シルクロード研究(2):万里長城編
シルクロード研究(2):万里長城編
― 私が見た万里の長城 ―
私が初めて真近に見た「万里の長城」は、北京の北西にある「八達嶺」である。煉瓦造りの堅固な城壁の上につくられた階段状の道を登って行くと狼煙台があり、そこから眺めると、山の稜線に沿って蛇がくねるように、長城がどこまでも続いていた。決して大袈裟な表現ではなく、実に感動を覚える程の素晴らしい光景であった。
先般の「中国・シルクロードの旅」では、敦煌郊外の玉門関近くにある「漢の長城」と、上記した武威〜張掖にかけて残っている「明と漢の時代の万里長城」を見た。
― 万里の長城の歴史 ―
「万里の長城」は紀元前221年に中国統一を果たした「蓁の始皇帝」が造ったと教科書などには載っているが、始皇帝によって創建されたものでは無く、長城がはじめて建設されたのは紀元前5世紀前後にさかのぼる。
この頃、北方に住む遊牧騎馬民族が度々中国に侵入して来ており、それに備えるために各地の諸侯達が長城の建設を始めた。つまり、始皇帝の長城というのは、既に戦国期に、蓁、魏、趙、燕などが独自に築いていた幾つもの長城(土塁)を繋ぎ合わせ、これを修復し、更に延長したものなのである。
始皇帝のいた紀元前3世紀頃には匈奴による侵略に悩まされていたが、その後も北からの脅威は中国の長い歴史を通じて常に続いた。万里長城とは、農耕 民族である中国人が北からの脅威、つまりは、北方地域に住む遊牧民族の騎馬による侵略を防ぐために築いた、長い長い土の防塁なのだ。
蓁・始皇帝時代の長城は、次の漢王朝によって更に延長されるなど、歴代の中国皇帝達によって、補強と改修が何度も繰り返されるが、7世紀の唐の時代には、戦略的な価値が低いとして長城に対する関心が一時的に薄れたこともあった。
どこまでも延々と続く万里長城を見ていて思ったのは、「偉大ではあるが、時としてバカバカしいとすら思えるこの歴史的建造物は、一体全体どんな理由で造られ、また、歴史的に見て、実際にどんな意味や役割を果たしたのであろうか」ということだった。しかもその陰には、建設に狩り出された多くの農民達の血と汗と失われた命があり、また、何時攻めて来るかも分からない敵に備えて、故郷から遠く離れた辺境の地に配備された沢山の防人達がいたのだ。
そこで、以下に「万里長城」の歴史や造られた目的、その他、長城に関する全般的な知識について記すこととしたい。
― 万里長城の総延長距離は約6千キロ ―
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現在、万里長城といえば、東は渤海湾に面した「山海関」から、西は「嘉峪関」に至る全長約2500キロの明代に再構築された長城のことをいう。
古来、中国ではこの偉大なる万里長城のことを、「巨大な龍」にたとえている。つまりは、山海関が渤海を飲み込む頭で、最後の嘉峪関を尾とする龍であり、途中、ゴビ灘や山岳地帯の中を、胴体がうねるように曲がりくねって伸びる姿が正に巨大な龍のようだという訳である。
また、「月から見える地球上で唯一の人工構築物」などとも言われているが、これに関してはどうも信憑性が薄いようだ。
...万里長城がいかに長大であるとは言え、その高さは5〜10m、� ��さが精々2〜7m程度の城壁に過ぎない。従って、例えば同様の長さと幅がある高速道路や新幹線などの鉄道網、及び地球上にあるもっと巨大な建造物が見えないのに、万里長城だけが月から見えると言う方がおかしいのだ。
中国の距離単位は1里が500mなので、万里というと約5千kmということになる。上記した山海関〜嘉峪関までの距離は2400〜2500kmに過ぎないが、実は長城は一筋だけでなく、時代の違うものが場所によっては二重、三重にも造られている。しかも、北の防衛線として構築された長城だけでなく、中国南部にも、韓、楚、魏などが隣国との境界として造ったものがあるし、現在は殆んど城の形を残していないようだが、遼東半島の沿岸から鴨緑江河口の丹東まで達する長城もあったという� ��...これらの全てを合計すると、総延長距離は実に約6千キロにも及ぶのである。
ここでは、渤海湾に面した「山海関」を東の起点として、西端の「嘉峪関」にまで至る明の時代に再構築された万里長城のルートを辿ってみたい。
山海関というのは、現在の河北省・蓁皇島市の北東にある、明代に造られた長城最東端の要塞である。4つの城門があり、東の城楼には、有名な「天下第一関」の額がある。北の背後には燕山山脈が連なり、南は渤海湾に面していることから、山と海に挟まれた関所という意味で名付けられたという。
山海関から燕山山脈沿いに西に向かって延び、北京の北にある「居庸関」に至る。 そこから9kmの所には居庸関の北口ともいえる「八達嶺」があって、東の城門には「 居庸外鎮」と書かれている。堅固な煉瓦造りの立派な砦で、周囲の山並みをうねるように長城が続いている。
― 万里長城が造られた目的 ―
既に述べたように、万里長城は中国の歴代王朝が北からの脅威、つまりは北方騎馬民族の侵略から自らを守るために造ったというのが定説になっている。
本来が農耕民族である中国人は、一定の場所に定住して農業を営む。これに対して、北の草原地帯には遊牧民族が住み、時として収穫された穀物を奪うために馬に乗って攻め込んで来た。馬を使った敵を防ぐにはある程度の高さの壁を築くことが最も効果的である。 つまりは、3〜5mの高さの土塁を築けば、これを越えて騎馬隊が侵入して来ることは容易でなく、かなり有効な防御ラインと成り得るのだ。...ということから、中国北部を統治していた各地の諸侯達が「北方からの敵に対する防御壁」として長城を築き� �めた。しかも、紀元前の戦国時代から始まった長城建設は、その後の歴代王朝に引き継がれ、明の時代に至るまで、約2千年にわたって築かれ続けたのである。
誰が中世の建物を所有していた
しかしながら、張掖〜武威辺りにある土で出来た長城を見ていて大いに疑問に思ったのは、実際に敵の大軍が攻め込んで来たら、この程度の壁がどこまで防御の役割を果せたのだろうかということだった。
確かに、半日ぐらいは敵を足止め出来たかもしれない。しかし、精々その程度のことで、騎馬隊が通れる部分だけの壁を壊すことなど、いとも簡単であったと考えられるのだ。しかも、敵の騎馬隊などがとても越えられそうもない、天然の要塞ともいうべき急峻な山岳地帯にまで、この長城が途切れることなく構築されている。本当に防御壁としての目的であるなら、そんな不必要な部分まで造るのは全く意味がないと思われるのだが.� �.。
それでは、このように無駄とも思える長城を、何故、歴代の中国の皇帝達は、莫大なコストと時間と労力を費やしてまで、営々として築き続けたのであろうか。...この本当の理由は、中国と言う余りにもスケールの大きい国土を治めて来た歴代の皇帝にしか分からないことのように思われてならない。
歴史の専門家ではないので単なる私の勝手な推測でしかないが、万里長城が造られた本当の意味は、北からの侵略を防ぐという現実的な目的よりも、「歴代皇帝達のロマンと妄想」という意味合いの方が遥かに大きかったのではないかと考えられる。
まず第1には、自分が統治する広大な国土の確固たる国境線として、北からの侵略に備える防御線という意味も兼ねながら造ったのは間違いのない所で� �ろう。そのため、北方の敵も含めた誰の目にも見え、誰もが見て驚くような長城を途切れることなく築くことによって、自らの力を内外に誇示しようとしたのではないか。
次に妄想とは。大事な領土を一部分だけ侵略されるだけならまだしも、いずれは王朝そのものまでが滅ぼされ、自らの命を失うのではないかという、毎日夢にまで見る恐怖心から、無駄もへったくりも無く、一本の防御ラインとして途切れる所の無いように長城を造らせた。特に、モンゴルによる侵略と支配を受けた直後の明王朝が、膨大なコストをかけて長城を強固なものに再構築したのは、再び異民族に侵略されるかもしれないという皇帝達の被害妄想と恐怖心にかられた結果からではないだろうか。
一本の確固たる防御線を延々と何千キロにもわた� �て構築したという、皇帝達にとっての満足感、安心感といったものは、その土の壁が持つ実際の機能よりも遥かに大きな意味を持ったに違いない。
― 長城はどのようにして造られたのか ―
明代になってからの長城は、煉瓦と石で築かれるようになったが、それまでの長城は、「版築工法」と呼ばれる中国独特の手法で、土を突き固めながら造られた。版築工法とは、板や煉瓦などで周囲を囲んでから、その内側に土や、小石、砂などをこねて流し込み、一層づつ突き固めていく。土の層は約10〜20cm位の厚さで、5〜6mの高さまで何段も積み重ねて行くのである。
現地で入手できる資材を使うのが原則で、平地や黄土地帯では土と藁、砂漠地帯では砂や小石と、柳の小枝や葦などを交互に重ねながら土壁を造った。
明の時代になると、土や石の他、堅固な外壁を造るために煉瓦と石灰が用いられるようになった。煉瓦は現地に造られた窯で焼かれた� ��、その燃料として広大な森林が伐採されたという。明代の長城建設は初代皇帝・太祖によって始められ、全工事が完成するまでに実に170年余りの歳月を要した。
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現在のような建設機械がない時代に、あれだけの長大な城を築くには膨大な人力の投入が必要だったことは言うまでも無い。何時の時代においても、人力の主要な源泉は常に「農民」達であった。蓁の始皇帝は50万人以上の農民を強制的に徴用したと伝えられているが、その後の歴代王朝も同様で、北斉の文宣帝の時代には180万人もの農民が動員されたという。
農民以外には、辺境防衛にあたらせていた兵士や、特別刑罰として有罪になった囚人達が長城建設の労働力として使われたようである。
大工事を進めるためには、労働力の安定的な確保と労働管理が重要であったことから、明代には9辺鎮(9つの軍管区)の長官に建設の責� ��が委ねられた。数十万、数百万もの人達を動員し、彼らの食料や建設資材を補充しながら、いかに効率的に作業を行わせるか。...正に長官達の行政手腕が試された一大事業であったに相違ない。
― 長城の防衛には百万人もの軍隊が配置された ―
さて、こうして数千キロにも及ぶハードとしての長大な長城が築かれた訳だが、これを「真の軍事的防衛線」として十分に機能させるためには、見張りや防衛隊の役割を果たす兵士の効率的な配置が不可欠であった。また、沢山の兵士に対する食糧や水・燃料、武器などの補給は勿論、いざ敵が攻めて来た時に、どう対処すべきかかといったようなソフト面での運用が旨く行かなければ、せっかく莫大なコストをかけて造った長城の意味は無いも等しいものになってしまう。
そこで明王朝は、山海関から嘉峪関までの間に、数百の関所と数千の見張り台や駐屯地を造り、100万人にものぼる軍隊を配置した。また、上記した9辺鎮が、長城完成後も各軍管区を管轄 しながら防衛の任務に当ったのである。
長城建設に刈り出された農民達も大変だったであろうが、その後、故郷を遠く離れて辺境の地に配属された兵士達も迷惑千万だったに違いない。...というのも、実際に敵が攻めて来る可能性なんてゼロに近い所が殆んどなのだから、そんな辺境の地で毎日見張りをさせられても、モラール維持がはかられるべくもなかったと思われるのだ。
...万里長城を築いてきた中国皇帝達のロマンや満足感の陰で、過酷な建設工事に従事させられた農民達や、辺境の守りに就かされた多くの兵士達の悲しい物語について、歴史は何も語ってはくれない。
従って、もしこのまま放置されるようであれば、偉大な世界的建造物である万里長城も、いずれは大自然の力と人間達によって次第に崩れ去ってしまうであろう。今後、世界各国が協力して万里長城の保存・修復に全力を挙げ、いつまでも素晴らしい世界遺産であり続けて貰いたいと心より念じている。
(左の写真は崩壊が著しい北京郊外の万里長城)
13世紀になると、チンギス・ハーンによる史上最大の北からの侵略により、中国全土がモンゴル(元王朝)によって支配されてしまう。
この時の侵略に対して、長城はその役割を殆んど果たさなかったと言われているが、14世紀後半に明王朝が建国されると再び長城の重要性が再認識されるようになった。
明の首都である北京は、長安などに比べてかなり北に位置しており、依然としてある程度の力を保っていたモンゴル族などの北からの脅威に直に晒されていたからである。
居庸関から先は明代・内長城、外長城と呼ばれる2つの長城に分かれたあと、黄河に沿って蛇行しながら、銀川の手前から蘭州に向かって南下する。途中、何ヶ所かの地点で黄河を越える場所がある。武威の南東約50キロの辺りで2つに分かれ、1つは黄河沿いに湾曲しながら南に延びて蘭州へ。もう1つの長城が河西回廊に沿って北西に向かい、西の終点である嘉峪関に達する。
嘉峪関は明の太祖・洪武帝の時代に建てられた「天下雄関」と呼ばれる城塞で、海抜約1800mの砂漠の中にある。実際にはここで万里長城が終わる訳ではなく、漢・武帝の時代に造られた長城が更に西に向かって延びており、今でも長城の残骸ともいえる土塁が所々に残っている。
(左の写真は嘉峪関の城壁の上からみた万里長城の西の果ての光景)
張掖の近くにある山丹という町の辺りから崩れかけた土壁が現れ始め、武威の手前の永昌という町まで、はっきりと万里長城だと分かる城壁が延々と連なっており、数キロおきに一定の間隔で狼煙台らしきものが築かれていた。
まっ平らな平原の中や山裾に沿って切れ目無く続く土壁の外(北側)は、地平線の彼方まで広がる草原やゴビ灘か山岳地帯であり、誰一人住まない不毛の大地だ。そして、...こんな所に莫大な金と労力を費やして長城を作る意味が、果たして本当にあったのだろうか、という素朴な疑問が湧いて来た。
武威から銀川に向かう途中でも、鉄道沿いに連なる万里長城があった。所々、造られた時代が違うと思われる長城が2重になっている場所があったり、また、村の民家をよく見ると、長城を自分の家の 塀代わりにちゃっかりと使っていたりした。
「漢の長城」は高さ3〜4mの土の壁で、葦と土が何層にも積み重なった古代の城壁の跡だった。崩れた壁の断面を見ると、何千年も前のものとはとても思えないような葦が沢山露出しており、その葦と、土や小石とを交互に突き固めて造る中国独特の「版築工法」でつくられたことが良く分かった。(写真・右)
一方、敦煌から銀川に向かう途中には、高さ5〜6mの漢代と明代の2つの時代の万里長城が残っていた。前回は鉄道の車窓から少し眺めただけだったが、今回は張掖から武威に向かうバスの中から、国道と並行して連なる長城をじっくりと見ることができた。
そのため、明王朝は軍事防衛線として長城の強化・延長により再構築を図るとともに、戦略的な要衝に「鎮」を置き、そこに軍隊を駐屯させるようした。東の山海関から西の嘉峪関までの全線にわたって本格的な修復工事が行われ、城壁には煉瓦を使用するなど、現在われわれが北京近郊で見るような立派な城につくり変えられた。明王朝は、過去のどの王朝よりも長城を重要視し、維持、補修や軍隊の配備などを継続的に行ったのである。
(上の写真は明代に再構築された煉瓦造りの堅固な長城と城楼)
それから数日後、北京から西安に移動した後、鉄道で蘭州から酒泉に向かって河西回廊を走っていると、武威と張掖の間で、車窓から崩れかけた土の壁が点々と見えた。土壁は砂漠の中を、西の方向に延々と連なっていたが、暫らくの間、私はそれが万里長城だとは気が付かなかった。八達嶺で見た煉瓦造りのあの立派な長城とは余りにも違い過ぎたからである。それは正に万里長城の残骸ともいえる、惨めなまでの土の塊にしか見えなかった。
八達嶺(左)と、狼煙台から見た、山の稜線に沿ってどこまでも続く万里長城
張掖と武威の間の平原に残る万里長城
天下の雄関・嘉峪関
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