2012年5月12日土曜日

My Notebook-11_西村洋子の雑記帳 (11)


西 村 洋 子 の 雑 記 帳 (11)

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2010年10月15日(金)

昨夜10:00〜11:00にナショナルジオグラフィックチャンネルで「銀の棺のファラオ」という番組がありました。第21王朝プスセンネス1世に関連した番組で、第三中間期のファラオが取り上げられるのは珍しいので、録画して観ました。

ヨーロッパでは1939年9月1日の、ドイツのポーランド侵攻を契機に第二次世界大戦が始まりましたが、その頃ナイルデルタのタニスで考古学史上重要な発見がありました。ピエール・モンテ教授率いるフランス考古学調査隊はタニスで10年以上アメン大神殿の遺跡の発掘を続けていました。エジプトでは約170人の王が君臨したにもかかわらず、70人の王の墓がいまだに発見されていません。モンテ教授は大神殿を取り囲む分厚い日干しレンガの壁の内側に未発掘の墓があるかもしれないと信じていました。そして1939年2月27日にアメン大神殿の壁のそばに王家の墓らしき建造物を発見しました。それは紀元前850年頃の王家の墓でした。玄室の天井にはすでに盗掘の穴が開いていましたが、墓碑銘には第22王朝オソルコン2世の名前が彫ら� �ていて、王の親族も埋葬されていました。モンテ教授は早速発掘範囲を10mほど広げるように作業員たちに指示しました。1940年2月15日、盗掘された墓の隣で未盗掘の墓を発見しました。玄室の前の小部屋で、彼はパーセバーハーエヌニウト・メリーアメン(直訳すると「都に昇る星、アメン神に愛されし者」、紀元前1047-1001年在位)すなわち第21王朝プスセンネス1世の名前を発見しました。当時テーベの支配者たちについてはよく知られていましたが、プスセンネス1世に関する知識はほとんど皆無でした。玄室への入口は巨大な花崗岩で閉ざされていたため、彼は6日間岩を砕きました。そしてついに1940年2月21日、玄室に足を踏み入れました。モンテ教授は「アラビアン・ナイトの世界だった。」と言いました。豪華な副葬品が収められていた からです。王の棺は部屋のほとんどを占める巨大な石棺(JE87297)の中に収められていました。石棺の巨大な蓋はカイロ博物館に収蔵されています。石棺の中には第二の石棺(JE85911)が収められていました。つまり二重の石棺で王の棺が守られていました。1940年2月28日、調査隊の後援者であったエジプト国王ファールーク1世が世紀の瞬間に立ち会うためにモンテ教授を訪問しました。国王は財宝に関心がありました。王の棺は銀製の人型棺(JE85917)でした。しかもミイラは黄金のマスク(JE85913)をつけていました。黄金と銀の他にもラピスラズリが大量に使われていました。副葬品にはどれも王のカルトゥーシュが彫られていました。財宝の価値はその量と細工の質の高さから分かりました。経済が衰退し、エジプトが南北に分裂し、他国からの侵� �にも脅かされていた暗黒時代と思われていた第三中間期の、無名の王の墓が歴代の偉大な王たちの墓に匹敵するほどの豪華さでした。しかし、モンテ教授にはすべての出土品を調べる余裕がありませんでした。ヒトラーの軍隊がフランス国境に迫り、数週間以内に侵攻を始める勢いだったからです。モンテ教授は発掘隊を解散し、家族のいるフランスに急いで帰国し、その後5年間エジプトを訪れることはありませんでした。出土品は保管のためカイロ博物館に移送されました。第二次世界大戦のためプスセンネス1世の墓はほとんど話題にならず、モンテ教授の功績もよく知られないままでした。

さて、プスセンネス1世のミイラを調査したのは、ツタンカーメン王のミイラを調査したカイロ大学解剖学教授ダグラス・デリーでした。デルタで発見されたミイラは腐食しやすく、調査が困難でした。そのためデリー教授はプスセンネス1世のミイラの一部を調査したという方が正確です。調査結果は論文"An Examination of the Bones of King Psusennes"に発表されましたが、プスセンネス1世が亡くなったとき高齢だったということを突き止めただけでした。王のミイラはその後大学の資料室の奥深くに収められ、70年間忘れ去られました。今デリー教授の後継者で、カイロ大学のファウジー・ガバラー教授が王のミイラの再調査に乗り出しました。筋肉や皮膚は失われていますが、骨から生前の王について多くのことが分かります。王の身長は約166cm、がっしりした体格で、平均寿命が35歳だった時代に80歳近くまで生きました。王の第七頸椎には一度折れて、再び完治した跡があります。それは疲労骨折の一種でした。上腕を酷使したための損傷も見られます。腰の部分の背骨にはリューマチ性疾患が見られ、石柱の靱帯が骨のように硬くなっています。

次に法医学的な技術を駆使して王の在りし日の姿を解明します。法医学アーティストのメリッサ・ドリング女史は王の素描を描きながら次のように解説しました。王は頭が大きく、身長は低めで、精力的に身体を動かしていた。右目の位置が左目の位置よりもわずかに高いこと、ほお骨の始まる位置と終わる位置が左右でずれていることに注目し、口はきつく結ばれ、毅然とした厳格な表情をしていたと推測します。

プスセンネス1世の素描は、下記のURLをご覧下さい。

王は身体が丈夫で長生きしたため、権威ある統治者だったでしょう。プスセンネス1世は46年間統治しました。しかし、プスセンネス1世のような偉大な王ですら南部の支配者たちと国を二分せざるを得なかったのはなぜでしょうか? 原因はラムセス2世です。彼がデルタ地帯に新しい王都ペル・ラムセスを建設したために、王国のバランスを崩すことになりました。テーベではカルナックのアメン神の神官長たちが王に対抗出来るほどの力を持ちました。彼らは神殿を運営する実業家であり、軍隊を指揮することも出来ました。アメン神の神官長たちがそれほどの力を持つようになったのなぜでしょうか? 王が神殿に領地を与えると、その領地で神官たちは儀式を行い、自分の石像を立て、名声を誇示しました。王は神官たちに漁業 や狩猟の権利を与え、ナイル河の交易を許可することもありました。それで神官たちは富を築くことが出来たのです。裕福になった神官たちはついに自分が王になろうと考えました。プスセンネス1世が即位する少し前、神官長は王と同等の権力を獲得していました。カルナックのアメン神の神官長たちはメンフィス以南を支配し、王はデルタ地帯に追いやられました。

それでは、プスセンネス1世は狭い領土でどうやって巨万の富を築いたのでしょうか? 彼はアメン神の神官長でもあることが小さな杯の銘文から知られます。つまり、プスセンネス1世には王としての収入(民からの租税)と神官長としての収入があったのです。さらにプスセンネス1世は紀元前1,070年頃のカルナックのアメン神の神官長パネジェム1世界の息子でした。パネジェム1世の4人の息子のうち3人が彼の後を継ぎましたが、そのうちの一人がプスセンネス1世でした。王になったプスセンネス1世にはアメン神官長の地位も与えられました。そしてカルナックのアメン神の神官長になった自分の兄弟の下に娘を嫁がせました。つまり、王は家族のつながりを武器に政略結婚や同盟によって富や権力を勝ち取ったのです。

モンテ教授はタニスこそペル・ラムセスだと確信しました。というのは、タニスで発見された多くの石材にラムセス2世の名前が彫られていたからです。しかし、デルタにはナイル川のたくさんの支流があり、川の流れは常に変わりました。泥が堆積して次第に陸地になる地域もあれば、水没する地域もありました。1970年代にタニスから20kmほど離れた小さな集落で調査していた考古学者たちはモンテ教授の説に疑問を抱きました。というのは、彼らはモンテ教授が見落としていた支流で新たな都市の痕跡を発見したからです。そこからはラムセス時代の大量の陶器が出土しました。そこで、地中探査レーダーを持ち込んでスキャンしたところ、巨大な都市が現れました。その都市には神殿や軍事施設までありました。ラムセス2世の 厩舎まで見つかりました。今は地中に埋もれていますが、信じられないくらいに巨大な都市にラムセス2世の都(=ペル・ラムセス)である証拠があふれていました。

マンフレッド・ビータック博士たちが発掘調査しているテル・エル・ダヴァ〜カンティールにかけての地域のことですね。このことについては「西村洋子の雑記帳(3)」の2007年4月4日の記事をご覧下さい。ここを流れていたナイル川の支流は泥が堆積してせき止められ、進路を変えたことが分かっています。ペル・ラムセスは乾燥した荒れ地となり、人が住めなくなりました。それは紀元前1,047年頃のプスセンネス1世の即位直前のことでした。そこで、プスセンネス1世はペル・ラムセスの建造物を解体し、タニスに移しました。タニスの遺跡とスキャンしたペル・ラムセスの画像を比べてみると、二つの都市の神殿はそっくり同じ作りだったことが分かりました。プスセンネス1世はペル・ラムセスを自分の都市に取り込み、自分の� �力と権威の高さを世に見せつけたのです。これは統率のとれた労働者たちと有能な役人たちを率いていなければ出来ない大事業でした。王はそれだけの才能と行動力を備えていたのです。

ところで、プスセンネス1世はなぜ銀の棺を選んだのでしょうか? 古代エジプトでは黄金は神々の肉体とされ、銀は神々の骨とされました。黄金はヌビアの東部砂漠で豊富に算出しましたが、銀は乏しかったので、もっと早い時代にはとても貴重でした。しかし、プスセンネス1世の時代には交易を通じて黄金の半分の価値で銀を購入することが出来ました。考古学者で銀細工職人のジョン・プリベット氏はプスセンネス1世の銀の棺を研究しています。銀は加工するのに相当な労力と技術を要します。黄金は柔らかくて加工しやすいですが、銀はまったくその逆です。加熱して結晶構造を柔らかくしてからでないと加工出来ないし、それを何度も繰り返す必要があります。プスセンネス1世の棺は重さ90kgの銀で出来ていました。胴体� ��薄い銀板を打ち出して作られていたので、発掘の際一部破損しましたが、頭部は暑い銀で出来ており、鋳造の後槌で打って整えられたことが分かります。古代エジプトでは鋳造技術が発達しており、まず鋳型に銀を流し込み、原型を作り、それを磨いてはのみで削り、王の顔を形作りました。それは厖大な手間と時間を要する作業でした。

モンテ教授は1966年に死亡しました。彼は自分が発見した都市がペル・ラムセスではなかったことを知らずに亡くなりました。しかし、プスセンネス1世の墓の発見が考古学史上重要な出来事だったことに変わりはありません。プスセンネス1世は徐々に注目を集めつつあります。私たちはプスセンネス1世を再評価する必要があります。

現在のタニスの調査については、下記のURLをご覧下さい。

ナショナルジオグラフィックチャンネルからの写真は、下記のURLをご覧下さい。

プスセンネス1世については、「古代エジプトの歴史 24. 第三中間期(2)」もご覧下さい。

2010年12月31日(金)

12月16日(木)から毎週ヒストリーチャンネルで新シリーズ「密着 ザヒ・ハワス博士のミイラ発掘」が始まりました。放送時間帯は22:00〜23:00です。華々しい考古学上の発見や新説の紹介ではなく、日々の考古学の実践を追うドキュメンタリー番組です。全10回で、12月はそのうちの2回が放送されました。

初回は「末期王朝のミイラ」です。ハワス博士は「エジプト人の過去は私たちみんなの過去でもある。これぞ歴史なんだ。」と語ります。ハワス博士は撮影スタッフからは「ファラオ」と呼ばれて恐れられています。エグゼクティブ・プロデューサーのゴーハー氏によると、ハワス博士は「気が短くて、誰かがへまをすると許せなくて、すぐにカッとなって怒り出す。しかし、心優しい人だ。」そうです。

番組の前半は考古学研修生がジョセル王の階段ピラミッドの地下に閉じ込められる事件についてでした。ハワス博士は20年間サッカラの階段ピラミッドで修復作業をしています。この日クレア・ジョンソンという考古学研修生が来る予定でしたが、何かの手違いで、ゾーイというカナダ人女性の考古学研修生がやってきました。ハワス博士はとても忙しいので、挨拶もそこそこにどこかへ行ってしまいました。そこでゾーイは研修制度コーディネーターのアラン・モートン博士に頼んでサッカラの階段ピラミッドの地下を見学させてもらいました。


ローマの発熱とイーディス·ウォートン

王の埋葬室へ降りる坑道は身を屈めたり這って進まなければならないほどの狭い道で、末期王朝のミイラマスクの断片や木製の彫像の手の部分等が散らばっています。しかも、あちこちから石が崩れ落ちてきてとても危険です。坑道は全長5.6kmもあり、ハワス博士は一度も人を中に入れたことがありませんでした。訓練されていない普通の人が入ると死ぬかもしれないからです。ところがモートン博士はゾーイを地下28m、高さ15mの王の埋葬室へ連れて行きます。埋葬室では石棺は見つかっていますが、遺体は有りませんでした。その代わり身元不明の人物の左足が残っていたそうです。モートン博士はカイロで行われるハワス博士の著書のサイン会に同行するため、ゾーイを残して立ち去りました。代わりにカメラマンのギャビン� ��ゾーイを案内しました。墓泥棒の白骨死体が崩れた墓で見つかりました。ゾーイは写真を撮っていましたが、何かに足を取られて倒れてしまいます。ライトも消えてしまいました。ギャビンとゾーイが階段ピラミッドの地下から脱出する前に、ハワス博士の発掘員が鍵をかけてしまい、二人は何時間も閉じ込められることになりました。地下は酸素が少ないので、閉じ込められると窒息死する危険性があります。サイン会の途中でプロデューサーのレズリー氏から電話連絡を受けたハワス博士は、モートン博士をしかり飛ばしながら、急遽タクシーでサッカラに戻ります。そして発掘チームと一緒に二人の救出のため坑道に入りました。45分が経過して、レズリー氏が焦っている頃、まずギャビンが発見され、次いでハワス博士がゾーイの 助けを求める声に気づいて、ゾーイも救出されました。この事件のせいで大変な一日でした。

階段ピラミッドの修復作業については、下記のURLもご覧下さい。

翌日早朝ハワス博士は考古学実習生のリンジー、デレク、ゾーイを連れて、バハレイヤ・オアシスに移動しました。バハレイヤ・オアシスはカイロから数百km離れたところに有り、地下には推定一万体のミイラが眠っていると言われています。1996年にハワス博士は「黄金のミイラの谷」をここで発見しました。しかし、今までに発掘されたミイラはわずか250体です。今日は古代の墓の上に建てられた泥レンガの家を取り壊す作業が行われました。住民は厚さ10数センチメートルの土の上に住んでいましたが、今は別の土地に新築された家に引っ越しさせられています。穴があちこちに有るので、ブルドーザーは使えません。ハワス博士は国内で3万人の作業員を管理していますが、彼らはヘルメットも作業靴も着用していません。あ ちこちで泥レンガの壁が崩れ、穴が見つかります。ハワス博士はロープを伝って穴の一つに入り、密封された棺を見つけました。早速墓泥棒たちに荒らされる前に、夕方からすべての棺を開封することになりました。徹夜で発掘作業が進められます。

他方、考古学研修生のデレクは骨を選別して、墓に埋葬されていた遺体の数を数える作業を手伝いました。大腿骨の左右の見分け方や血管や神経が骨の髄に入り込んでいる栄養孔の向きの見方を教わりました。

さて、23:43ハワス博士と考古学研修生のリンジーとデレクが穴の中にいます。石棺のそばで小さなシャワブティ45体、第26王朝の食器用の小さな壷、供物用の大きな壷などが発見されました。当時シャワブティは365日分とその監督官たち、合わせて400体以上が埋められることが有りました。陶器は年代特定に使えます。作業員が棺を密封していた石膏を崩していきます。古代エジプトのモルタルは漆喰と砂の混合物から生成されており、この西方は現在でも使用されています。棺の蓋だけで重さは5トンぐらいあるでしょう。棺の中からは頭のないミイラが発見されました。これはギリシア・ローマ時代からミイラ技術が衰退したためです。地上ではミイラ発見の前祝いが始まっていました。しかし、ハワス博士は「ミイラ発見とい� �この厳粛な瞬間に、外でうかれて騒いでいるとは何事だ! こっちは大切な発掘をしているというのに、迷惑だと分からないのか! ちょっとしたミスが命取りになる。」と一喝して、人々を追い払いました。ミイラの様式は第26王朝を示し、ミイラの包帯の内側に挟まれた護符は、墓壁画の代わりに来世への旅の手助けをしていたそうです。

ハワス博士は考古学研修生たちにこれからすることを説明しました。1. このままの状態でミイラの写真を撮り、記録すること。2. 遺物保存の専門家を呼んで、保存の相談をすること。3. 他の埋葬品等の写真を撮ること。4. もう一度作業員を呼んで、石棺の蓋を閉じること。

2回目は12月23日(木)に放送された「労働者の墓」です。2010年1月10日、ザヒ・ハワス博士は一週間前にクフ王の大ピラミッド建設に従事した労働者たちの墓を発見したと発表しました。労働者の監督官の大きな墓も発見されています。労働者たちの墓は監督官の墓を取り囲むようにして築かれていました。深さ3〜4mの縦穴が有り、その下に埋葬室が有ります。労働者たちは四角い穴の中に胎児の姿勢で、いわゆる屈葬されていました。奴隷がピラミッドのそばに埋葬されることはないので、ハワス博士はピラミッドの石積みをしたのは奴隷ではなかったと説明します。

ハワス博士は3人の考古学研修生たちをネフェルチェスという監督官の墓に連れて行き、順番にレリーフや碑文を見学させます。人々がパンやビールを作っている場面が有ります。ハワス博士はこれらの人々が奴隷ではないことをデレクに強調します。墓碑銘には労働者のグループ名「クフ王の友人」が彫られています。新しい墓の発見が知らされると、ハワス博士はなわばしごでその中に下りていきました。続いてリンジーも下りました。ハワス博士は「墓の中に下りたら、まず砂の匂いを嗅ぐこと。どの砂もどの陶器の破片もどの碑文も労働者たちの生活についてより詳しく教えてくれるからだ。」と話します。そしリンジーに、労働者の背骨に、重い石を運んでいたために負担がかかっていたことを示します。また労働者の� �の中から頭蓋骨に癌のある人の人骨が発見された例も話します。その労働者は今から4,500年前に脳の手術を受けていて、術後2年間生きていたそうです。そして、彼らが奴隷ではなかった証拠を3つ挙げます。1. 奴隷は治療なんかしてもらえない。2. 彼らは王族のように永遠に生きるための自分の墓を用意していた。3. 自分たちの墓をピラミッドのそばに造った。そして、墓碑銘に彫られた労働者のグループ名がクフ王のピラミッドの重量軽減の間にも記されていることを話します。そこで、ハワス博士と3人の研修生たちはそれを見るために翌朝重量軽減の間に登ることになりました。

プロデューサーのレズリー氏が重量軽減の間の撮影許可を願い出てきました。ハワス博士が重量軽減の間に登るのはとても危険で、しかも残されたすべてのグラフィティーを見るには7〜8時間かかるので、断りましたが、レズリー氏が「うちのスタッフなら出来ます。」と言い張ったので、承諾しました。早朝観光客がまだいない大ピラミッドにハワス博士、3人の考古学研修生、撮影スタッフが集合しました。ハワス博士は考古学研修生たちに「重量軽減の間に鞄は持っていかない。すべて置いていく。頭を守る帽子だけ有れば良い。」と告げます。そして、重量軽減の間まで登るには集中することが大切なので、ハワス博士は観光客がピラミッドの中に入ることを禁止しました。

ピラミッドには毎年300万人の観光客が訪れます。平均2.5トンの石材が約250万個使用されています。大ピラミッドの高さは139m、底面の一片の長さは230mもあります。建造期間は23年と言われています。建造後4,500年間砂漠にそびえています。大回廊は高さ8.5m、長さ46.6mで、王の間の入口の回廊に直結しています。ハワス博士は「人生で何か問題が起きたり、大きな決意をする時には、私は一人でここへ来て、目を閉じる。そのとき誰にも見えないものが私には見える。心からリラックスできて、いつもの世界から完全に隔離されたと感じる。私にとってここは自分の秘密のすべてを預けているところだ。」と語ります。また「考古学をやるには心身を完璧に保つ必要が有る。身体が弱かったり、脚が悪かったりしたら、考古 学はやっていなかっただろう。」とも語ります。それを聞いて上へ登るのを辞退した考古学研修生のゾーイはハワス博士にクビを宣告されます。ハワス博士は「考古学に危険は付き物だ。危険を覚悟しなければ何も歴史的発見は出来ない。」と言い放ちます。(命がいくつあっても足りなさそうだ。(汗))

彼らは大回廊から高さ8.5mのはしごを上り、重量軽減の間の第二の間に辿り着きました。ゾーイも遅れて到着しました。第二の間にはイギリス探検隊が書き残した「ウェリントンの間1837年3月30日」という落書きが有ります。ハワス博士は「私たちは一緒に歴史を紐解きに来た。労働者の存在を証明するために彼らが壁に書いたグループの名前を探すことが歴史だ。考古学は軍隊に似たところが有るが、面白い。」と言いました。またかつてピラミッドを所有していた一族がいたが、1952年の革命後エジプト政府は国内の記念建造物の所有権を再び獲得したという話も考古学研修生たちにしました。彼らは第三の間に移動します。そこはネルソン提督の間とも呼ばれ、1837年4月25日の落書きが有ります。さらに古代エジプト語でマフェ� �ト(メファトのこと?)と呼ばれる赤いインクで書かれたカルトゥーシュが見られます。ハワス博士は西部砂漠にクフ王の治世27年(クフ王の治世年数は23年と言われているけど?)の碑文に「クフ王はマフェットを運ばせるため、西部砂漠に遠征隊を送った。」と記されていることを話します。(どこにあるんだろう、そんな碑文?) 他方、マフェット遠征隊はクフ王のピラミッド建設に役立てるため、トート神の謎の文書を探すのが目的だったという説も有るそうです。(ウエストカー・パピルスの物語を思い出させますね。) ハワス博士がアペルー、シェムスを説明している時、ゾーイがトイレに行こうとします。しかし、ハワス博士は「ここは教会やモスクと同じ神聖な場所だ。トイレには行くことは出来ない。」と制止します。出発から5時間経って腰を痛めた撮影スタッフの一人が下へ下りて行きました。内部は暑く、移動は苛酷です。湿度を計測すると74%でした。湿度が高いとピラミッドに悪影響を与えます。2年前には湿度が80%を越えたので、ピラミッドが閉鎖されました。

彼らは第四の間に移動しました。ここにはクフ王のフルネーム「クヌムクーエフウィ」が記されています。しかし、湿度のせいでマフェットの色が薄くなっています。つまり湿気の中に含まれる塩分が石や古代の文字を侵食するからです。ハワス博士は「第五の間の文字は最良の保存状態だ。」と言いました。しかし、移動する前にゾーイが我慢出来ずにお漏らしをしてしまいます。ハワス博士は「君はここにいる資格が無い!」と言い放ち、ゾーイにピラミッドの外に出るよう命じました。そしてリンジーとデレクの二人はハワス博士より先に第五の間に登りました。第五の間に登る隙間はものすごく狭くなっています。ハワス博士は彼らに労働者のグラフィティーを探させます。彼らは汗だくになって探し、マフェットで記さ� �た労働者のグループ名「クフ王の友人」が見つかりました。しかし、デレクが「僕はまだ宇宙人がピラミッドを造ったと信じています。」と言ったので、ハワス博士が「ふざけるな!」と怒鳴りました。ここでゾーイが登ってきました。ハワス博士はゾーイに「君はピラミッドに敬意を払わずひどいことをした。君はここを出て、私の考古学研修生としてではなく、スーパーマーケットで働けばよい。」と言いました。ゾーイに弁解の余地は与えられませんでした。(トイレが近い私も同じことを言われるだろうな。(汗))

一週間後のTVインタビューでハワス博士は労働者の墓の発見と重量軽減の間に記されたグラフィティ「クフ王の友人」の発見を誇らしげに語りました。さらに「墓は人々が訪れる場所ではない。一人が中に入る毎に20gの水が持ち込まれ、塩分となる。塩分はピラミッドに悪影響を与える。湿度が80%以上なると石に亀裂が入り始める。選択の余地がない場合、ピラミッドを立ち入り禁止にする。」と言いました。インタビュアーは「それでは観光客が残念がるでしょう。」と言うと、ハワス博士は「私にとって観光客は重要ではない。私にとって重要なのは遺跡保存である。」と断言しました。そしてインタビュアーが「博士は今日から大ピラミッドの無期限閉鎖を決めました。」と締めくくりました。

とても厳しいザヒ・ハワス博士でした。

ギザで1990年に発見された労働者たちの墓については、下記のURLをご覧下さい。

2010年の労働者たちの墓の発掘については、下記のURLをご覧下さい。

重量軽減の間のグラフィティーについては、下記のURLをご覧下さい。

(下のグラフィティの出典)


THSの市民戦争が布告は何を言っていた

2011年1月15日(土)

ヒストリーチャンネルの新シリーズ「密着 ザヒ・ハワス博士のミイラ発掘」の3回目が1月6日(木)に放送されました。「ミイラのDNA鑑定」というタイトルですが、「考古学研修生ゾーイ、名誉挽回する。」と言った方がいいかもしれません。

3:13 カイロ市内のホテルで撮影スタッフの打ち合わせがあり、ハワス博士の一日の予定と、ハワス博士に同行するメンバーが知らされました。今日はレズリーと音声担当のシーコがハワス博士に同行します。

5.57 サッカラではすでに作業員達が発掘を開始しています。新たに発見された墓では末期王朝の頭蓋骨が多数発見されました。それらは盗掘のためにひどい状態です。それから保存状態良好な第26王朝の人型木棺もあります。胸の部分には数行のヒエログリフの銘文があります。ハワス博士はこれを博物館に展示したいと考えました。この墓には全部で30体ものミイラが埋葬されています。それは地下約18mの場所に残されています。このように同じ墓に多くのミイラが埋葬されている例は稀で、おまけに5体のミイラの前には犬も埋葬されていました。おそらくペットだったのでしょう。ハワス博士はその後カイロの考古学博物館に向かいました。保存研究室にアラン・モートン博士を呼び、王族のミイラの保存について話します。セティ2世の墓� ��前で発見されたミイラがトトメス1世なのかどうかを証明するため、手と足からサンプルを採って先日確認されたハトシェプスト女王のサンプルと比較するように指示します。ハワス博士は第18王朝のすべてのミイラのDNAを検査して、ツタンカーメン王の家族を見つけたいと言いました。そこへゾーイがやってきます。ハワス博士は「君には出て行ってもらうと言ったはずだ。許すつもりはない。わかったな。」と冷たく言い放ちます。

9:27 カイロにあるSCAのハワス博士のオフィスでステータス会議が行われるので、モートン博士と3人の考古学研修生が集まります。ステータス会議では考古学研修生達がどれだけ認められ、どれだけ進歩したかが告知されます。辞めさせられた研修生はたくさんいるそうです。ハワス博士の秘書ナシュワ・ガバー女史が彼らを呼びにきます。彼らが中に入ると、ハワス博士はゾーイに「君は何故ここにいるんだ。ピラミッドの中でしたことについて罰を与える。」と言いました。リンジーには「今のところ問題ない。真面目な態度で私も嬉しいよ。」、デレクには「人はミスをするものだが、繰り返してはいかん。それに君は下らん質問を何度もしてくる。」と言いました。その時、カーセケムウィ王の埋葬複合体で重要な発見があったという知 らせが入ったので、ハワス博士はモートン博士に現地へ行くように指示しました。リンジーとデレクはギザの労働者の墓へ行きました。ハワス博士は残されたゾーイに「君にはここで事務仕事と本の整理をしてもらう。」と言いました。ゾーイは「それは考古学ではありません! 私は学びたいからエジプトにまで来たんです。」と泣きそうになりました。少し言い争いをした後、ハワス博士は「これが最後のチャンスだぞ!」と言って、ゾーイにギザの労働者の墓へ行くように指示しました。

10:56 ハワス博士はデレクとリンジーに最初の二つの墓へ行って、ヒエログリフを書き写してレポートを提出するように指示します。それからゾーイに発掘の手順を教えると言って、頭蓋骨にブラシをかけるように指示しました。しかし、この時ゾーイは香水をつけていたため、またもやハワス博士に叱られ、身体を洗って着替えてくるように指示されました。ゾーイはリンジーに「どうしたらいい?」とたずね、リンジーはハワス博士が暗闇の恐怖を克服するために必死で努力したという話を教えました。

12:09 ハワス博士とゾーイ、レズリー、シーコがギスル・エル・ムディールにあるカセケムウィ王の葬祭複合体(紀元前2,890〜2,686年にさかのぼる)に向かってサハラ砂漠に移動します。しかし、途中で車が故障し、ハワス博士は砂漠の中を13km歩くと言い出しました。レズリーが「砂漠の中を?」と言うと、ハワス博士は「素晴らしいぞ。冒険を味わえて、体重が減る。」と笑いました。歩き始めた12:51の気温は40度でしたが、彼らが発掘場所のテントに辿り着く16:42には、気温は48.3度にまで上昇していました。サハラ砂漠の広さは約900万平方kmあります。

13:47 42.8度 ギスル・エル・ムディールではモートン博士がハワス博士の到着が遅いことを心配していました。

14:33 45.6度 ゾーイはレズリーから聞いた話をし、ハワス博士から「学んでいるな。この砂漠では君は頑張っているな。諦めずに歩き続けている。それは立派だと思う。」と言われました。

15:09 46.7度 レズリーが「あとどれくらい?」とたずねると、ハワス博士は「道は分かっている。心配するな。行くぞ。」と言いました。同じ頃モートン博士は捜索隊を送ることを考えていました。

15:38 47.8度 ようやくハワス博士たちは馬小屋を見つけ、レズリーに持ち主に金を渡すように言って、馬、ラクダ2頭、ロバを借りました。ハワス博士は馬に、レズリーとシーコはラクダに、ゾーイはロバに乗りました。

ゾーイは4時間砂漠を歩き続けたご褒美に末期王朝に再利用された古王国の墓地を見せてもらいました。それはウナス王のピラミッド建造の監督官イアマートの墓で入口の上部には美しいレリーフが残っていますが、内部は未完成で、偽扉と供物リストが黒インクで下書きされていました。もう一つの墓ではかなりおおくの人骨が発見されています。それは典型的な末期王朝時代の墓で、二体の人骨がありました。男女が一体ずつ埋葬されています。一体は完全です。女性の骨は骨盤を見れば何人出産したかが分かります。末期王朝には平均出産人数は6〜9人だったそうです。ギザにある研究所の人類学のチームは発見したすべての人骨を調べ、古代の人々を甦らせることが出来る、とハワス博士は言いました。外に出て、並べられ た人骨を見て、ゾーイはある頭蓋骨が女性であることを言い当てました。骨盤と緩やかなカーヴを描いた前頭部がその根拠であると言うと、ハワス博士は「君は自然人類学を学んだことがあるのかね?」と嬉しそうにたずね、ゾーイは「少し勉強したことがあります。」と答えました。ハワス博士は次第に優しくなり、「人骨は末期王朝のものばかりだが、陶器は古王国のものがほとんどだ。サッカラの墓の多くは古王国に設けられ、末期王朝とローマ時代に再利用された。時々60体ものミイラが折り重なっている墓もある。」と説明してくれました。すると、18:03にサッカラの遺跡所長ハキム・ハダッドが「棺を発見しました。」と叫んだので、ハワス博士とゾーイはそちらへ向かいました。紀元前30年以降に作られたミイラの棺の顔は観念 的で、棺には名前がなく、工房で作られたものを家族が買ってきたことが分かりました。蓋を開けるとミイラが現れ、顔は金箔と青色で装飾されたマスクを着けており、襟飾りは緑色、その下にマート女神(ヌート女神の間違いでは?)の飾りがあり、包帯で美しく包まれていました。性別は不明ですが、CTスキャンにかければ、性別も死因もすべてが分かるとハワス博士は言いました。

ギスル・エル・ムディールについては、下記のURLをご覧下さい。

サッカラ、ギスル・エル・ムディールでの新しい発見については、下記のURLをご覧下さい。

イアマートの墓については、下記のURLをご覧下さい。

ハワス博士はご褒美にゾーイをディナーに招待しました。カイロ市内で行われるレストラン、メゾン・ブランシェのオープニング・パーティーに出席するのです。22:17 パーティーで笑顔をふりまくハワス博士の姿がありました。ハワス博士の多忙な一日と優しい一面が見られた番組でした。

2011年1月16日(日)

ヒストリーチャンネルの新シリーズ「密着 ザヒ・ハワス博士のミイラ発掘」の4回目は「クレオパトラ塔門(前編)」です。1月13日(木)に放送されました。とても興味深い内容でした。

午前8:00 サッカラにハワス博士が到着しました。そこで123番目のピラミッドが発見されたからです。それは地上部分の高さ4.5m、本来の高さ15m(5階建てビルに相当する高さ)の階段ピラミッドで、深さ18mの砂の下から偶然発見されました。被葬者は第六王朝テティ王の母セシェシェト妃と思われます。しかし、石棺が見つかるまで早くても3日かかります。ハワス博士は「いい考古学者になるには辛抱が必要だ。」と考古学研修生ゾーイに言います。

そこで翌日6:00にハワス博士、三人の考古学研修生、アラン・モートン博士、撮影スタッフは考古最高評議会ビルを出発して、ダフラ・オアシスに向かいました。古代の尖塔を復原するためです。ダフラ・オアシスにはカイロから灼熱の白砂漠を550km走行しなければなりません。しかし、途中軍事演習のため道路が通行止めになっていました。そこで白砂漠にあるアイン・カドラ(「緑のオアシス」の意)で休息することになりました。それは300kmも先にあります。白砂漠の白い奇岩は砂嵐や風食の結果で出来ました。SF映画に現れる惑星のようなところです。カイロを出てから7時間後一行はようやくアイン・カドラに到着しました。とても小さなオアシスです。気温は46.1度になっていました。ハワス博士が「今日はここで白砂漠の探� ��をしてもらいたい。」と話していると、突然モートン博士が嘔吐しました。木陰に移動し、横にならせても、モートン博士は嘔吐を繰り返します。ハワス博士はデレクに暖かい飲み物と食べ物を持ってくるように指示しました。その間、リンジーが水で濡らしたスカーフでモートン博士のおでこを冷やし、ゾーイが帽子であおいでいました。ハワス博士はモートン博士に「君を砂漠に引っ張り出して悪かった。カイロにいてもらえば良かった。体調が万全でないと砂漠はきつい。ゆっくり休め。」と言いました。そして「ちょっと散歩してくる。何かあったらすぐに私を呼ぶんだ。いいな。」と言って、オアシスの外へ出て行きました。一方、車内の食料は腐って、ハエがたかっていました。砂漠では暑さのため2時間で食べ物が腐ります� ��それを知らなかったデレクは肉を持ってきていたのです。そのことでリンジーはデレクを激しく責め立てました。デレクが事情を話すと、ハワス博士が辺りを見回し、ベドウィンの一団を見つけました。そして食べ物を分けてくれるように頼みました。幸い彼らは快諾してくれたので、リンジーとデレクが彼らの食事の用意を手伝いました。ベドウィンは穴を掘り、火をおこしました。デレクは薪を運びます。ゾーイはその間モートン博士に付き添っています。ベドウィンが子ラクダの前脚の一方を縛ると、突然ナイフを子ラクダの胸に突き立てました。リンジーはそれを見てショックを受けました。その子ラクダが夕食となるからです。小さなラクダ一頭は15人分の食料になります。ベドウィンは返り血のついたガラベーヤを来たまま、 子ラクダを切り分けました。日が沈み、子ラクダの肉はおいしいシチューになりました。ベドウィンは手拍子、楽器の演奏、ダンスを始め、楽しい夕食のひとときとなりました。ハワス博士は感謝の意を表すために彼の一番大切なもの、すなわち帽子をベドウィンに与えました。

さて、サッカラではセシェシェト妃の墓の発掘が予定より早まり、ハワス博士はサッカラに戻ることになりました。しかし、墓はすでに盗掘されているようでした。古代の墓泥棒は石棺を開けた後、蓋の下に石灰岩を置いて、棺の中に手を入れ、副葬品を盗みました。作業員達も同様に、石棺の下に丸太をかまして、手巻きウィンチで蓋を開けました。石棺の蓋の重さは最低でも6トンはあります。手巻きウィンチは紀元前499年から使われているそうです。ハワス博士によると、エジプトでは遺物の約7割が未発見です。石棺の中からはセシェシェト妃の歯、足の骨、頭蓋骨、文字が刻印された棺の一部が発見されました。ハワス博士は「これはセシェシェト妃の墓に間違いない。」と言いました。

セシェシェト妃の墓については、下記のURLをご覧下さい。

その後、ハワス博士は元アメリカ大統領夫人ローラ・ブッシュ女史の招待で、テキサス州ダラスにあるサザン・メソジスト大学でこの4年間の重要な発見について講演しました。ハワス博士はセシェシェト妃の墓の発見とアレクサンドリアの海中での塔門の発見について話しました。その後は自著のサイン会です。


アッシリア帝国のlearderは誰だった

一方撮影スタッフはアレクサンドリアにいて、レズリーからタップ・オシリス・マグナの撮影許可が出たことをみんなに知らせていました。タップ・オシリス・マグナのオシリス神殿ではアレクサンドロス大王のコインとクレオパトラ女王の彫像頭部が発見されています。ハワス博士も講演会で「クレオパトラの墓がタップ・オシリス・マグナにあるかどうかは確信を持てないが、アレクサンドリアの海底のどこかにあると信じている。私は女王の墓の発見を願っている。それは歴史上最大のロマンあふれる発見となるだろう。」と言いました。

アレクサンドリアの東湾ではハワス博士が信頼を置く考古学者デビッド・チータム(本来は中南米の考古学者)とギリシア考古学研究所所長サラス博士の助手アリスが海中に潜り、古代の塔門の写真を撮っていました。アリスはその塔門がクレオパトラ女王の墓の場所を示す重要な証拠と考えています。ハワス博士はダラスでの講演会の二日後アレクサンドリアに到着しました。サラス博士は長年クレオパトラの宮殿の近くにあったイシス神殿のものとされる塔門のひきあげをハワス博士に依頼してきました。それは重さが9トンもあります。サラス博士はイシス神殿はクレオパトラ女王専用の神殿で、誰も祈りに行くことは出来なかったと言います。ハワス博士もその塔門は間違いなくイシス神殿の一部だと言います。というのは、 周囲で他の遺物も発見されているからです。しかし、冬の場合、嵐が来たり、寒さのせいで、引き上げは危険です。レズリーが費用を出すと言うと、ハワス博士は「市に働きかけて引き上げの許可をもらえるようにするよ。」と言いました。サラス博士によると、クレオパトラ女王は生存中に自分の墓を用意しようと決めたプトレマイオス朝の唯一の支配者でした。ハワス博士は2002年に考古最高評議会の事務局長になった時、港から大型の遺物はどんなものも引き上げないことを決めました。というのは、一つ引き上げる毎に、それをコム・エル・ディッカに運び、遺物から塩分を抜くのに何ヶ月もかかるからです。だから、サラス博士の依頼にノーと言い続けてきました。しかし、今回は考え直して、「引き上げたものは海の� �で発見されたすべての遺物を収容する海底博物館の所有にします。ただし、冬の引き上げは危険なので、明日塔門を引き上げることにします。」とサラス博士とアリスに言いました。

The Hellenic Institute for Ancient and Medieval Alexandrian Studiesについては、下記のURLをご覧下さい。

ピュロンの引き上げについては、下記のURLをご覧下さい。

翌日撮影スタッフは二手に分かれました。一方はアレクサンドリアで塔門の引き上げ準備をするチータム博士とアリスを追います。もう一方はタップ・オシリス・マグナに行ったハワス博士を追います。ハワス博士は共同研究者のキャスリーン・マルティネス女史と再会します。タップ・オシリス・マグナではロシアの地中調査隊が地中探査レーダーを使って地下墓地を探査中です。隊長は地球物理学研究所教授のオルガ・アレクサンドロブナ女史です。しかし、ハワス博士はこの調査方法に否定的です。ハワス博士の意見はこうです。「石造りの神殿ではよく異常(墓の位置を示唆する地中の空洞)が感知される。しかし、そのような異常をどれがどうなのか区別することは出来ない。あなたたちはすでに25カ所も穴を開� �ている。墓だと確実に言えなければ、これ以上穴を開けるべきではない。私は以前からレーダーは考古学には良くないと思っている。」 これを聞いて、アレクサンドロブナ女史は困惑した表情を浮かべましたが、ハワス博士が「ここにクレオパトラ女王が埋葬されているとは思わないが、調査結果を確認しましょう。」と言ったので、今までに発掘した墓を見てもらうことにしました。ある美しい墓では赤ん坊のミイラが見つかりました。魔除けと死者の援助のため金や宝飾品がミイラの上に置かれています。タップ・オシリス・マグナでは赤ん坊の人骨5体がいくつかの墓で見つかっています。後期ローマ時代の典型的な女性の習慣では、事故等で母子が同時に死んだり、子の後に母が死んだりすると、この遺体を母のお腹の上にのせ� �埋葬するそうです。マルティネス女史はハワス博士にクレオパトラ女王はこの神殿に埋葬されたと持論をぶつけます。しかし、ハワス博士は否定的です。彼女が「西側の角で行われている発掘では...」と言いかけると、「クレオパトラ女王はどうやってオクタヴィアヌスから自分の墓を隠したのか?」と尋ねます。そして、墓の建設時期で二人の意見は対立しました。

タップ・オシリス・マグナでの発掘調査については、下記のURLをご覧下さい。

(キャスリーン・マルティネス女史の映像)

一方、午前6:19にチータム博士とアリスがアレクサンドリアの港にいましたが、「許可をもらっていない。」と断られます。手続きをしたのに書類が通っていないのです。9:15になって、認証スタンプがいることが分かりました。10:26になってもまだスタンプをもらえません。嵐も来そうです。11:09になって、スタンプの担当者が寝ていて、誰も起こさないことが分かりました。12:04にはクレーン車が帰り始めます。というのは、契約時間の6時間が過ぎたからです。レズリーがクレーン車に飛びついて「帰らないでくれ!」と言いますが、一体どうなるのでしょうか? 20日の後編が楽しみですね。

2011年1月29日(土)

1月20日(木)に「クレオパトラ塔門(後編)」が放送されました。

レズリーはクレーン車の運転手に「200ドル払うから、あと30分ここで待っててくれ。30分以内に許可が出なかったら、さらに200ドル払うよ。」と言って、引き留めました。そして、しばらくして許可が下りました。港に出るには政府の許可が必要なのです。早速みんなは港の中に入り、船にクレーン車を載せました。大きいクレーン車が小さいクレーン車をつり上げて、船の後ろの甲板(かんぱん)に載せます。小さいクレーン車は古くて、10トンまでししか引き上げ能力がありませんでした。チータム博士とアリスはサラス博士の到着を待たずに船に乗り込みました。その頃ハワス博士はタップ・オシリス・マグナを出発しました。塔門は1998年にサラス博士のチームによって発見されました。船は塔門が沈んでいる目的地に到着して 、碇を下ろしました。サラス博士がボートで船に到着します。

さて、塔門は深さ14mの海底に沈んでいます。塔門の表面を傷つけないように幅広のストラップを装着し、ストラップの先端をクレーン車のフックに連結し、塔門を引き上げ、船のデッキに載せることにしました。クレオパトラの宮殿は自然災害によって沈んだとされます。サラス博士は「この一帯の海底には古代の建築物が数多く沈んでいる。巨大な彫像等もたくさんある。こういうものは波に流されることはないが、2トンまでのものは流される。海底の遺物は今でも設置当時の場所にある。クレオパトラの霊廟はイシス女神の神殿からほんの数歩のとても近い場所にあった。プルタルコス、カッシウス・デオ、ストラボンの記述によると、神殿と宮殿と霊廟があった。神殿の証拠としてアーキトレーブ(軒縁)が見つかっ ているが、それはクレオパトラの霊廟の一部だと思う。」とチータム博士に話しました。ハワス博士によると、イシス女神の入口は9トンの塔門を二塔構えていた。今日引き上げるのはそのうちの一塔です。モートン博士が「クレオパトラはギリシア人なので、遺体を火葬にした可能性はありませんか?」と尋ねると、ハワス博士は「クレオパトラはギリシア人だが、エジプトの影響を受けた。しかし、アクティウムの海戦に勝ったオクタヴィアヌスは、彼女の墓があると、彼女の信奉者達が団結する恐れがあるので、その墓を邪魔だと思っていた。クレオパトラは賢い女王なので、どこか秘密の場所に自分の墓を設けた可能性がある。」と言いました。サラス博士もチータム博士に次のように話しました。「庶民やある特定の階層の人々は� �分の墓に自分の名前を入れたが、国王や女王はそうしなかった。よく知られたことだ。だから女王の墓が発見されても、碑文があるとは思わないでくれ。彫像についても、女王の墓には死んだ女王の彫像は置かない。女王の墓には女王のコインもないはずだ。」 つまり、サラス博士は、コインや彫像が見つかっているから、タップ・オシリス・マグナのイシス神殿内にクレオパトラの墓があるというマルティネス女史の考えに否定的であることを、暗に説明しています。引き上げ作業に取りかかった時、沿岸警備隊がやってきました。地区の許可はあるけど、カイロ市の許可が必要であるというのです。原因は、地元コーディネーターのビーボが、軍の諜報部の人に逆らえずに、許可申請の一つを勝手に取り下げたからです。� �ラス博士はハワス博士に電話して、事情を説明しました。電話が終わった後、サラス博士は「私が責任を取ると言ったら、ハワス博士も『私も責任を取る。』と言ってくれたよ。だから私の責任で引き上げよう。」とみんなに言いました。

ハワス博士は考古学研修生のデレクとモートン博士にコム・エル・ディッカに行くように命じます。ここには脱塩処理施設があります。塩分は海中では遺物を保護し、空気中では損傷を与えるので、引き上げた塔門を脱塩する必要があるのです。

ストラップを塔門に装着し、クレーン車のフックに連結しました。しかし、クレーン車のパワーが足りません。クレーン車の車体がうき始め、不安定になりました。塔門は海面の丁度下まで引き上げられていますが、船も傾いていて、後ろの方も安全ではありません。そのため撮影スタッフを避難させ、チータム博士とサラス博士も他の船に移りました。塔門の重さはピックアップトラック3台分(塔門の重さ9トン、高さ2.26m)もあります。なんとか塔門を船に載せようとしますが、塔門の重い基部が海底の方に向いておらず、逆になっていたので、ストラップが切れて、塔門は再び海底に沈んでしまいました。サラス博士はハワス博士に失敗を報告しました。サラス博士は塔門を引き上げたら、船の後ろに着けて固定する方法もある と提案しました。潜水夫が塔門を見に行ったところ、幸い塔門は割れていませんでした。そこでさっきより強いストラップを装着し、鋼鉄で補強されている強いベルトを使用しました。

アレクサンドリアに到着したハワス博士はイブラヒム・ダーウィッシュ博士(アレクサンドリア市内博物館総館長)から「文化相のホスニ大臣が塔門の引き上げを見に来て、博士から話を聴きたいらしい。」と聞かされて、こう言いました。「さっき失敗したのに、大臣が見に来るだと?」。ハワス博士は乗船するなり、チータム博士、レズリー、ゴーハー(エグゼクティブ・プロデューサー)を叱りつけました。「お前達にはまったく腹が立つ。デビッド! ミスをするなと言ったろ。お前を信頼して頼んだのに、役立たずで、すべてぶちこわしだ! レズリー! お前はいろんなことに口を突っ込み過ぎだ。いい加減にしろ。考古学のことも他のことも何も分かってないじゃないか。もう私にカメラを向けるな! ゴーハー! 番組の話を持ってきたのはお前だ! もうお前達の顔は見たくない! 出て行け!!」。嵐が近づいている上に、マスコミも押し寄せ、大臣がやってくるというのに、「失敗しました。」では世界中の笑い者になるからです。ハワス博士とサラス博士が話し合っています。ハワス博士は「岸にもう一台クレーン車を用意して、つり上げ、マスコミに見せる、そこで記者会見をするんです。」と提案しました。

今度はナイロン製のストラップの代わりに、鋼鉄製のケーブルを使い、塔門を海上まで引き上げ、甲板に載せるのではなく、船の後部に固定し、岸まで送り届けた後、強力なクレーン車で岸に揚げることにしました。ハワス博士は「あと30分で嵐が来るぞ!」と急かします。しかし、塔門を海上まで引き上げると、船が傾き、再びクレーン車がうき始めたので、車体の前方をチェーンで固定しました。ハワス博士は焦ります。「早くしなさい。大臣がすぐ来る。早くマスコミの前に持って行くんだ。全世界が注目しているぞ!」。サラス博士は強度のあるワイヤーをもう一本持ってきて、(塔門を固定するために)ここに結びつけた方が良いと提案しました。こうしてようやく塔門を船に固定出来ました。ハワス博士は「よろしい。じゃ あいつ大臣が見に来てもいいな? よし。」と言いました。しかし、まだクレーン車が浮き上がるので、みんなで車体にチェーンをかけ直しました。海岸を見ると、国際メディアが集まっていて、クレオパトラの塔門を見ようと興奮に包まれていました。ハワス博士は「よーし、みんな、ようやくすべてが整った。おめでとう。そして、ありがとう。」と行って、岸に向かいました。プレス・リリースを済ませたところで、ファルーク・ホスニ文化相がやってきました。ハワス博士は誇らしげに記者会見をしました。


無事に引き上げられた塔門は乾燥や亀裂を防ぐために急いでコム・エル・ディッカに運ばれます。そこで半年間かけて脱塩されるのです。ハワス博士は塔門をアレクサンドリア海底博物館の主要展示物にしようと考えいます。脱塩タンクの中に塔門をおろす作業をしている間もマスコミは注目しています。サラス博士の助手アリスはハワス博士に「SCAで博士と一緒にお仕事ができる枠がありましたら、私のことをお考え下さい。」と言いました。ハワス博士は「わかった。」と言いました。(えっ、サラス博士はどうするの?)

今回はとてもハラハラした番組でした。

アレクサンドリア海底博物館については、下記のURLをご覧下さい。

コム・エル・ディッカの脱塩処理施設については、下記のURLをご覧下さい。

2011年2月1日(火)

ヒストリーチャンネルの新シリーズ「密着 ザヒ・ハワス博士のミイラ発掘」の6回目は「盗まれたカルナック神殿の石」です。1月27日(木)に放送されました。

ザヒ・ハワス博士はカイロから320km離れたバハレイヤ・オアシスの中のシェイク・ソビーで新しい墓の発掘をしています。3人の考古学研修生のうちのゾーイがハワス博士とともに墓室に降りていきました。リンジーは自分が連れて行ってもらえなくて、不満そうにしています。携帯電話で父に「博士から直接学べる機会があまりなくて...」と話しています。墓の中には未開封の石棺があります。サルコファガス(石棺)の語源はギリシア語で「肉を食べるもの」だそうです。石棺の蓋は10トン以上のこともあり、蓋を開けるには技術を要します。蓋を開ける時作業員たちは「ヘーラーホップ」と言っています。これは幸運を意味する言葉だそうです。多くの棺が木材、石灰岩、花崗岩で作られています。蓋を開けてみると、中から荒� �されていないミイラが見つかりました。包帯が黒いのは、ミイラ処理の際に皮膚を保護するために塗られた樹脂のためです。そして多数のビーズが包帯の上に散らばっています。第26王朝にはミイラにファイアンス製のビーズネットがかぶせられました。青いビーズは古代エジプト人の男女が一般的に身につけていました。ハワス博士はゾーイに言いました。「このミイラのCTスキャンを撮るべきか、あるいはこのまま蓋をして、封をして、保存しておくべきかを保存修復家に尋ねるんだ。」と。墓の中には裕福なワイン商人とその妻子のミイラもありました。バハレイヤ・オアシスはワインの産地として有名です。墓を造るにも石棺を造るにもお金がかかります。ミイラ処理の費用は現代だと67,000ドル(約550万円)以上もします。(え〜、高� �ぎる!) それから既に開封されている棺がありました。それもまた第26王朝のもので、頭蓋骨の保存状態はよく、歯も残っています。また棺の中に入っていなかったにもかかわらず、保存状態の良いミイラがもう一体見つかりました。ハワス博士はバハレイヤ・オアシスでこれまでに1,000体近いミイラを発見しています。

ハワス博士はゾーイをカイロに戻し、リンジーとデレクを保存作業が行われているアル・カスル神殿(アル・カスルはバハレイヤ・オアシスの主要都市)へ連れて行きました。この神殿は60年以上前に発見されましたが、遺跡警備員がいなくなると、人々が自分の家を建てるのに神殿の基礎になっている石材を使うようになりました。そこで民家を取り壊し、人々には移住してもらって、発掘をしているのです。神殿の一部の礼拝堂は住民がダイニングルームとして使用していました。ハワス博士がリンジーとデレクに碑文を探させたところ、天井に帯状の碑文が見つかりました。しかし、天井がよく汚れていて、碑文は読みにくくなっています。ハワス博士はデレクに「私達の仕事は古代のものをいかに守るべきかについて考える� �とだ。過去の遺産を守ることは私達の過去を理解出来るということだ。」と諭しました。

カイロではチータム博士とゾーイがメトロポリタン美術館から返還される石の破片を探していました。彼らはそれを石棺の一部だと思い込んでいましたが、実際にはカルナックのアメン神殿内のナオス(祖先の霊を祀る場所)にある供物台の破片でした。約100年前に盗まれ、美術商がメトロポリタン美術館に売りつけようとしましたが、美術館はそれが盗難品であることに気づいて、エジプトに返還する手はずを整えてくれたのです。本体の供物台はカルナックのアメン神殿内にあります。チータム博士はカイロ空港税関で5時間待たされて、ようやくそれをカイロ博物館に届けました。この石の破片は1903年から行方不明だったのです。

翌朝全員がカイロ博物館に集まり、返還された石の破片を見ることになりました。遺物の保存室にはスイス、ドイツ、スペインなどからこれまでに回収された6,000点以上の遺物がありました。リンジーがどうやって返還を納得してもらうのですか?と尋ねると、ハワス博士は「それには呪いがかけられています。家に置いておくと、惨めな日々を送ることになりますよ。」と言って、トロントのある女性から彫像を返してもらった例を話しました。デレクが「世界中の博物館にエジプト・コレクションがあることを誇りに思わないのですか?」と言うと、ハワス博士は「すべての展示物を返せと言っているのではない。返してもらいたいのはエジプトから違法に持ち出されたもの、盗まれたものだ。1972年のユネスコ総会で文化遺産の� ��護に関する条約が採択された。だから1972年以降に違法に持ち出されたものはすべて返還してもらっている。1972年以前のものでも墓から盗まれたもので、かつその証拠があるものは返してもらっている。これは全世界へのメッセージになる。『私達はこれだけ文化財を大切にしていますよ。』というメッセージにな。」と言いました。この石の破片は中王国のものです。ハワス博士は考古学研修生達に「それをどのように修復するか、どのようにカルナック神殿の元の場所に戻すかについて学ぶんだ。」と言いました。

さて、一時間後チータム博士は他の所蔵品を見せるために考古学研修生達を地下室に連れて行きました。そこには10万点以上の文化財が保管されています。しかし学芸員の一人が「中にはあと一人しか入れません。」と言ったので、チータム博士は石の破片の入った木箱を持っているデレクだけを連れて中に入り、リンジーとゾーイには何冊もの大型本を博物館の反対側の50番室というところに持って行くように言いました。デレクは地下室に入れて「一日中居たいですね。」と大喜びです。しかし、50番室には下水みたいなひどい臭いが充満していたため、リンジーは切れてしまいました。「デレクは地下室ですごい数の貴重な文化財を見ているのに、私達はこんな臭い部屋で単純作業だなんてどういうことよ!」。そして2時間後� ��ータム博士を喫茶店に呼び出し、どうして自分は地下の保管庫に連れて行ってもらえなかったかと尋ねます。チータム博士は「特に理由はないよ。」と言いましたが、リンジーは信じようとしません。

一方ハワス博士はオバマ米大統領をギザに案内することになっていました。レズリーは撮影許可をもらいたかったけど、警備上の理由で許可をもらえませんでした。途中ハワス博士は、アメンヘテプ3世とティイ王妃の巨大な座像を見ながら、レズリーに「人々に文化財は保護すべきだと教えなければならない。」と話しました。

翌朝ハワス博士はセラペウムに行きました。数年前まで内部のあちこちに亀裂があり、崩れないように保存作業をしているからです。ハワス博士はセラペウムを3月に一般公開したいと考えています。1851年にオーギュスト・マリエットがセラペウムを発見した時、内部の各部屋には重さが60トンもある石棺が置かれていました。石棺には一頭ずつアピス牛が埋葬されていました。少なくとも67頭のアピス牛が埋葬されていました。マリエットは金・銀・宝石に囲まれた石棺の中にアピス牛を発見し、そのミイラを持ち出したのです。アピス牛は創造神プタハが地上に現れたときの姿と信じられていました。アピス牛は丸ごとミイラ処理され、不自然なスフィンクスの姿に変えるため、両脚の腱を切られていました。チータム博士がど うやって石棺を運んできて、石棺に蓋を載せたのかをハワス博士に話していた頃、リンジーがセラペウムにやってきました。そしてハワス博士に「この研修をやめることに決めました。」と言いました。そしてハワス博士と握手した後、アメリカに帰国してしまいました。(え〜、もったいない! ハワス博士から「お前はクビだ!」と言われたわけでもないのに、研修途中で帰国してしまうなんて!)。

カルナックのアメン神殿は映画「007 私を愛したスパイ」の撮影場所になったこともあります。神殿正面の工事用設備をすべて取り除いたら、ローマ時代のオイルランプやプトレマイオス朝のシンボルであるワシの刻印があるコイン、ローマ風呂、貯水槽など、貴重な物がたくさん発見されたそうです。ハワス博士は「私はエジプト人の発掘チームを誇りに思っている。科学的な発掘を丁寧にきちんと記録しているので、彼らは素晴らしい仕事をしていると思うよ。」と述べました。

次いで、カルナック内のプタハ神殿の至聖所に行きました。そこには頭部のないプタハ神の座像が残っています。頭部は所在が不明です。ハワス博士は「これは歴史への損害だ。人類が生み出した損害だ。2〜3年間のうちにこの損害を修復したい。」と言いました。そして、大勢のカメラを持った記者達を連れて、例の供物台のところへ行きました。ハワス博士は「欠けた石を元に戻すということは、元の形に修復するということだけではない。アメンヘテプ3世王墓には国王の姿はあるが、頭部はルーヴルにある。これではファラオの偉大さなど精神性の面での価値が損なわれる。欠けた部分は元に戻すべきだ。」と言いました。そして例の破片が供物台にぴったりと合わされました。この石の破片は100年以上経って元の場所に戻 ったのです。

確かに一つの文化財が世界中の複数の博物館に分散して存在するのは研究上大きな妨げになります。できれば元の場所に戻って欲しいと私も思います。

しかし、1月25日(火)に始まったエジプトの反政府デモによってカイロのエジプト博物館のみならず、遺跡や国内の遺物を保管している倉庫が略奪・破壊の憂き目にあったことで、文化財の返還はエジプトの政情が再び安定するまで行われないだろうと思うと、とても残念ですね。

ちなみに、1月31日ザヒ・ハワス博士は大臣になり、SCAが文化省から独立して、考古省になりました!!

遺跡や遺物の被害状況を確認出来るサイト

Egyptological Looting Database (): A place for users to submit new information about looting as it comes in.

ARCE (): ARCE is posting updates on the situation in Egypt, and is also collecting contact information for Egyptologists currently in Egypt. Director Gerry Scott is coordinating efforts to help Egyptologists in Egypt leave the country if necessary.

Egyptian Crisis News (): A compilation of information about the danger to Egypt's antiquities.

Egyptologists' Electronic Forum (): There is a very active ongoing thread with information about the situation in Egypt ("Unrest in Egypt").

Map of antiquities thefts ()

Zahi Hawass' blog (): Statements from Zahi Hawass, now Minister of Antiquities.

Egyptology News ()

The Eloquent Peasant ( ; http://www.eloquentpeasant.com/2011/02/05/history-is-in-the-making-but-can-we-piece-it-back-together-again/ ; http://www.eloquentpeasant.com/2011/02/12/statues-of-tutankhamun-akhenaten-nefertiti-stolen-from-the-egyptian-museum/)

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彼らの楽曲はジャズバンドの音をサプリングし、そこに多様で風変わり、かつ政治的な 色合いを帯びた詩をのせたものであった。 ... この時期の最も重要なアーティストたち として、マーリー・マールのコールド・チリン・レコーズに終結し、創作集団「ジュースクルー 」を ... read more

My Notebook-11 西村洋子の雑記帳 (11)

つまり二重の石棺で王の棺が守られていました。1940年2月28日、調査隊の後援者で あったエジプト国王ファールーク1世が世紀の瞬間に立ち会うためにモンテ .... 黄金は ヌビアの東部砂漠で豊富に算出しましたが、銀は乏しかったので、もっと早い時代には とても貴重でした。 ... しかし、プスセンネス1世の墓の発見が考古学史上重要な出来事 だったことに変わりはありません。 ... エグゼクティブ・プロデューサーのゴーハー氏による と、ハワス博士は「気が短くて、誰かがへまをすると許せなくて、すぐにカッとなって怒り 出す。 read more

17 - Writing Space Traveler

2008年11月30日 ... 彼らはその後お詫びにといって私たちをヌビア人の帆船フルーカに乗せたいから来て くれという。こちらはただ当たり前に約束 .... 移動してしまったら本来あった最も重要な何 かが失われることに現代人はあまりにも無神経だ。言っても詮無い事だ ... read more

第5話 偽扉は開く

聞く、長田文蔵の話す、日本の天皇即位式の様子はアイーシャが子供の頃に誰かから 聞いた話と同じであった。ア イーシャ・ジャマルが ... を祝福していた。そこでジャマルは、 ヌビア人のハムザ・アフマドに組織に忠実を誓わせ、結婚を許した。 ... 気懸かりとなった 。 大槻智弥プロデューサーは、「クイズ世界遺産」の特番を最後に国営テレビ局を去り、 世界遺産の保存に熱心な民 ... 深澤博士が重要な発見をしたことは気付いた。 ファイバー ... read more

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