2012年4月29日日曜日


>検索してみたらSD_VIDEOのPRLというところにあることがわかりました。
>新しいSDカードでどこに貼りつけたらいいかがわかりません
>(古いSDの表記と異なるのでよくわかりません)

では、PRLというフォルダに目的の動画が
全てはいってるということですね??

2012年4月28日土曜日


海江田 万里(かいえだ ばんり、1949年2月26日 - )は、日本の経済評論家、政治家、衆議院議員(5期)、衆議院財務金融委員長。

市民リーグ代表(初代)、民主党政策調査会長(第5代)、内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)、内閣府特命担当大臣(科学技術政策担当)、経済産業大臣(第14代)などを歴任した。

[編集] 生い立ち

東京都杉並区出身。

新聞記者だった父は中華人民共和国や台湾にいたことがあり、万里の名前は万里の長城に因むことから、自身も「中国とのかかわりは、生まれた時から」と語る[1]

また父は鹿児島県出身で、大学を卒業するまでの本籍は鹿児島県日置郡金峰町(現南さつま市)だったことから、「鹿児島は私の故郷」という[2]

東京都立鷺宮高等学校、慶應義塾大学法学部政治学科卒業。

[編集] 経済評論家として

慶大卒業後、タレント政治家であった野末陳平秘書を経て、自身もタレント、経済評論家として独立。テレビ、ラジオ、雑誌などで税金や経済情勢の解説者として幅広く活躍した。ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!に「海江田総理(当時の海部総理のパロディ)」として数秒出演したことがある。バブル経済で財テクブームが到来すると、一般向けの財テク指南書を多く出版した。また、1989年4月~1991年3月まで「TXNニュース THIS EVENING」の土曜メインキャスターを務めた。

[編集] 政治家として

1986年、第14回参議院議員通常選挙に税金党公認で東京都選挙区から出馬し、落選した。1993年、第40回衆議院議員総選挙に日本新党公認で旧東京都第1区から出馬し、初当選した。1994年9月に日本新党を離党。民主新党クラブを経て、1995年に山花貞夫ら日本社会党を離党したグループを糾合して市民リーグを結成し、代表委員(党首)に就任。翌1996年、村山富市の首相辞任に伴う首班指名選挙では、市民リーグを代表したが惨敗した。その後、新党さきがけを離党した菅直人や鳩山由紀夫らの主導による旧民主党結党に市民リーグとして合流する。1996年、第41回衆議院議員総選挙では東京都第1区から出馬し、小選挙区で落選(自由民主党の与謝野馨が当選)、比例東京ブロックで復活当選した。

1997年10月、金正日の北朝鮮国防委員会委員長推戴を記念する祝賀宴に参加した[3]

2000年第42回衆議院議員総選挙では東京1区で与謝野を破り当選した。同年、民主党東京都連会長に就任。同年12月には在日本朝鮮人総連合会の招請による民主党の訪朝団に参加し、北朝鮮を訪問した[4]

2002年には党政策調査会長に就任した。2003年、第43回衆議院議員総選挙では再度与謝野を破り当選した(与謝野も比例復活)。

2005年第44回衆議院議員総選挙に東京1区から民主党公認で出馬し、与謝野に敗れ落選。比例復活もできなかった。

2009年8月、第45回衆議院議員総選挙では東京1区から民主党公認で出馬し、与謝野を破り4年ぶりに当選した(与謝野も比例復活)。総選挙後、民主党選挙対策委員長代理に就任した。

2009年12月10日、小沢一郎を中心とした民主党議員143名、その他民主党支持者500名あまりが参加した小沢訪中団に参加。

2010年9月民主党代表選挙に一旦は出馬する意向を表明し、小沢一郎にも出馬の意向を伝えた。しかし、当の小沢が出馬の意向を示したため自身の出馬表明を撤回、代表選挙での小沢への投票を明言した。小沢は菅直人に敗れた。同年9月に発足した菅第1次改造内閣で内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)とともに内閣府特命担当大臣(科学技術政策担当)に就任し、初入閣した。また、国務大臣として宇宙開発担当[5]の補職を受けた。

2011年1月、菅第2次改造内閣では経済産業大臣に横滑りした。この内閣改造では小選挙区のライバルである与謝野馨も入閣した。与謝野の入閣に関し、海江田は「人生というものは不条理だ」と感想を述べた。2011年4月11日、国務大臣として原子力経済被害担当[6]の補職を受けた。

2012年4月26日木曜日


ピラミッド  ピラミッドパワー

                             

 世界の七不思議の一つに、"ピラミッド"があります。 世界文化遺産に登録され、多くの謎を秘めたピラミッド。エジプトや中米、南米だけでなく、日本など世界各地でも発見されています。古代文明の遺産といえるピラミッドの建造時期や目的、建造方法、機能などについては、諸説がありますが、まだ充分解明されていない現状です。
 科学が高度に進歩した今日に至っても未だに真相が解明尽くされていません。今日までの主流な説では、ピラミッドは王の墳墓で、建造目的は農閑期における公共事業説がほぼ定説となっているようでした。
 しかし、巨大で神秘的な建造物であるピラミッドには、何か人間智を超えた秘密が隠されている気がします。単なる"王様の墓"という雰囲気はありません。数トン もの石を数百万個積み重ねて造られた巨大ピラミッド。しかも宇宙的データが秘められた緻密な建造物。現代の最新技術でも数十年の年月と数千億円の費用と超高精密な宇宙工学を駆使しなければ建造出来ないと最近言われています。 当時の人たちがどういう方法で建造したのか、真の建造目的、使用目的もまだ推測の域を脱していないようです。
 ピラミッドとは、古代エジプト語の「昇る」という言葉に由来しているとされています。太陽を目指して上昇していく精神、その象徴がピラミッド。建造当時は、化粧石に覆われ、陽光に、月光に美しく光り輝いていたと言われています。ピラミッドは、大宇宙と人間とを結び、交流するための「精神の塔」「神との交流の場」であったのでしょうか。後世の人類へのメッセージ、モ� �ュメントとして建造されたのでしょうか。それとも地球や人類の"波動調整装置"として建造されたのでしょうか。
 いわゆる"ピラミッドパワー"と呼ばれている、脱水、防腐、活性化等の不思議な作用がなぜ生じているのか、不思議なことが数多く秘められています。
 今回、ピラミッドに関する数々の謎を探ってみたいと思います。

Ⅰ.ピラミッドの概要
《ピラミッドとは》

   ・ ピラミッド(Pyramid)とは、四角錐状の巨石建造物の総称。また、同様の形状の物体を指す。  --- フリー百科事典
   ・ 石や煉瓦で造られた四角錐形の建造物。古代エジプトでは王・王妃などの墳墓として前2,700~前2,500年頃を中心に建設され、81基が現存。エジプトの古王国時代の王の墳墓群は有名。 最大のものは、ギゼーにあるクフ王建造のもので、高さ146メートル、基底の一辺が約230メートル、その四稜は東西南北を指す。中南米の古代遺跡では神殿の基壇をなすものが多い。金字塔。--- 大辞泉事典
   ・  語源は三角形のパンを指す「ピラミス」ピラムス、ピューラミスとも)。古代エジプト語ではギザのピラミッドに「昇る」という意味の「メル(ミル、ムルとも。ヒエログリフでは△と書く)」という言葉を当てていた。
   ・ ピラミッドの語源は諸説あって確定できない。
   * 日の光が満ち溢れる神殿』
   * 超古代の日本語の"日来神宮"(ヒラミット)((比彌廣殿))が伝承により海外で使用され、変化した呼び名。

   ・ 世界文化遺産・・・・・・・ギザからダハシュールまでのピラミッド地帯 1979年登録。
  ・ メキシコ・中央アメリカにも約8,000基。
  ・ 南米、東南アジア、日本等各地にも存在。
   ⇒ アステカ文明の遺跡ティオティワカンの「太陽と月のピラミッド」、メキシコのマヤ文明のウシュマルのピラミッド、ジャワのボロブドール、バミューダの海底ピラミッド、日本では葦嶽山、位山、皆神山などがある。

《ピラミッドの形状》

  ① 階段ピラミッド   階段状の四角錐の形状のピラミッド。
  ② 屈折ピラミッド   途中から勾配を54度から45度に変更して造られたピラミッド。
  ③ 真正ピラミッド   勾配約43度、側面が二等辺三角形のピラミッド。
  * 自然の山を円錐状に加工。
※ 世界最大のピラミッドは、エジプトのギザに築かれた「ギザ」のピ ラミッド。スネフルの次のクフ王によって発見・世界中で有名になった。
 【特徴】
  ・ 正確に東西南北に面して建てられている。
  ・ 方位は東西方向でわずか約0.5度の誤差。四隅の角も90度03'02"~89度56'26"と4つの角はほぼ直角。
  ・ 底辺は各辺230m、高さ146.7(146.5)m(現在は137.28(137.5m))の正四角錐。 長さと高さの比は黄金比 1:1.6になっている。
  ・ 容積:約260万m3で、平均2.5 t の石材を約230~270万(300万)個積み上げたと計算される。
  ・ 地上60mの高さには、60トンの巨石が組み込まれている。
  ・ 西面が230.35m。北面が230.25m。東面が230.39 m。南面が230.45m。
  ・ 最長と最短の差はわずか約20センチ。誤差0.09%
  ・ 傾斜角は51度52分。誤差は、平均3アーク秒(1度の5%程度)。(傾斜角51度50分35秒)
  ・ 大岩は1個数千トンと推定されている。
  ・ 最頂部には一辺が3.5メーターで高さ2.2メートル、約20トンのクラウン(キャップストーン:冠石)が載せられている。
   ※ 現代建築の誤差は、1,000分の一。

  * 三大ピラミッド --- クフ王、カフラー王、メンカフラー王のピラミッドが有名。
  * 三大ピラミッド以外のピラミッドは、通常技術で建造可能。
  ・ カフラー王のピラミッドは建造当時143mで現在は136.4m。 底辺各210m、高さ143.5m、辺の角度52度20分。
  ・ メンカウラー王のピラミッドは最も小さく、66メートル。

Ⅱ.ピラミッドの起源   ( 2,006.4.12 UP )
  
 
・ 世界各地で発見されているピラミッドのうち、初期の建造年代は、約紀元前1万年~1万5千年前と判断される。
    根拠 ⇒ ① 地質学者の調査により、侵食の形跡等を解析した結果、紀元前約1万5千年前頃。
             (最後のナイル川の大氾濫:最後の氷河期)
         ② 三大ピラミッドの配置が、星の歳差運動を考慮してコンピューターでの計算結果、1万450年前のオリオン座の三つ星を正確に地上に配置したものと判明。
           ⇒  (三大ピラミッドとナイル川の配置が、オリオン座と天の川に一致)
         ③ 各種の神話、伝説が標記の説に一致。
  ∴ 信頼できる情報等総合判断すると、ギザの大ピラミッドとスフィンクスは
紀元前1万450年頃。(紀元前1万490年~1万390年に建造。)


    ※ 初期のピラミッド完成後、大転変地変で文明が壊滅、一部分の当時の文明がかろうじて伝承され、下記のような古代エジプト文明以降の道を辿っていった。(難破物語には巨大蛇神国が火山の爆発で沈没したとパピルスに記録されている。)
    ※ 初期ピラミッド後に建造されたピラミッドは、時代経過とともに貧弱なピラミッドとなる。
  ※  三大ピラミッド以外はすべて王権誇示の為に作られた疑似ピラミッド  

2012年4月25日水曜日


9 人中、9人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。

5つ星のうち 3.0 発明の歴史を知る一冊, 2006/9/18

レビュー対象商品: 誰が本当の発明者か (ブルーバックス) (新書)

本書は、発明にまつわる話を集めた本である。本書を読めば…

・ 国や時代によって、発明者が異なることがある

・ 発明は、多くの先行研究があって成り立つものである

・ 発明には、争いがつきものである

・ 発明者を一人(1グループ)に絞り込むのは難しい

…ということが分かるであろう。


どのような種類の木は、インドのクリスマスに飾られています

例えば、エジソンが発明したとされる白熱電球。白熱電球は日本では、エジソンが発明したというのが常識となっている。しかし、英国では白熱電球はスワンが発明したことになっているらしい。当然、白熱電球にも先行研究があった。それは英国のデービーが発明したアーク灯である。ちなみにデービーは、ナトリウム,カリウムなど8つの元素を発見したことでも有名。また、白熱電球の特許権に関連して裁判が起こっている。

上記のようなことは、白熱電球に限らず、多くの発明に関連して起こっているらしい。

2012年4月24日火曜日


 「ビジュアルタイムライン
    アメリカ・インディアンの歴史」

グレッグ・オブライエン著 阿部珠理訳 東洋書林

本書の特徴は、多角的に先住民を捉える総合的な視点と、その記述内容
のバランスの良さにあるだろう。アメリカ・インディアンに関する歴史書は、時と
して先住民を一方的な被害者として描いたり、中立を目指すあまりヨーロッパ
の植民地主義の加害性を充分に明らかにしない態度をとったりするものもあっ
た。本書は、ヨーロッパ社会とのコンタクトがもたらした先住民社会および文化
の変容の要因と過程を、できうる限り公正に記述するという姿勢に貫かれて
いる。

例えば、インディアン社会の衰退を考える際、その背景として伝染病や白人と
の戦い、ヨーロッパの市場経済に巻き込まれる過程で激化する部族間抗争、
諸部族間の伝統的な敵対関係を利用して植民勢力を拡大しようとするヨー� ��ッ
パ諸国と、彼らへの先住民部族の自主的な協力などがあげられる。ヨーロッパ
植民勢力の明白な先住民劣等視と彼らの際限ない強奪の一方で、それを容易
にした先住民社会の分断と分裂も明らかになる。そしてそれらが、地域によって
異なる先住民部族社会に共通する歴史であることが納得される。
(本書 訳者あとがき より引用)

 
「この大地、わが大地」
アメリカ・インディアンの抵抗史
J・コスター著 清水和久訳 三一書房

この本の原著は、米国のジャーナリスト、ジョン・コスター氏が日本人の読者
のために書いた約800枚のタイプ原稿である。(中略) この本の前半が、過去
の調査や研究に多くを負っていることはあきらかだが、事実の提出の仕方や
捉え方、組み合わせ方には独特のものがある。そして、いうまでもなく、圧巻
は後半である。いわさか冗漫で未整理な記述もあるとはいえ、コスター氏が
1960年代後半以降のインディアンの抵抗運動に共感しつつ、自分の目、耳、
足で現場で取材し、抵抗者と交流した他に得難い記録がここにある。1970年
代に入って、日本の読者にも、ディー・ブラウン「我が魂を聖地に埋めよ」(鈴木
主税訳 草思社)、藤永茂「アメリカ・インディアン悲史」などをはじ� �として、
いくつかのすぐれた書物が手に入るようになったが、最近10年間のインディア
ンのたたかいをこれほど詳しくまとめあげた本は、当の米国にも見当たらない
のではなかろうか。前に記したように、コスター氏には、この本にもしきりに登場
するロバート・バーネット氏との共著「ウンデッド・ニーへの道」があるが、氏は
過去6年間、インディアンの抵抗運動に強い関心をもって報道してきたジャーナ
リストで、氏の書く記事は北米新聞連盟のシンジケートを通じて、米国やカナダ
の読者の手に渡っている。訳者は「ニューズウィーク」誌や、インディアン自身
の新聞「アクウェサスニー・ノーツ」紙などで、氏の文章を読んだこともある。
「ウンデッド・ニーへの道」は74年6月の発売から 一年間に10万部以上売れ、
著者は、「シグマ・デルタ・カイ賞」を受けた。「報道部門における公衆への貢献
顕著」が受賞理由だったという。
(本書 訳者あとがき より引用)

 
「奪われた大陸」 
ロナルド・ライト著 香山千加子訳 植田覺監修 NTT出版 

原題が示すように、著者はコロンブス以後の500年間の歴史を、南北両
アメリカ大陸先住民の記録を通して問い直している。勝者の側から書かれた
従来の歴史は、コロンブスの「発見」を人類の輝かしい瞬間であったと教えて
きた。しかしアメリカ大陸の先住民にとっては、これが侵略の始まりであり、
今日まで続く長い抑圧の歴史の第一ページであった。1492年のアメリカ大陸は、
全世界の約五分の一の人口を擁していた。それらわずか数十年を経ずして、
海を渡って運び込まれた疫病と、異邦人による虐殺の犠牲となって、ほとんど
の先住アメリカ人が姿を消した。ヨーロッパからやってきた侵略者たちは、巨額
の富を手中にし、偉大な芸術を破壊し、大陸そのものを奪った。しかし先住民族
の� �べてが死に絶えたわけではなかったし、彼らの歴史が消滅したわけでもな
かった。著者ロナルド・ライトは、アテスカ、マヤ、インカ、チェロキー、イロコイの
五民族を取り上げ、先住民の言葉で語られた彼らの歴史を、我々読者の目の
前に展開している。アジアやアフリカの場合と異なり、アメリカ大陸には侵略者が
居すわり続け、今日に至っている。両大陸のほとんどの国々で中心を成している
人々は、ここに腰を据えたヨーロッパ人たちである。しかし、アンデスにはインカ
の言語を話す1200万人の人々が住んでいる。また、もしグアテマラが多数決制
を採用していたなら、マヤ共和国が成立していたであろう。現在ペルー政府を
悩ませている極左ゲリラ・センデロ・ルミノソの虐殺行為は、ピサロによ� ��
アタワルパ虐殺の物語の一部であり、1990年カナダのオカにおけるモホーク
の暴動は、かつてカナダがイロコイを裏切ったことに端を発している。15世紀
から1990年までの五民族の歴史を、多くの先住民の生の言葉をちりばめな
がら描き出している本書は、「勝者の語る歴史」にしか触れる機会のなかった
多くの読者に、驚きと新たな視点を与えてくれることと思う。
(本書 訳者あとがき より引用)

 
 
「古代社会 上下巻」 
L.H.モルガン著 青山道夫訳 岩波文庫

以上に述べた四種の事実は、野蛮状態から文明に至る人類進歩の行程に
沿うて平行して進展するものであり、本書における論究の主題を形成するもの
である。われわれが、アメリカ人として特別な義務のみならず特別な興味をも
有する研究の一領域がある。アメリカ大陸は物質的な富の豊富なことで有名
である。それはまた、未開の大時期を例証する人種学的、言語学的、考古学
的資料においても、あらゆる大陸において別々ではあるが斉一な経路をすす
み、人類のすべての部族および民族においてきわめて一様に、同一進歩の
状態にいたったのである。したがって、アメリカ・インディアン部族の歴史と経験
とは、それに対応する状態にあったわれわれ自身の遠い祖先の歴史と経験と
を、多少と もそれに近く示すことになるのである。彼らの制度、技術、発明およ
び実際的経験は人類の記録の一部を形成するものであり、インディアン人種
それ自身をはるかに超えた高度なそして特別な価値を有するのである。発見
された当時、アメリカ・インディアンの部族は三つの異なる人種的時代を示し
ていた。そして、その当時地球上において示されるどこよりもそれを完全に示
したのである。人種学、言語学および考古学の資料は比類なく豊富に提供さ
れた。しかしこれらの科学は、今世紀にいたるではほとんど存在せず、そして
現在のわれわれの間においても、その研究はわずかにしか行われていない
のである。のみならず、地中に埋没されている化石の遺物は、将来の学徒に
対しても現状を保つであろ� ��が、インディアンの技術、言語および制度の遺物
は、そうではないであろう。それらは、日々、消滅しつつあり、そして三世紀以
上もすでに消滅しつづけていたのである。インディアン部族の種族的生活は、
アメリカ文明の影響のもとに衰滅しつつあり、彼らの技術および言語は消滅
をたどり、彼らの制度は崩壊しつつある。もう数年もたつならば、現在容易に
集められる事実も、発見が不可能になるであろう。これらの事情は、アメリカ
人に対してこの大なる領域に入り、その豊富な収穫を蒐集すべきことを強く
訴えるのである。
1877年3月 ニュー・ヨーク州ローチェスターにて。
 (本書 「序言」 モルガン より抜粋引用)

 
「ゴースト・ダンス」 
アメリカ・インディアンの宗教運動と叛乱 
ジェイムズ・ムーニー著 荒井芳廣訳 紀伊国屋書店 

19世紀のアメリカ合衆国。白人たちの「フロンティア」は西へ進行し、先住民
たるインディアンのほとんどはいまや支配下におかれていた。旧来の生活様式
を失い、不公正な行政に苦しむ彼らのあいだに、このとき一つの宗教が生まれ
る。やがてメシアが到来して、死んだ祖先たちを甦らせこの世を楽園として再生
してくれる、その実現のためには、儀式をおこない全員で踊りつづけなければ
ならない −−− このような千年王国的な信念に支えられた宗教運動が、
「ゴースト・ダンス」である。この運動がどのように展開したか、白人とのあいだ
にどんな軋轢をうんだかを、著者ムーニーは細心の観察と綿密な取材調査に
もとづいていきいきと描き出していく。約一世紀前に書かれたものであ� �ながら、
その叙述は今日でいうエスノヒストリーの先駆であり、民族誌としての<古典>
と評価されている。さらに本書は、運動展開の過程で生じた出来事として、
インディアン史上きわめて重要なエピソードである「スー族の叛乱」や「ウンデッド
ニーの虐殺」にも詳細にふれ、インディアンに加えられた迫害をなまなましく伝える。
その意味では、現在のアメリカ文化というものがいかなるエスノサイド(民族破壊
)の上に成り立ったかの、同時代における貴重な証言でもある。
(本書より引用)

 
「コロンブスが来てから 先住民の歴史と未来」 
トーマス・R・バージャー著 藤永茂訳 朝日選書

コロンブスのアメリカ「発見」によって始まった、南北両アメリカの先住民に対す
る五百年の残虐の歴史は、まことにすさまじい。まさに「テリブル」である。この
コロンブスの影、ヨーロッパの白人たちの影は、黒々と今も南北のアメリカ大陸
をおおっている。しかし、本書を読むことで、あらためて白人に対する怒りをたし
かめ、白人をさげすみ、それによって一種のカタルシスを、快感を味わうつもり
ならば、その人は失望に終わるだろう。本書では、私たち日本人も「白人」の中
に組みこまれているからである(本書第六章、第十一章)。インディアンに対する
残虐行為の昔話は読みあきた、映画でも見あきた、と思う人もあろう。ちょっと
待っていただきたい。本書の第九章を、とにかく読んでいた だきたい。バルトロメ
・デ・ラス・カサスが四百五十年前に描述したインディアンの虐殺が、今、この私
たちの時代に、グアテマラの山中で進行中なのである。インディアンの苦境に
同情し、インディアンを愛し、彼らの「自然と一体」のミスティックな生活様式に
ほれこんだ人たちに対しても、本書は、苦い薬を用意しているかもしれない。この
著者は「先住民を愛し、いつくしめ」とは、ひと言も言わない。ただひたすらに
「わが身を糾(ただ)せ」と、私たちに迫るばかりである。動物愛護の先頭を切る
と自負する人たちは、まず第一〇章を開かれるとよい。この本は、過去につい
ての書物ではない。現在について、未来についての書物である。先住民につい
て語る以上に、私たちについて語ってい� ��。問題は、人権の問題である、と著者
トーマス・バージャーは言い切る。本書の「エピローグ」は、コロンブスの大陸
「発見」五百年を機に綴られた、最も美しく力強い文章の一つであろう。それは、
四百五十年前のラス・カサスの言葉「人類は一つである」に呼応する。トーマス・
バージャーは現代のラス・カサスである。
(本書 訳者あとがき より引用)

2012年4月22日日曜日


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2012年4月21日土曜日


文明社会への道を歩むホモ・サピエンス

ホモ・サピエンスはどのように文明社会への道を歩んでいったのか。番組では、世界的な古人類史の専門家の指導下、人類史上で重大な変化が生まれた瞬間を、大胆な演出でドラマ化した。

1. 定住の始まり(紀元前1万年)

移動民と定住民との出会いと交流を描く。犬の家畜化や穀物の備蓄、家族の概念の確立、私有財産の始まりなど、この時期、文明の基礎が築かれた。

2012年4月19日木曜日


 

 さてさて、近代的道徳哲学が前提とする人間像が揺らいできている〜。自覚できる心的経験に先立って、それを決定する無自覚的な過程が存在していて、私たちは自分自身の内的過程を推論するしかできない、しかもこの推論過程でさえ無自覚的である―としか解釈できないような実験結果が現れてきたからだ。つまり人間は思った以上には、自分自身を知らないのである。私たちの心の過程は、私たち自身に、実は隠されているのではないか??

「認知的不協和理論」

 まず社会心理学の分野から「認知的不協和理論」を紹介しよう。「1ドルの報酬」という実験があるのだが、被験者に1時間退屈な作業をさせた後、「次に来る人に、この作業は面白かったと伝えてくれ」と強制的に頼みます。そして作業の謝礼として、あるグループには1ドルを、別のグループには20ドルを渡した。最後に1時間の作業を評価してもらった。さて、1ドルの謝礼をもらった人と、20ドルの謝礼をもらった人のどちらが、作業を面白いと評価したでしょうか。答えは、なんと1ドルの謝礼をもらった人だったのである。

 20ドルの人は、退屈な仕事だったが、20ドルもらったので、報酬と退屈さが釣り合っている。だから素直に「面白くなかった」と評価したようだ。1ドルの人は報酬と退屈さが釣り合っていないという認知と、「面白かった」と別の人に伝えた認知の間に葛藤が生じる。そこで、この不協和を縮めるために、作業を「面白かった」と評価したと解釈できるわけだ。しかも、この心的過程は、本人にも隠された無自覚な心理的合理化なのである。

「情動二要因論」 

2012年4月17日火曜日


アン・ボニーの後半戦です

アンの恋人ラカムについてちょぴっと。
ジャック・ラカムは小型スループ船でもっぱら小型商船を狙っていく海賊でしたが、ラカムは「殺さず奪う」をモットーにしていた海賊で、2枚目なところと3枚目なところがある、割と人気のある海賊でした。
ところでスカルヘッドに2本のカトラスというジョリーロジャーは誰もが一度は目にしてるんではないでしょうか。イングランドイベント24章でもらえるグレートパイレーツ紋章です。「海賊旗」といえば誰もが思い描くのではないでしょうか。
これはラカムが愛用していた海賊旗です。キャリコ(白木綿)の装束を愛用したり、特別デザインのジョリーロジャーを掲げたりと、ジャック・ラカムは伊達男だったんですね。

まぁ最期はよっぱらってる所をあっさり拿捕されて処刑されたりするお茶目さんでしたが…

さて、アンはある時、拿捕した商船の乗組員の中に小柄な美少年を発見します。
見つけてしまったからには、即お持ち帰りです。
ショタなんですね。

ラカムはいいんでしょうかね?
なんでDOLの船だと名倉がすし詰めなのですかね?
マスターアンドコマンダーだって・・・
or2・・・

ところが、お持ち帰りの美少年を手篭めにしようとしましたが、その美少年は男装した女性でした。しかもアンより年上。
かわいい坊やが実はお姉さまだったわけですよ。

そのお姉さまは、後にアン・ボニーと最強コンビを組むカトラス使いのメアリ・リードでした。

メアリは貧しい家庭に生まれました。当時は女性で稼ぐといったら、自ずと方法は限られてくる時代です。メアリは男装をして軍隊に入ったり、雇われ船員になったりしていたわけです。
メアリーとアンはなにか通じるものがあったのか、すぐに大親友になりました。

1720年に、ラカムの失態が原因でラカム一味は逮捕されます。
アンはその後釈放されたという説がありますが、メアリーは1721年に牢獄の中で亡くなっています。
海賊なんてやっぱダメですね or2

〜大航海ぼに〜

特徴
・眼鏡っ子です
・拳銃よりは鈍器が好きです。ラブリュス(´∇`)ケッサク
・古代神聖ぼに語を時々話します
・突発的な行動をとります
・江戸っ子です

〜今日のぼにっき〜

・資金稼ぎでロンドン⇔ドーバーをしつこくやりました
 大航海始めたころを思い出してなんだか楽しくなりました
 (´Д` )イェイェイェァ

・今日の資産状況
 800K→1M→200K
 (´・ω:;.:...

・新しい職場で疲れていたのか
 それともここしばらくのデータ入力の仕事で目がいってたのか
 22:00頃には爆睡してまつた
 がんばって稼がねば・・・

・リンク3件
 鄭さん、よーかんさん、ゆきちゃ、ありがとーん

帆船の歴史でも語ろうかと思ったですよ。
で、仕事の帰りに本を1冊買って読んだですよ。

帆船の分類は、はっきり言って不可能

or2…

なんだか色んな国の分類が混ざっています。

諸説ありすぎます。

キャラックのスペインでの呼び名がナオとかでてきたですよ。
戦列艦はイングランド海軍の分類ですよ。
戦列艦よりでかいフリゲートがでてきたですよ。

まぁ手作りの世界じゃけん、いろいろあるものと…

(;´д`)ノ  今度の連休にでもじっくり取り組んでみるかのぅ

〜今日の名言〜

サンタ・マリア号遅ェよ!!
ピンタ煽るんじゃねぇよ!!
                 byコロンブス

キャラックは喫水が深く上り帆走が苦手だったそうな。カラベルのピンタ号・ニーニャ号の方がはるかに軽快だったとさ。
なもんでコロンブスはサンタ・マリア号が大嫌いだったそうで…

〜今日のぼにっき〜

大海戦参加しますた
1勝0敗ですた。
個人的には2隻撃沈しますた。レアルとアラガレです。

少ない・・・ or2

ポルトガルよ、攻めて来るならちゃんと攻めてきてちょうだいな〜〜

なんか列ができてました

列があると思わず並びたくなりませんか?

あたしゃー、実は人ごみが嫌いでして

まだ学生のころ、朝の新宿駅で乗り換えようとして

人ごみに巻き込まれて

遠くへ流されていって以来

人ごみは嫌いです

(ノ´)ヽ(   )ノヽ(ー`ヽ)ヽ(´ー`)ノ(ノ´ー`)ノ(ノ´ー)ノ

でも、とりあえず並んでみたりして・・・

〜今日のぼにっき〜

・大海戦2日目戦跡 1戦1勝0敗
 撃沈1(提督を砲撃クリティカル後、ラムで船尾から串刺し エッチィー♪…(*ノ∀ノ)イヤン )

戦争そのものよりも、戦争前に同じ艦隊のエアさんと帆船談義で盛り上がったほうが楽しかったりw

なんだか初期の大海戦のような華々しさがなくなってちょっぴり切ないですね。

でも、歴史的にも
海戦の初期といえば、雑多な船長たちがめいめい船を持ち寄って、作戦もなにもなく、てんでばらばらに戦っていましたが、トラファルガーの海戦あたりの常設海軍が一般的になってきた頃には
訓練されて統制された海軍が戦列を組んで(ほとんどの大砲が舷側についているために、横1列になって戦うほうが集中砲火を浴びせやすい)戦うようになった事情から、急速に海軍の組織化・分業化が行われるようになりました。
なので、いわゆる戦列艦(Ship-of-the-line.)は大規模会戦、砲門20-40のフリゲート艦は通商破壊や警備と、目的で船が分けられていったのですね。
まぁ、フリゲートやピンネースで戦列艦の砲列に突っ込もうというのが大いなる間違いで、今の海戦の様な分業も、まぁよいのではないでしょうか。
システム的に偵察や支援に回らざるを得ない戦列艦以外の船は、得るものがなくて切ないですが つД`)・゜・。・゜゜・*:.。..。.:*・゜

だから、こてこての軍人以外でも何かできるように、大海戦をもそっと長くして、その期間中は互いの商船(NPC含む)を襲っても悪名がつかないとか、むしろそこから戦功がたまるとか
相手の同盟港を経済以外の軍事的な方法で陥落させるようになるとか
いろいろできそうですよね。

ほかにも戦列艦などの大型艦艇の価格をもっと高くしてランニングコストももっとあげてもいいじゃないかなとも思います。フリゲートはランニングコストのよさというのが強さの一つなんですから。
実際第1等戦列艦(砲門90-100以上)なんて、1国に1隻あるかどうかのシロモノですしね。

光栄さん、期待してます。

・ふぃるるんから商用クリッパーもらいました
ありがとねー、大事にするおー
(〃▽〃)キャー♪

でもクリッパー、期待してたほど速くないですよね。
本来クリッパーは16〜20ノットの巡航ができる快速船ですが
なんかサムブやジベとかわらない気がします。
(´・ω・`)ショボーン
16-20ノットといえば、現行のコンテナ船くらいの速度ですね。
日清戦争の頃の日本や清の軍艦の中においても真ん中〜速いくらいの速度です。
帆船の究極進化形でこれだと、これ以上の速度はありえないのですかねぇ・・・

あと、有名どころで出ていない船といえば
快速で海賊船の代名詞ともいえるスループ(スキップジャックとも)船と、海軍の補助艦艇として活躍したコルベット(フリゲートより小さくスループより大きい10-20門装備の軍艦)くらいですかのぅ
コルベットはこの世界では出ても、もう誰も乗らないような中途半端な船になるかも・・・
スループはせめてものすごく速くて小回り利くようにしてくだちい
あ、バウスプリットはなが〜〜〜いの希望でw

大海戦、なにげに全部参加してますが
初記録が二つです。

?3日間で一度も撃沈されなかった
これは喜んでよいことなのでしょう…かね?
んー、まぁ3日目は戦ガレ2隻に絡まれたものの1隻は敗走させ(撃沈はできず! 残念)、もう1隻ともつれている間に戦闘終了なんてシーンがあったり
でも、あまり「撃沈されるかも」という焦りはぜんぜん無かったです。戦場を見る余裕が出てきたということでしょうか?
戦列艦とやりあう機会が(幸いにして)来なかったというのもありますかね。

2012年4月16日月曜日


どんな戦争でもそうですが、長い間続けていると兵士が勝手に武器を改造しはじめます。最初から物資がたりない反体制派ならなおのこと。その場にあるものを使えるよう、ものすごいレベルの切ったり貼ったりが日常的に行なわれています。現在、リビアで発生している紛争で利用されている色々なDIY兵器の画像です。


反体制派にとって、逃走した政府軍が残していった物資はとても貴重なもの。

基地にはこうした武器や弾丸、車両が丸々のこっています。

いっぱい発見。

カダフィの7番目の息子、カミス率いる精鋭部隊「カミス旅団」が使っていた最新鋭のライフル、FN社のF2000もゲット。

ロケット弾。

なにぶん古い物も多いので、まずはサビを落とします。

動けなくなった戦闘車両から装甲板をはぎ取る。

切ったり貼ったり溶接したり。

2012年4月14日土曜日



30年一括借り上げ(サブリース)ですね?

これには大きな落とし穴があります。
確かに30年一括借り上げしてはくれるのですが、保証する家賃額は当初10年間のみ固定で、その後は下がっていきます。
ので、実質的には10年間しか保証してくれません。(それ以降はレオパレスが提示する賃料(=更新のたびドンドン下がる)を飲まないと、サブリース契約は解除されます)

2012年4月12日木曜日


長城は遊牧騎馬民族の侵入に備えるという目的に対して充分役に立っています。

長城が最初に作られたのは、戦国時代で後に秦の始皇帝が一つの長城にまとめ上げています。その後は、主要部分の補修はなされたようですが、本格的な修築がなされ現在も残っているのは明の時代に作られたものです。

2012年4月11日水曜日


2012年4月10日火曜日


NY外為(午前):ドルが全面高-中国経済懸念で資金逃避
  3月20日(ブルームバーグ):20日午前のニューヨーク外国為替市場では、ドルがユーロに対し4営業日ぶりに反発。英豪系鉱山会社BHPビリトンが中国の鉄鋼生産の伸びが鈍化していると指摘したことで中国経済への懸念が広がり、比較的安全とされるドルの需要が高まった。

ドルは主要16通貨に対し全面高。世界的な株安も資金逃避の動きを強めた。

ドルの対ユーロ相場はニューヨーク時間午前6時18分(日本時間午後7時18分)現在、前日比0.3%高の1ユーロ=1.3196ドル。前日までの3営業日で1.6%下げていた。円に対しては0.5%上げ1ドル=83円78銭での取引。

原題:Dollar Rises 1st Time in Four Days Versus Euro on ChinaSlowdown(抜粋)
記事:ロンドン Lucy Meakin lmeakin2012/03/20 19:50 JST

  3月15日(ブルームバーグ):ニューヨーク外国為替市場では円が対ドルで11カ月ぶり安値から戻した。最近の円安は急速過ぎるとの見方から買いが入った。

ポンドは対ユーロで3日ぶりに下げた。格付け会社フィッチ・レーティングスが英国の格付け見通しを引き下げたことを嫌気した。ニュージーランド(NZ)ドルは上昇。同国の製造業活動が2010年以来の速いペースで拡大したことが背景。スイスの中央銀行が成長見通しを引き上げため、スイス・フランはユーロとドルに対して上昇した。

バンク・オブ・ニューヨーク・メロン(BNYメロン)のシニア為替ストラテジスト、マイケル・ウールフォーク氏(ニューヨーク在勤)は「日本が金融緩和により積極的で、米国はそれほど積極的ではないとの見方に傾き過ぎたかもしれず、それが対円でのドルの動きに影響した」と指摘。「ドル買いが頭打ちになり、ドルのロングを幾らか解消する動きが出た」と述べた。  

ニューヨーク時間午後4時3分現在、円は対ドルで0.3%上昇して1ドル=83円49銭。アジアの時間帯では84円18銭と、昨年4月以来の安値をつける場面もあった。対ドルで見た円の相対力指数(RSI、期間14日)は5日連続で30を下回っており、下落が行き過ぎ、ペースが急速過ぎたことを示唆している。円は対ユーロで0.1%安の1ユーロ=109円26銭。ユーロは対ドルで0.4%上げて1ユーロ=1.3088ドル。

2012年4月8日日曜日


ギリシア全土の存亡のかかったテルモピュライの戦い。レオニダス王以下スパルタ重装歩兵300人は、 総数200万とも伝えられるペルシア帝国軍の侵攻を7 日間にわたって阻止した後、全滅した。

スパルタ兵士の戦いかたは、ギリシャ方陣。

右手に長い槍を持って、左手に大きな盾を持ち、お互いに密集して方陣を組む。ギリシャ方陣では、 戦士は隣の兵士の持つ盾の中に身を隠す。兵士の盾は、自分自身を守るためのものではなく、 隣に立つ戦友を守るためのもの。

この戦法は、陣形が崩れなければ、威力が強いけれど、兵士がお互いを信用できなくなった瞬間に 陣形は崩れ、方陣もろとも潰されてしまう。

  • 200万の軍勢を前に全滅したスパルタ兵士は、どうやってギリシャ方陣を保ちつづけられたのか?
  • 自らの死を前にしたとき、人は戦友を守るために自らの盾を掲げられるものなのか?

テルモピュライの戦いを描いた小説、「炎の門」は、そんな勇気と恐怖をめぐる物語。 以下、引用多数ネタバレ上等で。

恐怖の対義語とは何か

「常に頭にとり付いて離れぬ問いがある。それは恐怖の対語とは何か、ということだ。」

決戦直前、スパルタのベテラン兵士ディエネケスは、こんなことを語り始める。

それを無恐怖だといっては意味がない。それは反命題の形で表された命題でしかない。 私が知りたいのは真の相対物なのだ。

文中、最悪の恐怖として常に名指しされるのは、死の恐怖。恐怖を克服する力、 「死にたくない」という、保身の願望よりも強い力となるのが「勇気」というもの。

スパルタ人は、死の恐怖をさらに大きな別の恐怖で埋め合わせている。すなわち、不名誉という 恐怖、群れから除外される恐怖だ。それは勇気であろうか?不名誉を恐れて何かをするのであれば、 それはすなわち恐怖から出た行動ではないのか?

英雄の勇気すらも完全ではない。彼らは不名誉を恐れて戦うのではなく、 栄誉を求めて戦う。それは立派なことであろう。しかし、それが真の勇気であろうか?

2012年4月7日土曜日


生情報である!
言論統制に走る当局・・・(実は、その上に企業権力がある?!)

「放射能」「除染」「抗癌」「原 発」の言辞はご法度だそうな?!
そして、
それに唯々諾々として従う業界も業界だ!!

 言論は死んだ。まるで戦時統制の情況だ。特に、原発戦争下に日本社会はある。

 「放射能」「除染」「抗癌」「原 発」の言辞に関する広告は、関連法規(例えば、薬事法等)で告発の脅しが、ふれ回っているそうな。だから、広告業界は戦々恐々としているらしい。


 いずれ、インターネット界に波及するかも知れない。そうすると、当ブログやつむじ風ねっとショップなどいの一番に狙われるだろう。放射能について、書きまくりだからだ。

 その時は、年貢の納め時だろうが、その時まではいささかも手を緩めない。

 それは、真実だからである。

 どちらが先にくたばるかである。

 もはや、戦争状態にあると書いたことがある。その通りになっている。家二郎(iejiro)さんも興奮気味に伝えてきた。まあ、そっちが法律で来るなら、法律で対抗するしかないが、面白い、徹底抗戦である。

2012年4月5日木曜日


投石器(とうせきき)は、片手で握れる程度の石を遠くへ投げるための紐状の道具。中沢厚によれば、非体制側の武器[1]

古くから羊飼が羊の群を誘導したり害獣を追い払ったりするのに使い、土地によってはその用途で現代まで使われている。鳥など小型の動物を対象とする猟にも使われた。また安価に作れて弓矢と同等以上の射程と十分な威力を持つことから、古代・中世には兵器としても使われ、現代でも暴動などの際に使われることがある。スリング投石具投石紐とも呼ばれる。

基本的に、中央の石を包むための幅広い部分と、その両端の振り回して速い回転速度を得るための細長いひも状の部分からなる。ひも状の部分の一方の端は投げる時に手から離れないようループになっているか、手に巻き付けられる様にやや長くなっている。材料は羊毛や麻の繊維を編んだものや皮革や布でできたものやなどがある。長さは二つ折りの状態で0.5mから1.5m程度。

また、90cm程の長さの棹の先に割れ目を付け、石を包み込める幅広い部分を有する紐の一端を棹に括りつけ、紐の括っていない方の端側に結び目を作って割れ目にひっかけ、紐に石をセットして、振りかぶって一振りで飛ばす投石器(スタッフ・スリング)もあり、射程距離は高速回転させて飛ばす通常のスリングより短くなるが、扱いは容易で前方に飛ばしやすく、両腕の力を込める事ができるのでより重く大きい弾丸や岩を飛ばすことができた。

2012年4月3日火曜日


英語でスーツとかジャケットなどと呼ばれるものが
なぜわが国でセビロと呼ばれるようになったのでしょうか
いくつかの説がありますが代表的なものを挙げてみます
あなたはどの説を支持されますか

2012年4月1日日曜日


シエラレオネの大西洋奴隷貿易

シエラレオネの大西洋奴隷貿易

英文題名: Atlantic Slave Trade in Sierra Leone

児島秀樹(Kojima Hideki)

1. はじめに

シエラレオネは解放奴隷による植民が行われた国として有名である。その首都フリータウンはまさに解放奴隷が暮らすために創設された。しかし、奴隷貿易廃止後も、シエラレオネでは奴隷貿易が行われていた。解放奴隷によるシエラレオネ植民が始まっても、奴隷貿易も行われていたという点で、シエラレオネは特異な歴史をもっている。

シエラレオネは上ギニア(Upper Guinea)の一部として扱われることが多い。上ギニアはガンビア河口からマウント岬までの地域である。(1)西欧人が西アフリカに進出してきた頃には、シエラレオネの北側に位置するセネガンビアには中央集権国家が存在し、その南側のギニア海岸地方もヨルバ人を初めとした有力な部族によって統治されていた。それに対して、シエラレオネ地方は数カ村程度にまとまった小部族の連合体にすぎなかった。

大航海時代の先駆をなしたエンリケ航海王子が死亡した年、1460年に、ポルトガルの西アフリカ遠征はシエラレオネまで到達していた。イギリスも遅くとも1562年にはシエラレオネに到達し、ジョン・ホーキンズが軍事的援助と引き換えに、シエラレオネの王たちから多数の捕虜・奴隷を獲得した。(2)

エルティスたちが編集したCD−ROMデータを利用すると、シエラレオネ(ヌネス川からマウント岬)から積み出された奴隷の数がアフリカ全体に占める位置づけは表1のようになる。

      表1: シエラレオネの奴隷輸出の割合

出典: D. Eltis, S.D. Behrendt, D. Richardson and H.S. Klein (eds.), The Trans−Atlantic Slave Trade: A Database on CD−ROM, Cambridge, (1999).

エルティスたちのデータを見る限りでは、シエラレオネからの奴隷の積み出しは、1760〜1810年(1777〜83年のアメリカ独立戦争時代を除く)が一つのピークをなして、その後も、1820−26年、1829−30年、1833−40年に1000〜4000人をこえる、間欠的な山が続いている。シエラレオネからの奴隷が入港した港は、18世紀には、サント・ドミンゴ、ジャマイカ、グレナダ、カロライナで60%をこえていたのに対して、19世紀には、確認できるアメリカの地域としては、キューバが25.6%を占め、ギアナとカロライナが10%弱で続いた。

2. シエラレオネの現在と過去

シエラレオネの輸出品は西欧諸国と接触することで、象牙や染料木などの特産品から始まった。18世紀に奴隷の輸出に重点が移されたが、19世紀には、プランテーションで産出されたコーヒー、カカオなどの農産物の輸出が重要となった。しかし、農産物は、現在では、輸出品の10%程度にすぎなくなり、チタンの原料鉱である金紅石の他、ダイヤモンドやボーキサイトなど、鉱石の輸出が総輸出の70%以上を占めている。ダイヤモンドをめぐる戦乱も経験し、シエラレオネ共和国の乳児死亡率が世界で1位であるのは有名である。(3)

シエラレオネは現在、英語を公用語とし、クリオ語、メンデ語、テムネ語なども話されている多民族国家である。クリオ語はフリータウンを中心に20万人の話者がいて、第2、第3言語として使用する人々は30万人をこえると言われている。(4)宗教的には、シエラレオネ人口の半数ほどがアニミズム的な伝統的慣習を守り、3分の1ほどがイスラム教を奉じ、キリスト教信者が残りを占めている。

テムネ人とメンデ人が、現在、シエラレオネ共和国の人口の3割程度をかかえている。テムネ人は15世紀にシエラレオネ北部に移住してきた。メンデ人は米を主食とし、16世紀半ばに南部に移住してきた。この二つの種族によって、シエラレオネは国が二分されている。

15・16世紀に、ポルトガル人はシエラレオネの海岸地方に住む人々をサペ(Sape)とよび、内陸部のメイン(Mane)と区別した。(5)このメインが16世紀半ばにシエラレオネ南部に移住してきたメンデ人であり、彼らは海岸地方に進出した。この侵入、すなわちメイン戦争によって、多くの捕虜がポルトガル商人に奴隷として売られ、メイン戦争がこの時期の奴隷供給源となった。その後、ポルトガルはコンゴ、アンゴラを中心に奴隷を求めていたが、17世紀末には、ブラジルの需要をまかなえなくて、上ギニアからも再び奴隷を輸出するようになった。しかし、18世紀に入ると、実際には、ポルトガル船よりも英仏の船舶のほうが多く奴隷を獲得したようである。上ギニア地方でのフランスの奴隷貿易は� �8世紀前半、特に1736〜44年が最盛期であり、ナントの船舶の3割が上ギニアに向かった。その後、ヨーロッパ内での戦争でフランスが後退すると、18世紀後半にはイギリスが介入することとなった。(6)

その他にシエラレオネには、西欧人が渡来する以前からこの地域に定住していたリンバ人(現在、30万人以上で、人口の10%弱)、15世紀にテムネ人と同様に、沿岸地域にやってきたシェルブロ人(現在、13.5万人ほどで、人口の3%強)などの、伝統的な社会を形成している人たちもいる。その他に、スス(約12万人)やヤルンカ、ヴァイ、ブロム、キッシなどの少数部族がシエラレオネで暮らしている。

メンデ人はマンデ語系の種族である。マンデ、あるいは、マンディンゴとよばれる人々はマリを中心におおよそセネガルからコートジボアールまで広く居住している。スス、ヤルンカ、ヴァイもマンデ系である。10世紀のガーナ王国はマンデ系のソニンケ人が形成したものであり、1324年に黄金を携えてメッカ巡礼の旅に出た、第9代のマンサ・ムーサ王の話で有名なマリ王国もマンデ系である。(7)

シエラレオネの多くの種族は、米の他に、キャッサバ、モロコシ、ミレット、綿花、インディゴ、サツマイモなどを栽培していた。シエラレオネの住民は米や綿花の栽培技術を持っていたので、北アメリカのプランターはシエラレオネ出身の奴隷を高く評価できた。

大多数の土着の人々はフリータウンのエリート層と異なり、結社を基軸とする伝統的な社会を構成している。(8)アフリカ大陸の北部と南部を除き、西アフリカから東アフリカにかけての28カ国で広くみられる女子割礼の慣習は、シエラレオネでは、成人になるための通過儀礼として、女性用のボンド結社によって遂行されている。ただし、18世紀のマシューズの報告によると、シエラレオネにおける女子割礼はスス人とマンディンゴ人だけが行ったものにすぎない。(9)

クリオは解放奴隷の末裔である。彼らは、1787年に建設されたフリータウンを中心に生活し、実業家、官僚、教師などのエリート階層を形成している。クリオは1839年からナイジェリア南部などへも植民を開始した。クリオ人エリートは、ヨーロッパがアフリカで福音伝道を開始して、英国流の教育を受け入れた最初の人たちであると言われる。(10)

解放奴隷が定住していたにもかかわらず、18世紀末頃から1896年まで、シエラレオネでは奴隷を獲得するための戦争・襲撃が繰り返された。1808年、フリータウンはイギリスの直轄植民地となり、奴隷貿易取締のために、英国海軍の基地が設けられた。英国海軍によって、大西洋上で捕獲された奴隷貿易船の奴隷はフリータウンで解放された。フリータウン直轄植民地以外のシエラレオネ各地は、1896年にイギリスの保護領とされたが、1961年4月27日に、イギリス連邦に加わる形で、シエラレオネは独立国となった。

奴隷貿易の時代、アフリカの人口の約3分の1が子供であったと推測されている。1800年以前に、奴隷として大西洋を渡ったアフリカ人の中で、子供は20%より少なかった。それに対して、子供が多かったので有名なのがシエラレオネで、シエラレオネからの奴隷の35%ほどが子供であった。ところが、19世紀に入ると、1811〜67年に大西洋奴隷貿易で扱われた奴隷の41%が子供となった。中でも、ザイール川北部からの奴隷は52%以上が子供であり、アンゴラの奴隷は59%、東南部アフリカの奴隷は61%が子供であった。19世紀には「大西洋奴隷貿易は子供の貿易になった」とさえ言われる。(11)

シエラレオネは解放奴隷の定住地となるとともに、奴隷輸出がそれほど減少しなかった地域でもあった。ここではその疑問に直接に答えるのではなく、奴隷輸出がなくならないほどに、シエラレオネで展開していた奴隷制がどのようなものであったのかを調べてみよう。アメリカの先住民と黒人を比較すると、奴隷制それ自体や農業技術へのなじみの点で、黒人のほうが奴隷として適格であったと思われる。

3. 西アフリカの家内奴隷制

シエラレオネの奴隷に関しては、ロドニーが論争を提起している。アフリカには昔から奴隷制が存在したのか、それとも、大西洋奴隷貿易に関連した制度であるのか。ロドニーはシエラレオネ地方の奴隷制は、そして、おそらくサハラ以南のアフリカの家内奴隷制は大西洋奴隷貿易以前には存在しなかったか、存在しても、その人口の割合からすると重要なものではなかったと主張した。大西洋奴隷貿易とともに、その重要度が増して、規模も拡大したにすぎないと。ロドニーは「家内奴隷制」(domestic slavery)という表現で表されているものは奴隷制ではないと考える。その「奴隷」たちは主人の世帯の一員であり、重罪を犯さないと売買されないし、自分用の土地も持っているし、その成果に対する権利も持っ� ��いる。彼らは結婚もできたし、子供には相続権もあった。ロドニーにとっては、このような属性は奴隷にあたらない。(12)

ロドニー説を確認することも、否定することも、二重の意味で困難である。アフリカの他の地域と同様、シエラレオネの歴史は、シエラレオネの住民が文書を残していないため、ムスリムの文献や口頭伝承の他は、たいてい西欧各国に残る史料で確認することになる。西欧は西アフリカ各地と接触するとほぼ同時に、大西洋奴隷貿易を開始しているので、それ以前の歴史の多くは推測するしかない。それだけでなく、西欧の文献を信用したとしても、19世紀に植民地の官僚として在住したヨーロッパ人の目にさえ、奴隷と主人の区別がつかないときがあったほど、奴隷とそれ以外の人の境界線がヨーロッパの基準からは曖昧であったので、西欧の文献に奴隷の記述がなくても、15世紀より前に奴隷が存在していた可能性は高い。

第二に、奴隷と主人の区別にも関係するが、奴隷制の定義によって、大西洋奴隷貿易以前に、奴隷制が存在したとも、しなかったとも言える。ここでは、単純に基本的には、人身売買の対象となった人たちを奴隷と理解しておく。しかし、人身売買されると、それはすべて奴隷であろうか。ほとんど人身売買と同じように金銭取引され、蔑視と差別の対象とされた、『女工哀史』の女工たちや、金品の授受が当然視された婚姻制度における女性は、奴隷とは言わないのであろうか。確かに、債務の弁済や婚資の授受は「売買」とは異なる。売買自体にさまざまな形式が区別されるので、厳密にみると、人身売買を奴隷化の判断基準とするわけにはいかない。同様に、奴隷解放されるためには、身請けされる必要があるが、「身請け」でし� ��解放されない人たちは、すべて奴隷なのであろうか。