2012年5月31日木曜日


アフリカ系アメリカ人(英語: African-American)は、アメリカ合衆国民のうち、アフリカ出身の黒人(ネグロイド)もしくはその子孫である。アフリカン・アメリカン、アフロアメリカン、アメリカ黒人。

アフリカ系アメリカ人という言葉には黒人を意味する語は入っていないが、コーカソイドに属する北アフリカ系アメリカ人は含まない。

大半は、19世紀半ばの南北戦争以前にアフリカ(サハラ砂漠以南のブラックアフリカ)から奴隷貿易によりアメリカに連れてこられた奴隷の子孫である。ただし若干だが、より新しい時代に自由な移民として渡米した黒人やその子孫もいる。彼らをアフリカ系 (African) と呼ぶべきかどうかについて、また、黒人 (Black) と呼ぶべきかどうかについては、論争がある。中米に奴隷として送られたのちに移民として渡米するなど、より複雑な経緯を持つ者もいる。

奴隷として連れて来られた際は出身集団や民族集団が異なっていたが、奴隷制度によって民族・文化的なつながりが乏しくなり、また、長い年月によって混血が進んだため、民族集団ではなく、アメリカ合衆国に在住する黒人の人種コミュニティとして度々用いられている(米国内の黒人人種比率: 12.9%、2005年)。

アフリカ系アメリカ人は、長い間人種差別の対象とされ苦難の道を歩んできたが、現在はブラジルなど他のヨーロッパ系主体の移民国家のアフリカ系住民より社会進出が進んでおり、ホワイトカラーや軍人、俳優やスポーツ選手で活躍する場合も多く、多数の閣僚を輩出するなど、国政の中枢にまで上りつめるようになった。

以前は「ニグロ」(negro、ニガー - nigger)などとも呼ばれたが、これは1960年代の公民権運動の高まり(「ブラック・パワー」)以来差別用語とされている。 その一方、アフリカ系アメリカ人男性同士の人類同胞主義の表現として「ニガ (nigga) 」が使われる事も多々あり、その傾向は特にラップ音楽において顕著である。しかし日本人などの黄色人種や白人系アメリカ人を含め、アフリカ系アメリカ人以外の者達がこの表現を使う事は差別的言動とみなされる。

民族的回帰運動でもある「ブラック・パワー」を提起した黒人たちは、「ブラック・イズ・ビューティフル(黒は美しい)」をスローガンに掲げ、白人から否定され、自らも否定してきた黒人の人種的特徴を「黒人らしさ」として逆に強調し、彼らの民族的アイデンティティーを主張する表現のひとつとしてアフロヘアーという髪型も生み出した。彼らはキリスト教からイスラム教へ改宗したほか、自らを「ブラック(黒人)」と自称し、これは現在の黒人たちの一般的な自称となっている。

[編集] 定義に関する論争

移民大国のアメリカには、現在に至ってもアフリカ、中南米やカリブ海諸国から黒人の移民がやってくる。しかし、彼等はアメリカによってアフリカから連れて来られた黒人奴隷の子孫でない(中南米やカリブ海諸国から来た場合はスペインやフランス、イギリスなどにより連れて来られた黒人奴隷の子孫である)ことから、アメリカ国籍を持っていない場合は、「アフリカ系アメリカ人」という呼び名は当てはまらないとの指摘もある。例えば、コリン・パウエルはアフリカからジャマイカを経由しアメリカに来た移民の子であり、カリビアン・アメリカンが正当な名称であるが、実際にはアメリカ国籍を持ちアフリカにルーツを持つ場合は、アフリカ系アメリカ人と呼ばれているのが現実である。また「初のアフリカ系大統領」と呼� ��れるバラク・オバマもケニヤ人を父親にもつイングランド系アメリカ人だという認識もできる。これは高祖父がサウスカロライナの黒人奴隷だった、すなわち「奴隷の末裔」(マーチー・ルーサー・キングJr.)のミシェル・オバマとは対照的である。

2012年5月19日土曜日


 一カ月後に迫った名古屋ウィメンズマラソンに関する記事が紙面に載るようになってきました。

 他人から強制されれば、苦役でしかない四二・一九五キロ。女性には過酷すぎるという見方もあり、オリンピックに女子マラソンが採用されたのは一九八四年のロサンゼルス大会でした。

2012年5月17日木曜日


あまりにも有名な剣で昔からいろんなゲームに登場しています、その名も「竜殺し」でありドラゴンタイプのクリーチャーに有効(あるいは致命的)であるという設定は共通していますがその形状は特に定まっていません。
ドラゴンを退治した人物(あるいは集団)をドラゴンスレイヤーと呼ぶこともあります。
さて、ドラゴンスレイヤーの形状は一般的には普通の片手剣をしていますが、剣という武器はあくまで人間に対して考案された武器であり、巨大なドラゴンと戦うには適した形状とはいえないように思います。

その論拠として、


以上の2つがあります。もちろん2〜3m程度の大きさのドラゴンなら通常の剣でもそれなりに効果を上げるでしょうが、退治して名声が轟くほど凶悪なドラゴンは大概10m近い巨体で描� �れています。

でもやはり武器としてのドラゴンスレイヤーは剣であって欲しい!そこでドラゴンスレイヤーとはどういう武器(剣)なのか考えると可能性として次のものがあると思います。

2012年5月15日火曜日


Diplomat Innはオンタリオ州ナイアガラフォールズにあるホテルで、スカイロンタワーから徒歩7分です。虹の形の屋外プール、高速インターネット回線、広々とした客室(ケーブルテレビ付)を提供しています。 伝統的な内装の客室には冷蔵庫、コーヒーメーカー、シーティングエリアが備わり、市内通話を無料で利用できます。スパバス付きの客室もあります。...

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2012年5月14日月曜日


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2012年5月12日土曜日


西 村 洋 子 の 雑 記 帳 (11)

(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10)(12)(13)(14)(15)もご覧下さい。

2010年10月15日(金)

昨夜10:00〜11:00にナショナルジオグラフィックチャンネルで「銀の棺のファラオ」という番組がありました。第21王朝プスセンネス1世に関連した番組で、第三中間期のファラオが取り上げられるのは珍しいので、録画して観ました。

ヨーロッパでは1939年9月1日の、ドイツのポーランド侵攻を契機に第二次世界大戦が始まりましたが、その頃ナイルデルタのタニスで考古学史上重要な発見がありました。ピエール・モンテ教授率いるフランス考古学調査隊はタニスで10年以上アメン大神殿の遺跡の発掘を続けていました。エジプトでは約170人の王が君臨したにもかかわらず、70人の王の墓がいまだに発見されていません。モンテ教授は大神殿を取り囲む分厚い日干しレンガの壁の内側に未発掘の墓があるかもしれないと信じていました。そして1939年2月27日にアメン大神殿の壁のそばに王家の墓らしき建造物を発見しました。それは紀元前850年頃の王家の墓でした。玄室の天井にはすでに盗掘の穴が開いていましたが、墓碑銘には第22王朝オソルコン2世の名前が彫ら� �ていて、王の親族も埋葬されていました。モンテ教授は早速発掘範囲を10mほど広げるように作業員たちに指示しました。1940年2月15日、盗掘された墓の隣で未盗掘の墓を発見しました。玄室の前の小部屋で、彼はパーセバーハーエヌニウト・メリーアメン(直訳すると「都に昇る星、アメン神に愛されし者」、紀元前1047-1001年在位)すなわち第21王朝プスセンネス1世の名前を発見しました。当時テーベの支配者たちについてはよく知られていましたが、プスセンネス1世に関する知識はほとんど皆無でした。玄室への入口は巨大な花崗岩で閉ざされていたため、彼は6日間岩を砕きました。そしてついに1940年2月21日、玄室に足を踏み入れました。モンテ教授は「アラビアン・ナイトの世界だった。」と言いました。豪華な副葬品が収められていた からです。王の棺は部屋のほとんどを占める巨大な石棺(JE87297)の中に収められていました。石棺の巨大な蓋はカイロ博物館に収蔵されています。石棺の中には第二の石棺(JE85911)が収められていました。つまり二重の石棺で王の棺が守られていました。1940年2月28日、調査隊の後援者であったエジプト国王ファールーク1世が世紀の瞬間に立ち会うためにモンテ教授を訪問しました。国王は財宝に関心がありました。王の棺は銀製の人型棺(JE85917)でした。しかもミイラは黄金のマスク(JE85913)をつけていました。黄金と銀の他にもラピスラズリが大量に使われていました。副葬品にはどれも王のカルトゥーシュが彫られていました。財宝の価値はその量と細工の質の高さから分かりました。経済が衰退し、エジプトが南北に分裂し、他国からの侵� �にも脅かされていた暗黒時代と思われていた第三中間期の、無名の王の墓が歴代の偉大な王たちの墓に匹敵するほどの豪華さでした。しかし、モンテ教授にはすべての出土品を調べる余裕がありませんでした。ヒトラーの軍隊がフランス国境に迫り、数週間以内に侵攻を始める勢いだったからです。モンテ教授は発掘隊を解散し、家族のいるフランスに急いで帰国し、その後5年間エジプトを訪れることはありませんでした。出土品は保管のためカイロ博物館に移送されました。第二次世界大戦のためプスセンネス1世の墓はほとんど話題にならず、モンテ教授の功績もよく知られないままでした。

さて、プスセンネス1世のミイラを調査したのは、ツタンカーメン王のミイラを調査したカイロ大学解剖学教授ダグラス・デリーでした。デルタで発見されたミイラは腐食しやすく、調査が困難でした。そのためデリー教授はプスセンネス1世のミイラの一部を調査したという方が正確です。調査結果は論文"An Examination of the Bones of King Psusennes"に発表されましたが、プスセンネス1世が亡くなったとき高齢だったということを突き止めただけでした。王のミイラはその後大学の資料室の奥深くに収められ、70年間忘れ去られました。今デリー教授の後継者で、カイロ大学のファウジー・ガバラー教授が王のミイラの再調査に乗り出しました。筋肉や皮膚は失われていますが、骨から生前の王について多くのことが分かります。王の身長は約166cm、がっしりした体格で、平均寿命が35歳だった時代に80歳近くまで生きました。王の第七頸椎には一度折れて、再び完治した跡があります。それは疲労骨折の一種でした。上腕を酷使したための損傷も見られます。腰の部分の背骨にはリューマチ性疾患が見られ、石柱の靱帯が骨のように硬くなっています。

次に法医学的な技術を駆使して王の在りし日の姿を解明します。法医学アーティストのメリッサ・ドリング女史は王の素描を描きながら次のように解説しました。王は頭が大きく、身長は低めで、精力的に身体を動かしていた。右目の位置が左目の位置よりもわずかに高いこと、ほお骨の始まる位置と終わる位置が左右でずれていることに注目し、口はきつく結ばれ、毅然とした厳格な表情をしていたと推測します。

プスセンネス1世の素描は、下記のURLをご覧下さい。

王は身体が丈夫で長生きしたため、権威ある統治者だったでしょう。プスセンネス1世は46年間統治しました。しかし、プスセンネス1世のような偉大な王ですら南部の支配者たちと国を二分せざるを得なかったのはなぜでしょうか? 原因はラムセス2世です。彼がデルタ地帯に新しい王都ペル・ラムセスを建設したために、王国のバランスを崩すことになりました。テーベではカルナックのアメン神の神官長たちが王に対抗出来るほどの力を持ちました。彼らは神殿を運営する実業家であり、軍隊を指揮することも出来ました。アメン神の神官長たちがそれほどの力を持つようになったのなぜでしょうか? 王が神殿に領地を与えると、その領地で神官たちは儀式を行い、自分の石像を立て、名声を誇示しました。王は神官たちに漁業 や狩猟の権利を与え、ナイル河の交易を許可することもありました。それで神官たちは富を築くことが出来たのです。裕福になった神官たちはついに自分が王になろうと考えました。プスセンネス1世が即位する少し前、神官長は王と同等の権力を獲得していました。カルナックのアメン神の神官長たちはメンフィス以南を支配し、王はデルタ地帯に追いやられました。

それでは、プスセンネス1世は狭い領土でどうやって巨万の富を築いたのでしょうか? 彼はアメン神の神官長でもあることが小さな杯の銘文から知られます。つまり、プスセンネス1世には王としての収入(民からの租税)と神官長としての収入があったのです。さらにプスセンネス1世は紀元前1,070年頃のカルナックのアメン神の神官長パネジェム1世界の息子でした。パネジェム1世の4人の息子のうち3人が彼の後を継ぎましたが、そのうちの一人がプスセンネス1世でした。王になったプスセンネス1世にはアメン神官長の地位も与えられました。そしてカルナックのアメン神の神官長になった自分の兄弟の下に娘を嫁がせました。つまり、王は家族のつながりを武器に政略結婚や同盟によって富や権力を勝ち取ったのです。

モンテ教授はタニスこそペル・ラムセスだと確信しました。というのは、タニスで発見された多くの石材にラムセス2世の名前が彫られていたからです。しかし、デルタにはナイル川のたくさんの支流があり、川の流れは常に変わりました。泥が堆積して次第に陸地になる地域もあれば、水没する地域もありました。1970年代にタニスから20kmほど離れた小さな集落で調査していた考古学者たちはモンテ教授の説に疑問を抱きました。というのは、彼らはモンテ教授が見落としていた支流で新たな都市の痕跡を発見したからです。そこからはラムセス時代の大量の陶器が出土しました。そこで、地中探査レーダーを持ち込んでスキャンしたところ、巨大な都市が現れました。その都市には神殿や軍事施設までありました。ラムセス2世の 厩舎まで見つかりました。今は地中に埋もれていますが、信じられないくらいに巨大な都市にラムセス2世の都(=ペル・ラムセス)である証拠があふれていました。

マンフレッド・ビータック博士たちが発掘調査しているテル・エル・ダヴァ〜カンティールにかけての地域のことですね。このことについては「西村洋子の雑記帳(3)」の2007年4月4日の記事をご覧下さい。ここを流れていたナイル川の支流は泥が堆積してせき止められ、進路を変えたことが分かっています。ペル・ラムセスは乾燥した荒れ地となり、人が住めなくなりました。それは紀元前1,047年頃のプスセンネス1世の即位直前のことでした。そこで、プスセンネス1世はペル・ラムセスの建造物を解体し、タニスに移しました。タニスの遺跡とスキャンしたペル・ラムセスの画像を比べてみると、二つの都市の神殿はそっくり同じ作りだったことが分かりました。プスセンネス1世はペル・ラムセスを自分の都市に取り込み、自分の� �力と権威の高さを世に見せつけたのです。これは統率のとれた労働者たちと有能な役人たちを率いていなければ出来ない大事業でした。王はそれだけの才能と行動力を備えていたのです。

ところで、プスセンネス1世はなぜ銀の棺を選んだのでしょうか? 古代エジプトでは黄金は神々の肉体とされ、銀は神々の骨とされました。黄金はヌビアの東部砂漠で豊富に算出しましたが、銀は乏しかったので、もっと早い時代にはとても貴重でした。しかし、プスセンネス1世の時代には交易を通じて黄金の半分の価値で銀を購入することが出来ました。考古学者で銀細工職人のジョン・プリベット氏はプスセンネス1世の銀の棺を研究しています。銀は加工するのに相当な労力と技術を要します。黄金は柔らかくて加工しやすいですが、銀はまったくその逆です。加熱して結晶構造を柔らかくしてからでないと加工出来ないし、それを何度も繰り返す必要があります。プスセンネス1世の棺は重さ90kgの銀で出来ていました。胴体� ��薄い銀板を打ち出して作られていたので、発掘の際一部破損しましたが、頭部は暑い銀で出来ており、鋳造の後槌で打って整えられたことが分かります。古代エジプトでは鋳造技術が発達しており、まず鋳型に銀を流し込み、原型を作り、それを磨いてはのみで削り、王の顔を形作りました。それは厖大な手間と時間を要する作業でした。

モンテ教授は1966年に死亡しました。彼は自分が発見した都市がペル・ラムセスではなかったことを知らずに亡くなりました。しかし、プスセンネス1世の墓の発見が考古学史上重要な出来事だったことに変わりはありません。プスセンネス1世は徐々に注目を集めつつあります。私たちはプスセンネス1世を再評価する必要があります。

現在のタニスの調査については、下記のURLをご覧下さい。

ナショナルジオグラフィックチャンネルからの写真は、下記のURLをご覧下さい。

プスセンネス1世については、「古代エジプトの歴史 24. 第三中間期(2)」もご覧下さい。

2010年12月31日(金)

12月16日(木)から毎週ヒストリーチャンネルで新シリーズ「密着 ザヒ・ハワス博士のミイラ発掘」が始まりました。放送時間帯は22:00〜23:00です。華々しい考古学上の発見や新説の紹介ではなく、日々の考古学の実践を追うドキュメンタリー番組です。全10回で、12月はそのうちの2回が放送されました。

初回は「末期王朝のミイラ」です。ハワス博士は「エジプト人の過去は私たちみんなの過去でもある。これぞ歴史なんだ。」と語ります。ハワス博士は撮影スタッフからは「ファラオ」と呼ばれて恐れられています。エグゼクティブ・プロデューサーのゴーハー氏によると、ハワス博士は「気が短くて、誰かがへまをすると許せなくて、すぐにカッとなって怒り出す。しかし、心優しい人だ。」そうです。

番組の前半は考古学研修生がジョセル王の階段ピラミッドの地下に閉じ込められる事件についてでした。ハワス博士は20年間サッカラの階段ピラミッドで修復作業をしています。この日クレア・ジョンソンという考古学研修生が来る予定でしたが、何かの手違いで、ゾーイというカナダ人女性の考古学研修生がやってきました。ハワス博士はとても忙しいので、挨拶もそこそこにどこかへ行ってしまいました。そこでゾーイは研修制度コーディネーターのアラン・モートン博士に頼んでサッカラの階段ピラミッドの地下を見学させてもらいました。

2012年5月11日金曜日


 ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』は1970年代のイタリアの政治状況を中世の教会世界に移していた‥‥という説がある。ほんとうかどうかは知らないが、もしそうだとすると、エーコが関心をもった政治状況の中心にはアントニオ・ネグリの動向が大きく印象づけられていたということになる。実際にもエーコはしばしばネグリについて発言した。
 ネグリはエーコに惚れられるにふさわしい武勇伝の持ち主だった。いや、武勇はいまなお続いているし、これからも何がおこるかわからない。ネグリといえば「赤い旅団」や「逃走」や「亡命」が有名なので、その武勇伝にばかり話題が走るか、あるいは「アウトノミア」やマイケル・ハートとの共著『帝国』の話題に走りがちなのだが、それだけではネグリは語れない。ネグリにはつねに「生政治性」(ビオポリティーク)というものがある。
 しかし、なるほど武勇伝も痛快である。そこで以下は、これらを適宜交ぜながら、これまでの活動を総じてふりかえりたい。

 アントニオ・ネグリは1933年にパドヴァに生まれた。父親がイタリア共産党の創立メンバーで、ネグリが2歳のときにファシストに惨殺された。ムッソリーニのファシスト党が絶頂期のときに、これに真っ向から対決する革命地下組織をつくろうとしたのだから、少年ネグリにとっては父親の惨殺は政治社会というものの惨(むご)たらしい本質を告げたのは当然だ。
 その惨たらしさにどう復讐するか。少年は少年にしてすでにコミュニストの顔付きをする。実は祖父や義兄も共産主義者だった。
 ネグリは青年期には筋金入りの組織労働運動の活動家になっていた。とくに1956年のハンガリー動乱(マルクス主義陣営ではしばしばハンガリー革命とよぶ)のさなかに創刊された「クァデルニ・ロッシ」(赤い手帖)に参画したのが大きく、そのときからは公然と政治活動と表現活動にとりくんだ。その第一弾がマッシモ・カッチャリらと携わった「クラッセ・オペライア」(労働者階級)の創刊と「オペライア主義」(労働者主義)や「オペライスム・イタリアン」(イタリア労働者主義)の計画である。このときネグリはすでに「労働の拒否」というラディカルなスローガンを出している。
 この「労働の拒否」を行動メッセージとした活動は、のちにネグリが「ビオス」という言葉でまとめたスタイルになっていく。ビオスは「生のスタイルをともなった活動あれこれのアクチュアリティ」といった意味だと思うのだが、そこにネグリは「知識と行動はともにビオスでなければならない」という付加価値をこめていた。これが「生政治性」(ビオポリティーク)の発芽になった。

2012年5月9日水曜日


シルクロード研究(2):万里長城編

シルクロード研究(2):万里長城編

 ― 私が見た万里の長城 ―

 私が初めて真近に見た「万里の長城」は、北京の北西にある「八達嶺」である。煉瓦造りの堅固な城壁の上につくられた階段状の道を登って行くと狼煙台があり、そこから眺めると、山の稜線に沿って蛇がくねるように、長城がどこまでも続いていた。決して大袈裟な表現ではなく、実に感動を覚える程の素晴らしい光景であった。

 先般の「中国・シルクロードの旅」では、敦煌郊外の玉門関近くにある「漢の長城」と、上記した武威〜張掖にかけて残っている「明と漢の時代の万里長城」を見た。

― 万里の長城の歴史 ―

 「万里の長城」は紀元前221年に中国統一を果たした「蓁の始皇帝」が造ったと教科書などには載っているが、始皇帝によって創建されたものでは無く、長城がはじめて建設されたのは紀元前5世紀前後にさかのぼる。
この頃、北方に住む遊牧騎馬民族が度々中国に侵入して来ており、それに備えるために各地の諸侯達が長城の建設を始めた。つまり、始皇帝の長城というのは、既に戦国期に、蓁、魏、趙、燕などが独自に築いていた幾つもの長城(土塁)を繋ぎ合わせ、これを修復し、更に延長したものなのである。
始皇帝のいた紀元前3世紀頃には匈奴による侵略に悩まされていたが、その後も北からの脅威は中国の長い歴史を通じて常に続いた。万里長城とは、農耕 民族である中国人が北からの脅威、つまりは、北方地域に住む遊牧民族の騎馬による侵略を防ぐために築いた、長い長い土の防塁なのだ。
 蓁・始皇帝時代の長城は、次の漢王朝によって更に延長されるなど、歴代の中国皇帝達によって、補強と改修が何度も繰り返されるが、7世紀の唐の時代には、戦略的な価値が低いとして長城に対する関心が一時的に薄れたこともあった。

 どこまでも延々と続く万里長城を見ていて思ったのは、「偉大ではあるが、時としてバカバカしいとすら思えるこの歴史的建造物は、一体全体どんな理由で造られ、また、歴史的に見て、実際にどんな意味や役割を果たしたのであろうか」ということだった。しかもその陰には、建設に狩り出された多くの農民達の血と汗と失われた命があり、また、何時攻めて来るかも分からない敵に備えて、故郷から遠く離れた辺境の地に配備された沢山の防人達がいたのだ。
そこで、以下に「万里長城」の歴史や造られた目的、その他、長城に関する全般的な知識について記すこととしたい。 

 ― 万里長城の総延長距離は約6千キロ ―

2012年5月7日月曜日


瀬高のセロリ

セロリといえば、あの国民的アイドルグループの曲にもなっているように、人によって好き嫌いが分かれる野菜の代表格。もともと、古代ローマやギリシャでは、強精剤や整腸剤としても利用されていたほど栄養豊富な野菜で、あの独特の香りが好みが分かれるところだ。食卓に絶対欠かせない食材かといわれると言葉に詰まるが、あったら普段の料理が何倍も美味しくなる。特にサラダや肉料理、煮込み料理にセロリが加わったときの美味しさといったら。
そんなセロリの日本三大生産地がある。長野県、静岡県。そして、福岡県瀬高町だ。どうして福岡県だけ瀬高町とつけるかというと、その生産量のほとんどが、瀬高町だから。しかも、瀬高町でセロリを作っている農家はわずか28軒で平均年齢は42歳と若い。日本中の農村地を悩ます高齢化や後継者不足をよそに、格段に若い顔ぶれといえるだろう。もちろん、瀬高にもベテランのセロリ農家は健在だが、その次の世代を担う若いファーマーたちへのバトンが順調に受け渡されている。この28軒の農家のみなさんが、九州一はもとより、西日本随一のセロリ生産を担っているのだ。ここでは、瀬高町で新しく誕生した、乾燥スープの素「セロリズッペン」の材料となる、福岡・瀬高町のセロリの話をしようと思う。

もともとセロリはレタスなどと同じく、暑さが苦手で涼しい気候を好む野菜。日本に初めて伝えられたのは、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際。加藤清正が持ち帰ったことから「キヨマサにんじん」などと呼ばれたりもしていた。そんなセロリがどうして、温暖な福岡の瀬高町で栽培されるようになったのか? これは、太平洋戦争終戦後に、米軍が佐世保に基地を設けたことと深い関係がある。日本国内に設けた基地とはいえ、食事は当然洋食。軍人さんやその家族たちが慣れ親しんだ洋食にセロリは欠かせない食材。だが当時、日本にセロリを本格的に栽培している地域はなく、その候補地として瀬高町に白羽の矢がたったのだ。

2012年5月6日日曜日


グレート・ジンバブエ遺跡

グレート・ジンバブエ遺跡

2012年5月4日金曜日


【通訳を探している話】

バンダジェフスキー博士の講演会の通訳を探しています。前にも伝えましたが、ロシア語通訳能力がまずかなり高くて、医療用語に通常以上に認識できる可能性のある方です。ご自身が、レベルもあり、情報精査も含めて、対応できる方は、至急、僕までメールしてください。仕事として依頼する話です。nagaikenji2007092/span>

同時通訳レベルの方なら、なお望ましいです。ある程度の日程は、仮に頼んでいますが、さらに、東京、京都の日程で探してます。また、その現地での講演会開催が、現在は未定ですが、東北や北海道エリアでもお願いする可能性があります。その地域在住の方で、可能性がある方はメール下さい。 

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【バンダジェフスキー講演会の申し込みについて】

現在の講演会日程で確定しているのは下記のとおりです。

3/11 沖縄・那覇 那覇市民会館

3/13  東京・世田谷区等々力  玉川区民会館   e+で2/21より販売開始

3/15  京都 ひとまち交流館

3/18  東京・恵比寿  日仏会館 専門家向けセミナー(終日)

 

バンダジェフスキー博士講演会&専門家セミナーの詳細は下記のとおり。

 

申し込み方法などは、リンクを参照して、注意事項を確認して行って下さい。

 

 

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放射能ガレキ焼却問題について

2012年5月2日水曜日


副島隆彦です。 昨日(26日)は私も、小沢一郎に対する東京地裁の無罪判決をテレビで見ていた。NHK以外は、ほとんど現場からの実況の報道をしなかった。日本のテレビ、新聞は、いよいよ腐りきっている。

それでも、まだ社会部(サツ回りを中心とする実社会の事件を追いかける)には、まともな判断力のある記者たちが残っているだろう。それに期待するしかない。

 小沢一郎への政治裁判、政治弾圧、裁判所・検察庁まで使った違法裁判への、かろうじての無罪の判断があって本当に良かった。 これで、まともな神経をしている小沢派の政治家(国会議員)たちを中心にして、それを支える私たち日本国民の努力が、少しは報われた。私も言論人の端(はし)くれとして、これまで3年間、ずっと、小沢無罪を� �張してたくさんのことを書いてきて嬉しく思う。
 
 
(転載貼り付け始め)

「 小沢被告に無罪判決 陸山会事件」

産経新聞 2012年4月26日 10:14  

 資金管理団体「陸山会」の土地購入をめぐる事件で、政治資金規正法違反(虚偽記載)罪で強制起訴された民主党元代表、小沢一郎被告(69)の判決公判が26日、東京地裁で開かれ、大善文男(だいぜんふみお)裁判長は無罪を言い渡した。求刑は禁錮3年。平成21年5月に導入された強制起訴制度による判決は2例目で、いずれも無罪となった。

 無罪判決が相次いだことで、検察審査会や強制起訴をめぐる議論に影響を与えそうだ。小沢被告は、元秘書らと共謀し、陸山会が平成16年10月に支払った土地取得費計約3億5200万円を、16年分ではなく17年分の政治資金収支報告書に支出として記載した、などとして強制起訴されていた。

 小沢被告は「検察が違法な捜査を行い、検察� ��査会を誘導した」と無罪を主張。(1)検審の起訴議決に基づく起訴の適法性(2)虚偽記載の有無(3)元秘書との共謀の有無-が争点となった。

 小沢被告に「収支報告書の内容を報告し、了承を得た」とする元秘書らの供述調書がほぼ唯一の直接証拠だったが、東京地裁は2月、取り調べに「利益誘導や圧力があった」として大部分を退けた。

 「 全面戦争で検察完敗…小沢氏に軍配 強制起訴は「適法」 」

産経新聞 2012年4月26日

 小沢一郎民主党元代表は初公判から一貫して、起訴議決を出した検察審査会ではなく、捜査を担った検察への批判を繰り広げた。「検察VS小沢氏」の構図となった法廷。裁判所は審理の末、今回の起訴議決に基づく強制起訴を「適法で有効」とし、強制起訴の効� ��に関して初めてとなる司法判断を提示。一方で、捜査を「謀略」と指弾した小沢氏側に軍配を上げて無罪とし、検察当局には衝撃が広がった。

 「今回の事件は民主党の政権交代が現実味を帯びた状況下で、小沢つぶしを画策した検察の謀略だ」 昨年10月6日の初公判の意見陳述。小沢氏は冒頭からこう切り出し、検察との対決姿勢を鮮明にした。

 小沢氏は政治資金収支報告書の処理には関与していないことを強調し、東京地検特捜部について「国民から何の負託も受けていない一捜査機関が、議会制民主政治を踏みにじった。憲政史の汚点として後世に残る」と強く非難した。

2012年5月1日火曜日


どうやら、上手くいけば、5月5日の全人類解放日(全世界が悪の支配者の逮捕を念じる日)から、1か月間の間に創造神の光が地上に降り注ぐことになるようです。

なんだか、ワクワクしますが、その時期に大きな出来事があちこちで起こることが予想されます。