セロリのおはなし – セロリズッペン
瀬高のセロリ
セロリといえば、あの国民的アイドルグループの曲にもなっているように、人によって好き嫌いが分かれる野菜の代表格。もともと、古代ローマやギリシャでは、強精剤や整腸剤としても利用されていたほど栄養豊富な野菜で、あの独特の香りが好みが分かれるところだ。食卓に絶対欠かせない食材かといわれると言葉に詰まるが、あったら普段の料理が何倍も美味しくなる。特にサラダや肉料理、煮込み料理にセロリが加わったときの美味しさといったら。
そんなセロリの日本三大生産地がある。長野県、静岡県。そして、福岡県瀬高町だ。どうして福岡県だけ瀬高町とつけるかというと、その生産量のほとんどが、瀬高町だから。しかも、瀬高町でセロリを作っている農家はわずか28軒で平均年齢は42歳と若い。日本中の農村地を悩ます高齢化や後継者不足をよそに、格段に若い顔ぶれといえるだろう。もちろん、瀬高にもベテランのセロリ農家は健在だが、その次の世代を担う若いファーマーたちへのバトンが順調に受け渡されている。この28軒の農家のみなさんが、九州一はもとより、西日本随一のセロリ生産を担っているのだ。ここでは、瀬高町で新しく誕生した、乾燥スープの素「セロリズッペン」の材料となる、福岡・瀬高町のセロリの話をしようと思う。
もともとセロリはレタスなどと同じく、暑さが苦手で涼しい気候を好む野菜。日本に初めて伝えられたのは、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際。加藤清正が持ち帰ったことから「キヨマサにんじん」などと呼ばれたりもしていた。そんなセロリがどうして、温暖な福岡の瀬高町で栽培されるようになったのか? これは、太平洋戦争終戦後に、米軍が佐世保に基地を設けたことと深い関係がある。日本国内に設けた基地とはいえ、食事は当然洋食。軍人さんやその家族たちが慣れ親しんだ洋食にセロリは欠かせない食材。だが当時、日本にセロリを本格的に栽培している地域はなく、その候補地として瀬高町に白羽の矢がたったのだ。
ハガイソフィアはどのような影響を持っていなかった
このセロリの栽培、実は気温だけではなく、その土壌の質も重要な要素だ。瀬高町は町を横断するように矢部川が流れており、この矢部川は江戸時代にはよく氾濫を起こし、周辺の土地に上流からの土砂を運んでいた。こうして長い年月を経て出来上がった瀬高の土は砂質土で水はけがよく、セロリが育つのに適した土地になった。同じ瀬高町でも、栽培地からわずか2kmほど場所がずれると土壌はとたんに粘土質になり、セロリの生育には向かないそうだ。
セロリを育てる、ということ。
瀬高のセルリー部会・部会長の坂田修二さんと、セロリズッペン研究会を主宰する森弘子さんに案内され、セロリを栽培する産地に伺ったのは1月の末。近年全線開通した九州新幹線のお膝元に連なるハウス群に近づくと、ほのかにあの独特の香りが漂ってくる。
瀬高町ではセロリは年に2回セロリを栽培する。第一期は6月中旬~8月中旬にかけて蒔いた種を11月中旬~収穫、第2期は11月中旬に蒔いた種を6月中旬まで収穫するサイクルだ。だから市場には瀬高産セロリが11月中旬から6月の中旬まで出回っている。この7ヶ月もの間、セロリをロングランで出荷できる生産地は日本広しといえども、静岡県と福岡の瀬高町だけだそう。
「セロリは涼しい気候が好きでしょう。だから野生のセロリと環境が近い、冬場に出荷するのはどの産地でもできるんです。瀬高が得意とするのは、5~6月に出荷するセロリ。厳寒期に種から苗へと育てるのが、戦後間もなくからセロリ栽培を行ってきた瀬高独自のノウハウなんですよね」と坂田修二さん。
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色白セロリは瀬高の箱入り娘
ハウスを訪れた時間は午後3時ごろ。坂田さんの「そろそろショータイムが始まりますよ」との言葉にあわせるように、ハウスの天井が黒いカーテンで覆われていく。たちまちハウス内が夜の帳に包まれる。「人工的に日照時間を短くして、生まれたときから"時間ぼけ"させて、花が咲かないようにしているんです」(坂田さん)。セロリは花が咲くと、固く筋張ったものになってしまう。そうならないためにも、温度と光の当たる時間を綿密に計算して、商品価値の高いセロリへと育てているのだ。
言われてみると、幼い頃から日の光を制限されて育ってきたセロリの苗は、淡い緑色。日に焼けて真っ黒な少年というよりは、大切に家の中で育てられた清楚な色白少女といった雰囲気だ。「苗の段階ではなるべく薄い色になるようにするのですが、でも、白すぎたら病気になるんです」(坂田さん)。人と一緒でそのあたりの加減が難しいそうだ。
ぬくぬくセロリベイビー
そもそもセロリは種を準備してから収穫にいたるまでに約5ヶ月ほども要する野菜。「夏場のほうれん草なんか30日で収穫できますから、それに比べると随分手がかかるとですよ」(坂田さん)。セロリの一生のスタートは瀬高に湧く清冽な伏流水の中。水の中で発芽し、か細い首をもたげて双葉を広げたころにようやく土へと引っ越しする。
ピンセットで1つ1つ優しくつまみ、根がしっかり張っているかを確かめながら、1㎝四方の小さな畑に1株ずつ移していく。なんとも繊細で、根気のいる仕事だ。
苗の間は特に温度と日照時間の管理が大切で、厳寒期でもハウス内の最低気温が20℃を下回らないように、夜中でもパイプに60℃のお湯を循環させ、春のような気候に保っている。余談だが、実はこのハウス、1棟を作るのに家1軒分ほどの費用がかかっているとか。まさにそれだけセロリにかける覚悟と情熱を持った農家しか手を出していないのだ。
使用される城は何だったの
セロリの樹林でつかまえて
栽培から80日ほどが過ぎ、ようやくセロリの面影がでてきた頃に、本殿と呼ばれるハウスに移される。ここで収穫まで育つこととなる。苗の時期に花芽を付けなかったセロリは、本殿に移されると九州の太陽を体いっぱいに浴びて、グングンと背丈をのばしていく。葉は濃い緑に、か細かった茎は丸みを帯び、太くパンパンに張って来る。背丈は70~75cmほど。腰をかがめて見ると、新緑に輝く樹林のようだ。
収穫は10時の集荷に合わせるため、まだ暗闇に包まれた早朝4時から行われる。ハウス内に照明をたてて、手早く刈り入れて行く。収穫したばかりのセロリの株から1本をもぎり、口に入れる。
「シャリッ」。
口の中いっぱいに瑞々しさが広がり、噛むほどに甘さの波が押し寄せて来る。普通のセロリにありがちな、固い筋もない。もし、目隠しをして食べたなら、果物と間違えるかもしれない。セロリが苦手という人にこそ食べて欲しい、これが本当のセロリだったのか! という味だ。
クセがあるから、味がでる。
収穫の際、セロリは外側の数本の茎を落とされてしまう。特に品質が悪いからというわけではなく、出荷用の箱に入りきれないとか、中心部に比べるとやや固いから、クセがあるからという理由だそう。これは"かき葉"と呼ばれ、この市場には出荷されない部分が「セロリズッペン」の材料となるのだ。
食卓に届け! 畑のおいしさ
さて、収穫されたセロリたちは、トラックに揺られ集荷場へと運ばれる。旅立つ先はそのほとんどが京阪神の市場。瑞々しさと香りがウリなだけに、鮮度が命。瀬高町では、できるだけ畑に近い状態のセロリを届けようと、約10年前から箱丸ごと真空にする真空予冷庫を導入し鮮度を保っている。
365日、セロリとともに
瀬高町でセロリを栽培するセルリー部会は全部で28名。夏場にほうれん草を少し栽培する農家もあるが、その大半は年間を通してセロリしか栽培していない。部会長の坂田修二さんもセロリ一筋30年の人。「出荷する期間は7ヶ月ですが、それ以外の時期も、種蒔きやら土作り、植え替えなど、何かの世話をしてますね。365日、セロリのことで頭がいっぱいです。うちは百姓なのに、米を作る暇もない。だから長いこと他所から買ってるんですよ」と笑う。そこには、セロリ作りに心を砕く大変さの一方で、セロリ作りならどこにも負けないという自負が滲んでいるようだ。そのようなセロリと真摯に向かい合ってきた瀬高町だから、市場からの信頼も厚い。「競りのとき、数十品目ある中で瀬高のセロリだけは箱も開けずに安心して競り が行える」。多くの市場関係者が口をそろえて言うこの言葉が、瀬高セロリの品質を表しているだろう。
セロリは直売所のアイドル
このように、市場での評価が確立される一方、地元の人達はあまりセロリを口にすることはなかった。それというのも、大都市での価格が安定しているためにほとんだが市場に出荷され、なかなか地元にセロリがまわってこなかったのだ。瀬高の人たちにとってセロリは近くて遠い高級野菜だった。そこで、瀬高や近隣の人にもセロリの美味しさを味わってもらおうと、直売所・卑弥呼の里でセロリの販売をするようになった。それも株ごと丸のままの状態で。これが飛ぶように売れて行く。初めて見たなら、1株消費しきれるか不安になりそうな大きさだが、最初はサラダやそのまま生で食べて、時間が経ったら煮込み料理や酢漬けにすると、1株きれいに使い切れるのだとか。
日本のセロリ栽培の草分けともいえる福岡県瀬高町。先人たちが手探りで見つけてきた栽培技術と熱いセロリ愛を胸に、今日も28人の若きセロリマイスターたちが、セロリと向き合っている。
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