾り・翼・尻尾という新しい要素を加えられたそうです。メソポタミアのマリではスフィンクスは頭部に羽冠のある門番タイプです。さらに第二中間期にヒクソスに伝わり、王の権力と権威を表すものとして好まれ、後期青銅器時代のシリアではお座りの姿勢のスフィンクスが増えました。北シリアのミタンニではもっと活動的な姿勢のスフィンクスが、ヒッタイトでは四本足で立つ門番タイプが使用されました。頭部にはヒッタイト風の帽子をかぶっ ています。キプロスでは西アジアのタイプとエーゲ海タイプを組み合わせたスフィンクスが使用されました。羽飾りのないヘルメットをかぶっています。
エーゲ海地域ではクレタのミノア文明で真性のスフィンクスが使用されていたそうです。胸や翼の骨に沿って巻き毛の列があり、羽根飾りのついたヘルメットのような冠をつけています。翼の羽根にはAdder Markがあります。ギリシア本土ではミノアのスフィンクスを、翼を誇示する姿勢で使用し、雄と雌の区別がはっきりしなくなります。ミケーネのスフィンクスは静止した生き物だそうです。伏せて翼を高く広げたスフィンクスはエジプトのスフィンクスの平然とした力強さを思い出させ、グリフィンの活動的な姿勢とははっきりと対照的であるそうです。ミケーネでは翼を前後に広げるスフィンクスも好みました。
ティイ王妃のカメオは翼はあるけれども閉じて畳まれているので、エジプトの伝統内にあるけれども、セティ1世のカルナックのレリーフに見られるスフィンクスはしなやかな雌の身体と頭部を持ち、西アジアタイプだそうです。ムートネジェメトのスフィンクスはこの中間でしょうか? 言うまでもなく、この頃エジプトで一般的だったのは敵を踏みつけるスフィンクスです。
またこの本によると、グリフィンは北シリアのミタンニで創造されたモチーフだそうです。(西村)
質問32. デモティック(民衆文字)の解読者は誰ですか? (野中)
シャンポリオンがダシエ氏に宛てた手紙にはデモティック・ヒエログリフ・ギリシア語の表音文字を対照させた表が書かれており、もしかしたらシャンポリオンがすでに解読していたのかもしれません。ただし、音と文字を対照できたからと言って、それで解読できたと言えるのかという問題が生じます。デモティックの文法書はH. ブルクシュによって初めて出版されました。彼はまた全7巻のヒエログリフとデモティックの辞典(1867-1882)を出版しています。文字がどの書体で書かれているか、どのサインであるかを識別できた程度なら解読とは言えません。何冊かの文法書が出版された今日でもデモティックの文法は未だに解明されていない部分が多く、どの時点で解読できたかを言うことはむずかしいです。したがって誰が解読者であるかということについてもはっきりと言えません。(西村)
質問33. 古代エジプトに海軍はありましたか? (野中)
ありました。新王国までは兵士たちを輸送したり、彼らの武器・食料などを輸送することがその主な役割だったようですが、第一中間期と中王国には戦争に関する記述の中に時々アーハーウ「艦隊」という言葉が見られます。新王国には職業軍人が現れ、海軍出身者もいたようです。例えば、エル・キャブ出身のアバナの息子アフメスは、彼の自伝碑文によると、海軍の経歴を持ち、ヒクソス追放戦争で戦闘に参加しています。トトメス3世は東地中海沿岸の一都市で造らせた船を解体して運び、ユ−フラテス河でミタンニ軍と戦った時に使用しました。ラムセス2世がカデシュの戦いで窮地に陥った時に駆け付けた精鋭部隊は、陸路ではなく海路で戦場に向かいました。メディネト・ハブの葬祭神殿にはラムセス3世が海軍を� �いて海の民と大海戦を行っているレリーフがあります。古代エジプトの海軍については、T. Säve-Söderbergh, The Navy of the eighteenth Egyptian Dynasty, Uppsala, 1946を参考にして下さい。(西村)
質問34. ロータスの花の香りをかぐことにどんな意味があるのですか? (加藤)
「死者の書」に太陽神ラーは「ロータスから生じた若者」という記述があるように、太陽神は原初の海に浮かぶロータスの花から生まれたという神話があります。原初のロータスを神格化したのがネフェルテム神です。ツタンカーメンの副葬品の中にもロータスから出現するツタンカ−メンを表現した彫像があります。この神話に由来して、ロータスは再生の象徴となり、偽扉のパネルの部分に描かれたロータスの花の香りをかぐ故人や墓壁画に描かれたロータスの花を持って座る故人は、彼らの来世における再生復活を暗示しています。(西村)
質問35. ネコのミイラの墓地があるのなら、イヌのミイラの墓地もありますか? (荒木)
上エジプト第7州の州都、キノポリスは別名「イヌの都」と呼ばれ、イヌの墓地があります。またアヌビス神はジャッカルですが、古代エジプト人がイヌとジャッカルを厳密に区別しなかったので、アヌビス神の信仰地アビドスには、何十万匹のイヌのミイラが埋葬されました。サッカーラにもアヌビエイオンというイヌの地下墓地があります。イヌはペットとして飼い主の墓に埋葬されることも多く、イヌ用の棺も知られています。(西村)
質問36. 古代エジプト人のかつらは何でできていますか? 具体的にどんなものをどのように加工したらかつらができるのでしょうか? (岡沢)
大部分のかつらは人毛で作られています。論文としては、J. S. Cox, 'Construction of an ancient Egyptian wig (c. 1400 BC) in the British Museum', Journal of Egyptian Archaeology 63 (1977), pp. 67-71があります。300〜400本の人毛の巻き毛やお下げ髪をネットに結びあわせたり、編み上げたものを60度に温めた蜜蝋や樹脂を混ぜたものに浸して型を固定するようです。ネットもまた人毛でできていますが、亜麻の繊維で作られたものもあります。セットローションも蜜蝋や樹脂です。第21王朝の馬鹿デカイかつらはナツメヤシの繊維を詰めているのだそうです。ローマ時代にまで下ると、かつらは人毛ではなく草やナツメヤシの繊維から作られます。多くの報告書に反して、古代エジプトのかつらは羊毛や馬の毛から作られることはないそうです。(西村)
質問37. 古代エジプトにも人間の髪の毛を集めるかつら屋さんはありましたか? 育毛剤を使って髪の毛を伸ばし、それを売る人はいましたか? 激しく髪の毛を振り動かすダンサーの長髪はかつらではなく自毛だったのでしょうか? (岡沢)
かつらの巻き毛を調えている場面(レリーフ)はカイロ博物館にあるカーウィト王女の石棺で、町の床屋さんの場面(壁画)はウセルハトの墓(テーベ56号墓)で見たことがありますが、生きた人間の髪の毛を集めている場面にはまだ出会ったことがありません。しかし、Lexikon der Ägyptologie, Bd.4, 988-990の"Perücke"に、「かつら工房でかつらが作られた」という記述があるので、そこで働いている人々が人間の髪の毛を集めていたのかもしれませんね。かつら工房の遺跡はデル・エル・バハリで1974年にポーランド隊によって発見されています。
しかし、自分の髪の毛を売る人がいたかどうかまでは知りません。そんな商売があったとは聞いたことがありません。
踊り子達は踊りの魅力を増すために長髪のかつらをつけていたと思います。アクロバットダンサーは激しい動きにも対応できるようにかつらを固定するための工夫を何かしていたのではないでしょうか? ヘアピンでかつらの下の地毛としっかりからませるとか・・・。しかし、裏付けとなる文献が見当たりませんので、これはあくまで私の推測です。(西村)
質問38. パピルス学とは何ですか? (石田)
ギリシア語・ラテン語で書かれたパピルス文書を研究する学問です。ギリシア・ローマ時代(プトレマイオス朝〜ビザンティン時代)にエジプトから出土するオストラカ、木札、羊皮紙もパピルス学の対象です。しかし、ギリシア・ローマ時代のパピルスであっても、古代エジプト語、アラム語、ヘブライ語、コプト語、アラビア語などで書かれたパピルス文書はパピルス学の対象ではありません。プトレマイオス時代のデモティックで書かれたパピルス文書はエジプト学に属します。ちなみに、現存するギリシア語のパピルス文書の量はデモティックのパピルス文書の10倍以上であり、このような史料の状況から、ギリシア・ローマ時代は狭義のエジプト学には含まれないように思われます。(西村)
質問39. 名前をカルトゥーシュで囲むことにどんな意味があるのですか? (永井)
太陽が一周する世界を支配するという意味があり、太陽神ラー信仰と王権が結びついた第4王朝から王の即位名と誕生名がカルトゥーシュで囲まれます。しかし、中王国以降王妃や王子たちの名前まで囲まれるようになり、単なる王族の印になってしまいます。今は観光客の名前をカルトゥーシュで囲んだペンダントがエジプト土産になっています。(西村)
質問40. 翼の生えたスカラベが太陽を持ち上げた図は何を意味しているのですか? (永井)
日の出、すなわち再生したばかりの若々しい太陽神(ケプリ)を表します。翼が生えているのは天空を飛ぶ能力があることを示しています。古代エジプトでは冥界にいる神々も多数の死者たちも太陽神とともに毎朝再生復活できると信じられていました。だからケプリの図が冥界の書や死者の書に描かれ、スカラベの護符がミイラに添えられました。棺に描かれた故人の額にスカラベが描かれることもあります。(西村)
質問41. 王名や治世年数が記録されるイシェドの樹の学名は何ですか? またその和名は何でしょうか? (岡沢)
私は「イシェド」を特に和訳せずにそのままイシェドと言っております。Rainer Hannig, Grosses Handwörterbuch Ägyptisch-Deutsch (2800-950 v.Chr.)(Mainz, 1995)でイシェドを引くと、Balanites aegyptiacaあるいはCordia Myxaと書かれています。Balanites aegyptiacaはハマビシ科のバラノスです。砂漠のナツメ、エジプトプラム、エジプトバルサムという別名があります。Cordia Myxaはアッシリアプラムと呼ばれています。個人的には、おいしい実がなるだけではなく、芳香がする油が採れるBalanites aegyptiacaなら聖なる樹のイメージによく合うなと思います。The Oxford Encyclopedia of Ancient Egypt, vol. 1(Oxford, 2001), p. 564にも「エジプトプラム(Balanites aegyptiaca), エジプト語でおそらくイシェド」と記されています。Balanites aegyptiacaの写真は「エジプトの樹木」の8をご覧下さい。
ちなみに、かつてイシェドはエチオピア原産のペルセア樹(Mimusops laurifolia/shimperi、古代エジプト名シュワブ)ではないかという学説もありましたが、今までに発見されているイシェドと呼ばれる植物の遺物はBalanites aegyptiacaに有利です。Mimusops laurifoliaについては「エジプトの樹木」の13をご覧下さい。(西村)
質問42. 古代エジプトの知恵の神はジェフーティーなのに、どうしてギリシア語ではトートと呼ばれるのでしょうか? 名前の変化がどのようにして起こったのか教えて下さい。 (岡沢)
私は次のように推測しました。
英語 Thoth トウト
フランス語・ドイツ語 Thot トト
コプト語 トウト(サヒーディック方言)、 トーウト(ボハイリック方言)
どちらも最初のトはth音で、二番目のトはt音です。
ギリシア語 トゥート、 トート、 テウトなど
どれも最初と最後はth音です。
新バビロニア語 (読み方はわかりません)
古代エジプト語の音の変化についてですが、アルファベットの最後のdj音は古王国末期にはd音に変化しつつありました。さらに新王国までにd音はt音に変化します。弱子音のy音はしばしば発音されないことがあり、やがて消滅しました。新王国に4つあったh音の区別は減少し、やがて一つのh音になりました。古代エジプト語をギリシア文字を借りてきて表すことになった時、つまりコプト語で表す時、最初の二つのt音とh音はth音を表す文字で書かれたため、t音と区別がつかなくなりました。w音はコプト語では長母音のo音を表すので、ウーがオーになりました。以上のような経過で、ジェフーティー → デフーティー → テフート → トートまたはトトになったというわけです。残念ながら音の変化がいつ起こったのかは言語学者でも正確にはわかりません。(西村)
質問43. 「生命の家」って何ですか? (石田)
「生命の家」は王都(ただし証拠は乏しい)や全国各地の主要な神殿の中にあり、そこでは宗教テクスト、学術テクスト、文学作品などが権威づけられ、コピーされ、保管され、書記、神官、医師などが養成され、さらにエジプトの幸福と繁栄が儀式と魔術で守られる場所でした。すなわち図書館、筆写室、大学、儀式場という複合的な機能を持っていたのです。その存在はすでに第一王朝のヘビ王の時代から知られ、その活動はギリシア・ローマ時代に頂点に達しました。そのため、「生命の家」はアレクサンドリアのムーセイオンの原型だったと言われています。(西村)
質問44. アロエがエジプトで早くから薬草として使われていたと聞きましたが、どんな時に使われたのですか? (山本)
リズ・マニカ著『ファラオの秘薬』のpp.122-4にアロエの項目がありますが、医学テキストに見られる単語ヘトア・ウアがアロエを指すのではないかという記述がありました。次に、Renate Germer, Untersuchungen über Arzneimittelpflanzen im Alten Ägypten, Hamburg, 1979, pp. 294-296には、ヘトア・ウアの項目があり、エーベルス・パピルスに主に眼病の治療に使われたことが記されていると書かれています。この本によると、ヘトア・ウア=アロエと解釈されたのは、コプト時代にアロエが眼病の治療に使われていたからだそうです。もっともアロエに眼病を治す効力はないそうですが。もしヘトア・ウア=アロエの解釈が正しければ、王朝時代にアロエが眼病の治療薬として使われていたことになりますね。(西村)
質問45. 古代エジプトにも木簡はあったでしょうか? (野中)
一般に古代エジプトの書写材料はパピルスとオストラコンです。パピルスに書かれた内容が神殿や墓の壁、石碑などに彫られることもありました。西アジアの諸外国との通信には粘土板が使われました。しかし、例外的に木板、亜麻布、土器の破片、革などが使用されました。通常木板が使用されたのは学校教育で、生徒たちが文字の読み書きを練習するためにでした。また初期王朝の副葬品に付けられたラベルには象牙に混じって、木片もあります。一方日本、中国、中央アジアで使用されていた木簡は、人の移動に関する文書、物品の授受に関する記録、租税の物品の付札、習字、落書き、呪符、告知札として使用されました。数万点単位で出土する木簡にくらべて、樹木の乏しいエジプトでは木板の使用例は極めて限られ� �おり、とても木簡があったとは言いがたいです。(西村)
質問46. 古代エジプトにも死刑制度はあったでしょうか? (野中)
ありました。死刑には串刺しの刑、火あぶり、水中に沈める、斬首、ライオンやワニなどの野獣に食べさせるという方法があります。身分の高い人には王が自害を勧めることもありました。もちろん死刑囚はきちんとした埋葬も葬儀も受けられませんでした。つまり来世での再生復活の権利も奪われたのです。(西村)
質問47. ファイアンスとは何ですか? 鉱物の一種ですか? どうやって作ったのですか? (横山)
ファイアンスとは、石英に少量の石灰、ナトロン(天然炭酸ソーダ)、銅酸化物などを混ぜ合わせ、水を加えてペースト状にし、鋳型に入れて作品を象り、釉薬(うわぐすり)をかけて焼かれたものです。釉薬はナトロンと石灰、シリカからなり、「風解」と呼ばれる技法で施釉されます。すなわち、作品にまぶされた石英が乾くにつれて作品の表面に付着して被膜を作り、その被膜が熱せられて釉薬になります。施釉の技法にはその他にも「膠着」や「塗布施釉」があります。ファイアンスは先王朝時代からイスラム時代まで作られ、トルコ石やラピスラズリを模倣して美しい青色や緑色をしており、護符、ウシャブティ、容器、象眼細工などの工芸品によく見られます。F. D. Friedman ed., Gifts of the Nile : Ancient Egyptian Faience, London, 1998にすばらしいファイアンス製品のカラー写真が多数掲載されていますので、一度ご覧下さい。(西村)
質問48. ヌビアがイスラム化されたのはいつですか? (美馬)
ヌビアにイスラム教徒の侵入が始まったのは641/2年からです。ヌビアでは6世紀以来二つのキリスト教国が栄えていましたが、イスラム教の侵入者たちに奴隷や黄金を貢納して、完全服従を免れていました。しかし、アイユーブ朝以降ヌビア遠征が積極的に行われ、ついに14世紀にマムルーク朝の属領とされました。アラブ人の移住は9世紀後半以降まずアスワンで起こり、次第にヌビア人と混血し、14世紀には完全に下ヌビアはアラブ化します。上ヌビアは16世紀にイスラム教徒の黒人たちの侵入を受け、アラブ化します。(西村)
質問49. ミイラが薬として使われたのはいつ頃ですか? (藤野)
13世紀初め〜17世紀の約400年間です。当時ヨーロッパではペルシアの瀝青(れきせい、ムミア)が万能薬として重宝されていましたが、採掘が難しかったので、瀝青と見た目が似ている松やにがしみ込んだエジプトのミイラの包帯が代用品として売られるようになりました。さらにもっと安易な方法で荒稼ぎするためにミイラそのものが薬として売られるようになり、16世紀後半にはミイラの偽造まで行われました。もちろんミイラに薬効があるはずがなく、またエジプト政府もミイラの輸出と偽造を厳しく取り締まるようになったので、薬としての使用は終わりを告げました。ちなみに日本にも安土・桃山時代にミイラが蘭学とともに薬として伝わったそうですよ。(西村)
質問50. ルーヴル美術館所蔵のセティ1世とハトホル女神のレリーフにおいて、セティ1世の誕生名にセト・アニマルのサインの代わりにアテフ冠をかぶったオシリス神のサインが使われているのはなぜですか? セティ1世が死んでオシリスになったからですか? (中尾)
ルーヴル美術館所蔵のセティ1世とハトホル女神のレリーフは王墓の柱を装飾していたものなので、王墓全体で綴りを調べてみたところ、一貫してセト・アニマルのサインの代わりにアテフ冠をかぶったオシリス神のサインが使われていました。またアビュドスの葬祭神殿では、一貫してセト・アニマルのサインの代わりにアテフ冠または白冠をかぶったオシリス神+イシス女神の結び目のサインが使われていました。その理由については、アビュドスはオシリス神の信仰地であること、王墓はオシリス神が支配する冥界の領域であることから、オシリス神に特別な敬意を払ってサインの置き換えをしたのではないか、と推測します。ただしセト神を名前に含む他の王たちは同様な置き換えをしていないので、この推測が正しいかど うかは不明です。(西村)
[Back to Essays]
0 コメント:
コメントを投稿