西 村 洋 子 の 雑 記 帳 (11) (1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10)(12)(13)(14)(15)もご覧下さい。
2010年10月15日(金)
昨夜10:00〜11:00にナショナルジオグラフィックチャンネルで「銀の棺のファラオ」という番組がありました。第21王朝プスセンネス1世に関連した番組で、第三中間期のファラオが取り上げられるのは珍しいので、録画して観ました。
ヨーロッパでは1939年9月1日の、ドイツのポーランド侵攻を契機に第二次世界大戦が始まりましたが、その頃ナイルデルタのタニスで考古学史上重要な発見がありました。ピエール・モンテ教授率いるフランス考古学調査隊はタニスで10年以上アメン大神殿の遺跡の発掘を続けていました。エジプトでは約170人の王が君臨したにもかかわらず、70人の王の墓がいまだに発見されていません。モンテ教授は大神殿を取り囲む分厚い日干しレンガの壁の内側に未発掘の墓があるかもしれないと信じていました。そして1939年2月27日にアメン大神殿の壁のそばに王家の墓らしき建造物を発見しました。それは紀元前850年頃の王家の墓でした。玄室の天井にはすでに盗掘の穴が開いていましたが、墓碑銘には第22王朝オソルコン2世の名前が彫ら� �ていて、王の親族も埋葬されていました。モンテ教授は早速発掘範囲を10mほど広げるように作業員たちに指示しました。1940年2月15日、盗掘された墓の隣で未盗掘の墓を発見しました。玄室の前の小部屋で、彼はパーセバーハーエヌニウト・メリーアメン(直訳すると「都に昇る星、アメン神に愛されし者」、紀元前1047-1001年在位)すなわち第21王朝プスセンネス1世の名前を発見しました。当時テーベの支配者たちについてはよく知られていましたが、プスセンネス1世に関する知識はほとんど皆無でした。玄室への入口は巨大な花崗岩で閉ざされていたため、彼は6日間岩を砕きました。そしてついに1940年2月21日、玄室に足を踏み入れました。モンテ教授は「アラビアン・ナイトの世界だった。」と言いました。豪華な副葬品が収められていた からです。王の棺は部屋のほとんどを占める巨大な石棺(JE87297)の中に収められていました。石棺の巨大な蓋はカイロ博物館に収蔵されています。石棺の中には第二の石棺(JE85911)が収められていました。つまり二重の石棺で王の棺が守られていました。1940年2月28日、調査隊の後援者であったエジプト国王ファールーク1世が世紀の瞬間に立ち会うためにモンテ教授を訪問しました。国王は財宝に関心がありました。王の棺は銀製の人型棺(JE85917)でした。しかもミイラは黄金のマスク(JE85913)をつけていました。黄金と銀の他にもラピスラズリが大量に使われていました。副葬品にはどれも王のカルトゥーシュが彫られていました。財宝の価値はその量と細工の質の高さから分かりました。経済が衰退し、エジプトが南北に分裂し、他国からの侵� �にも脅かされていた暗黒時代と思われていた第三中間期の、無名の王の墓が歴代の偉大な王たちの墓に匹敵するほどの豪華さでした。しかし、モンテ教授にはすべての出土品を調べる余裕がありませんでした。ヒトラーの軍隊がフランス国境に迫り、数週間以内に侵攻を始める勢いだったからです。モンテ教授は発掘隊を解散し、家族のいるフランスに急いで帰国し、その後5年間エジプトを訪れることはありませんでした。出土品は保管のためカイロ博物館に移送されました。第二次世界大戦のためプスセンネス1世の墓はほとんど話題にならず、モンテ教授の功績もよく知られないままでした。
さて、プスセンネス1世のミイラを調査したのは、ツタンカーメン王のミイラを調査したカイロ大学解剖学教授ダグラス・デリーでした。デルタで発見されたミイラは腐食しやすく、調査が困難でした。そのためデリー教授はプスセンネス1世のミイラの一部を調査したという方が正確です。調査結果は論文"An Examination of the Bones of King Psusennes"に発表されましたが、プスセンネス1世が亡くなったとき高齢だったということを突き止めただけでした。王のミイラはその後大学の資料室の奥深くに収められ、70年間忘れ去られました。今デリー教授の後継者で、カイロ大学のファウジー・ガバラー教授が王のミイラの再調査に乗り出しました。筋肉や皮膚は失われていますが、骨から生前の王について多くのことが分かります。王の身長は約166cm、がっしりした体格で、平均寿命が35歳だった時代に80歳近くまで生きました。王の第七頸椎には一度折れて、再び完治した跡があります。それは疲労骨折の一種でした。上腕を酷使したための損傷も見られます。腰の部分の背骨にはリューマチ性疾患が見られ、石柱の靱帯が骨のように硬くなっています。
次に法医学的な技術を駆使して王の在りし日の姿を解明します。法医学アーティストのメリッサ・ドリング女史は王の素描を描きながら次のように解説しました。王は頭が大きく、身長は低めで、精力的に身体を動かしていた。右目の位置が左目の位置よりもわずかに高いこと、ほお骨の始まる位置と終わる位置が左右でずれていることに注目し、口はきつく結ばれ、毅然とした厳格な表情をしていたと推測します。
プスセンネス1世の素描は、下記のURLをご覧下さい。
王は身体が丈夫で長生きしたため、権威ある統治者だったでしょう。プスセンネス1世は46年間統治しました。しかし、プスセンネス1世のような偉大な王ですら南部の支配者たちと国を二分せざるを得なかったのはなぜでしょうか? 原因はラムセス2世です。彼がデルタ地帯に新しい王都ペル・ラムセスを建設したために、王国のバランスを崩すことになりました。テーベではカルナックのアメン神の神官長たちが王に対抗出来るほどの力を持ちました。彼らは神殿を運営する実業家であり、軍隊を指揮することも出来ました。アメン神の神官長たちがそれほどの力を持つようになったのなぜでしょうか? 王が神殿に領地を与えると、その領地で神官たちは儀式を行い、自分の石像を立て、名声を誇示しました。王は神官たちに漁業 や狩猟の権利を与え、ナイル河の交易を許可することもありました。それで神官たちは富を築くことが出来たのです。裕福になった神官たちはついに自分が王になろうと考えました。プスセンネス1世が即位する少し前、神官長は王と同等の権力を獲得していました。カルナックのアメン神の神官長たちはメンフィス以南を支配し、王はデルタ地帯に追いやられました。
それでは、プスセンネス1世は狭い領土でどうやって巨万の富を築いたのでしょうか? 彼はアメン神の神官長でもあることが小さな杯の銘文から知られます。つまり、プスセンネス1世には王としての収入(民からの租税)と神官長としての収入があったのです。さらにプスセンネス1世は紀元前1,070年頃のカルナックのアメン神の神官長パネジェム1世界の息子でした。パネジェム1世の4人の息子のうち3人が彼の後を継ぎましたが、そのうちの一人がプスセンネス1世でした。王になったプスセンネス1世にはアメン神官長の地位も与えられました。そしてカルナックのアメン神の神官長になった自分の兄弟の下に娘を嫁がせました。つまり、王は家族のつながりを武器に政略結婚や同盟によって富や権力を勝ち取ったのです。
モンテ教授はタニスこそペル・ラムセスだと確信しました。というのは、タニスで発見された多くの石材にラムセス2世の名前が彫られていたからです。しかし、デルタにはナイル川のたくさんの支流があり、川の流れは常に変わりました。泥が堆積して次第に陸地になる地域もあれば、水没する地域もありました。1970年代にタニスから20kmほど離れた小さな集落で調査していた考古学者たちはモンテ教授の説に疑問を抱きました。というのは、彼らはモンテ教授が見落としていた支流で新たな都市の痕跡を発見したからです。そこからはラムセス時代の大量の陶器が出土しました。そこで、地中探査レーダーを持ち込んでスキャンしたところ、巨大な都市が現れました。その都市には神殿や軍事施設までありました。ラムセス2世の 厩舎まで見つかりました。今は地中に埋もれていますが、信じられないくらいに巨大な都市にラムセス2世の都(=ペル・ラムセス)である証拠があふれていました。
マンフレッド・ビータック博士たちが発掘調査しているテル・エル・ダヴァ〜カンティールにかけての地域のことですね。このことについては「西村洋子の雑記帳(3)」の2007年4月4日の記事をご覧下さい。ここを流れていたナイル川の支流は泥が堆積してせき止められ、進路を変えたことが分かっています。ペル・ラムセスは乾燥した荒れ地となり、人が住めなくなりました。それは紀元前1,047年頃のプスセンネス1世の即位直前のことでした。そこで、プスセンネス1世はペル・ラムセスの建造物を解体し、タニスに移しました。タニスの遺跡とスキャンしたペル・ラムセスの画像を比べてみると、二つの都市の神殿はそっくり同じ作りだったことが分かりました。プスセンネス1世はペル・ラムセスを自分の都市に取り込み、自分の� �力と権威の高さを世に見せつけたのです。これは統率のとれた労働者たちと有能な役人たちを率いていなければ出来ない大事業でした。王はそれだけの才能と行動力を備えていたのです。
ところで、プスセンネス1世はなぜ銀の棺を選んだのでしょうか? 古代エジプトでは黄金は神々の肉体とされ、銀は神々の骨とされました。黄金はヌビアの東部砂漠で豊富に算出しましたが、銀は乏しかったので、もっと早い時代にはとても貴重でした。しかし、プスセンネス1世の時代には交易を通じて黄金の半分の価値で銀を購入することが出来ました。考古学者で銀細工職人のジョン・プリベット氏はプスセンネス1世の銀の棺を研究しています。銀は加工するのに相当な労力と技術を要します。黄金は柔らかくて加工しやすいですが、銀はまったくその逆です。加熱して結晶構造を柔らかくしてからでないと加工出来ないし、それを何度も繰り返す必要があります。プスセンネス1世の棺は重さ90kgの銀で出来ていました。胴体� ��薄い銀板を打ち出して作られていたので、発掘の際一部破損しましたが、頭部は暑い銀で出来ており、鋳造の後槌で打って整えられたことが分かります。古代エジプトでは鋳造技術が発達しており、まず鋳型に銀を流し込み、原型を作り、それを磨いてはのみで削り、王の顔を形作りました。それは厖大な手間と時間を要する作業でした。
モンテ教授は1966年に死亡しました。彼は自分が発見した都市がペル・ラムセスではなかったことを知らずに亡くなりました。しかし、プスセンネス1世の墓の発見が考古学史上重要な出来事だったことに変わりはありません。プスセンネス1世は徐々に注目を集めつつあります。私たちはプスセンネス1世を再評価する必要があります。
現在のタニスの調査については、下記のURLをご覧下さい。
ナショナルジオグラフィックチャンネルからの写真は、下記のURLをご覧下さい。
プスセンネス1世については、「古代エジプトの歴史 24. 第三中間期(2)」もご覧下さい。
2010年12月31日(金)
12月16日(木)から毎週ヒストリーチャンネルで新シリーズ「密着 ザヒ・ハワス博士のミイラ発掘」が始まりました。放送時間帯は22:00〜23:00です。華々しい考古学上の発見や新説の紹介ではなく、日々の考古学の実践を追うドキュメンタリー番組です。全10回で、12月はそのうちの2回が放送されました。
初回は「末期王朝のミイラ」です。ハワス博士は「エジプト人の過去は私たちみんなの過去でもある。これぞ歴史なんだ。」と語ります。ハワス博士は撮影スタッフからは「ファラオ」と呼ばれて恐れられています。エグゼクティブ・プロデューサーのゴーハー氏によると、ハワス博士は「気が短くて、誰かがへまをすると許せなくて、すぐにカッとなって怒り出す。しかし、心優しい人だ。」そうです。
番組の前半は考古学研修生がジョセル王の階段ピラミッドの地下に閉じ込められる事件についてでした。ハワス博士は20年間サッカラの階段ピラミッドで修復作業をしています。この日クレア・ジョンソンという考古学研修生が来る予定でしたが、何かの手違いで、ゾーイというカナダ人女性の考古学研修生がやってきました。ハワス博士はとても忙しいので、挨拶もそこそこにどこかへ行ってしまいました。そこでゾーイは研修制度コーディネーターのアラン・モートン博士に頼んでサッカラの階段ピラミッドの地下を見学させてもらいました。