シエラレオネの大西洋奴隷貿易
シエラレオネの大西洋奴隷貿易
英文題名: Atlantic Slave Trade in Sierra Leone
児島秀樹(Kojima Hideki)
1. はじめに
シエラレオネは解放奴隷による植民が行われた国として有名である。その首都フリータウンはまさに解放奴隷が暮らすために創設された。しかし、奴隷貿易廃止後も、シエラレオネでは奴隷貿易が行われていた。解放奴隷によるシエラレオネ植民が始まっても、奴隷貿易も行われていたという点で、シエラレオネは特異な歴史をもっている。
シエラレオネは上ギニア(Upper Guinea)の一部として扱われることが多い。上ギニアはガンビア河口からマウント岬までの地域である。(1)西欧人が西アフリカに進出してきた頃には、シエラレオネの北側に位置するセネガンビアには中央集権国家が存在し、その南側のギニア海岸地方もヨルバ人を初めとした有力な部族によって統治されていた。それに対して、シエラレオネ地方は数カ村程度にまとまった小部族の連合体にすぎなかった。
大航海時代の先駆をなしたエンリケ航海王子が死亡した年、1460年に、ポルトガルの西アフリカ遠征はシエラレオネまで到達していた。イギリスも遅くとも1562年にはシエラレオネに到達し、ジョン・ホーキンズが軍事的援助と引き換えに、シエラレオネの王たちから多数の捕虜・奴隷を獲得した。(2)
エルティスたちが編集したCD−ROMデータを利用すると、シエラレオネ(ヌネス川からマウント岬)から積み出された奴隷の数がアフリカ全体に占める位置づけは表1のようになる。
表1: シエラレオネの奴隷輸出の割合
出典: D. Eltis, S.D. Behrendt, D. Richardson and H.S. Klein (eds.), The Trans−Atlantic Slave Trade: A Database on CD−ROM, Cambridge, (1999).
エルティスたちのデータを見る限りでは、シエラレオネからの奴隷の積み出しは、1760〜1810年(1777〜83年のアメリカ独立戦争時代を除く)が一つのピークをなして、その後も、1820−26年、1829−30年、1833−40年に1000〜4000人をこえる、間欠的な山が続いている。シエラレオネからの奴隷が入港した港は、18世紀には、サント・ドミンゴ、ジャマイカ、グレナダ、カロライナで60%をこえていたのに対して、19世紀には、確認できるアメリカの地域としては、キューバが25.6%を占め、ギアナとカロライナが10%弱で続いた。
2. シエラレオネの現在と過去
シエラレオネの輸出品は西欧諸国と接触することで、象牙や染料木などの特産品から始まった。18世紀に奴隷の輸出に重点が移されたが、19世紀には、プランテーションで産出されたコーヒー、カカオなどの農産物の輸出が重要となった。しかし、農産物は、現在では、輸出品の10%程度にすぎなくなり、チタンの原料鉱である金紅石の他、ダイヤモンドやボーキサイトなど、鉱石の輸出が総輸出の70%以上を占めている。ダイヤモンドをめぐる戦乱も経験し、シエラレオネ共和国の乳児死亡率が世界で1位であるのは有名である。(3)
シエラレオネは現在、英語を公用語とし、クリオ語、メンデ語、テムネ語なども話されている多民族国家である。クリオ語はフリータウンを中心に20万人の話者がいて、第2、第3言語として使用する人々は30万人をこえると言われている。(4)宗教的には、シエラレオネ人口の半数ほどがアニミズム的な伝統的慣習を守り、3分の1ほどがイスラム教を奉じ、キリスト教信者が残りを占めている。
テムネ人とメンデ人が、現在、シエラレオネ共和国の人口の3割程度をかかえている。テムネ人は15世紀にシエラレオネ北部に移住してきた。メンデ人は米を主食とし、16世紀半ばに南部に移住してきた。この二つの種族によって、シエラレオネは国が二分されている。
15・16世紀に、ポルトガル人はシエラレオネの海岸地方に住む人々をサペ(Sape)とよび、内陸部のメイン(Mane)と区別した。(5)このメインが16世紀半ばにシエラレオネ南部に移住してきたメンデ人であり、彼らは海岸地方に進出した。この侵入、すなわちメイン戦争によって、多くの捕虜がポルトガル商人に奴隷として売られ、メイン戦争がこの時期の奴隷供給源となった。その後、ポルトガルはコンゴ、アンゴラを中心に奴隷を求めていたが、17世紀末には、ブラジルの需要をまかなえなくて、上ギニアからも再び奴隷を輸出するようになった。しかし、18世紀に入ると、実際には、ポルトガル船よりも英仏の船舶のほうが多く奴隷を獲得したようである。上ギニア地方でのフランスの奴隷貿易は� �8世紀前半、特に1736〜44年が最盛期であり、ナントの船舶の3割が上ギニアに向かった。その後、ヨーロッパ内での戦争でフランスが後退すると、18世紀後半にはイギリスが介入することとなった。(6)
その他にシエラレオネには、西欧人が渡来する以前からこの地域に定住していたリンバ人(現在、30万人以上で、人口の10%弱)、15世紀にテムネ人と同様に、沿岸地域にやってきたシェルブロ人(現在、13.5万人ほどで、人口の3%強)などの、伝統的な社会を形成している人たちもいる。その他に、スス(約12万人)やヤルンカ、ヴァイ、ブロム、キッシなどの少数部族がシエラレオネで暮らしている。
メンデ人はマンデ語系の種族である。マンデ、あるいは、マンディンゴとよばれる人々はマリを中心におおよそセネガルからコートジボアールまで広く居住している。スス、ヤルンカ、ヴァイもマンデ系である。10世紀のガーナ王国はマンデ系のソニンケ人が形成したものであり、1324年に黄金を携えてメッカ巡礼の旅に出た、第9代のマンサ・ムーサ王の話で有名なマリ王国もマンデ系である。(7)
シエラレオネの多くの種族は、米の他に、キャッサバ、モロコシ、ミレット、綿花、インディゴ、サツマイモなどを栽培していた。シエラレオネの住民は米や綿花の栽培技術を持っていたので、北アメリカのプランターはシエラレオネ出身の奴隷を高く評価できた。
大多数の土着の人々はフリータウンのエリート層と異なり、結社を基軸とする伝統的な社会を構成している。(8)アフリカ大陸の北部と南部を除き、西アフリカから東アフリカにかけての28カ国で広くみられる女子割礼の慣習は、シエラレオネでは、成人になるための通過儀礼として、女性用のボンド結社によって遂行されている。ただし、18世紀のマシューズの報告によると、シエラレオネにおける女子割礼はスス人とマンディンゴ人だけが行ったものにすぎない。(9)
クリオは解放奴隷の末裔である。彼らは、1787年に建設されたフリータウンを中心に生活し、実業家、官僚、教師などのエリート階層を形成している。クリオは1839年からナイジェリア南部などへも植民を開始した。クリオ人エリートは、ヨーロッパがアフリカで福音伝道を開始して、英国流の教育を受け入れた最初の人たちであると言われる。(10)
解放奴隷が定住していたにもかかわらず、18世紀末頃から1896年まで、シエラレオネでは奴隷を獲得するための戦争・襲撃が繰り返された。1808年、フリータウンはイギリスの直轄植民地となり、奴隷貿易取締のために、英国海軍の基地が設けられた。英国海軍によって、大西洋上で捕獲された奴隷貿易船の奴隷はフリータウンで解放された。フリータウン直轄植民地以外のシエラレオネ各地は、1896年にイギリスの保護領とされたが、1961年4月27日に、イギリス連邦に加わる形で、シエラレオネは独立国となった。
奴隷貿易の時代、アフリカの人口の約3分の1が子供であったと推測されている。1800年以前に、奴隷として大西洋を渡ったアフリカ人の中で、子供は20%より少なかった。それに対して、子供が多かったので有名なのがシエラレオネで、シエラレオネからの奴隷の35%ほどが子供であった。ところが、19世紀に入ると、1811〜67年に大西洋奴隷貿易で扱われた奴隷の41%が子供となった。中でも、ザイール川北部からの奴隷は52%以上が子供であり、アンゴラの奴隷は59%、東南部アフリカの奴隷は61%が子供であった。19世紀には「大西洋奴隷貿易は子供の貿易になった」とさえ言われる。(11)
シエラレオネは解放奴隷の定住地となるとともに、奴隷輸出がそれほど減少しなかった地域でもあった。ここではその疑問に直接に答えるのではなく、奴隷輸出がなくならないほどに、シエラレオネで展開していた奴隷制がどのようなものであったのかを調べてみよう。アメリカの先住民と黒人を比較すると、奴隷制それ自体や農業技術へのなじみの点で、黒人のほうが奴隷として適格であったと思われる。
3. 西アフリカの家内奴隷制
シエラレオネの奴隷に関しては、ロドニーが論争を提起している。アフリカには昔から奴隷制が存在したのか、それとも、大西洋奴隷貿易に関連した制度であるのか。ロドニーはシエラレオネ地方の奴隷制は、そして、おそらくサハラ以南のアフリカの家内奴隷制は大西洋奴隷貿易以前には存在しなかったか、存在しても、その人口の割合からすると重要なものではなかったと主張した。大西洋奴隷貿易とともに、その重要度が増して、規模も拡大したにすぎないと。ロドニーは「家内奴隷制」(domestic slavery)という表現で表されているものは奴隷制ではないと考える。その「奴隷」たちは主人の世帯の一員であり、重罪を犯さないと売買されないし、自分用の土地も持っているし、その成果に対する権利も持っ� ��いる。彼らは結婚もできたし、子供には相続権もあった。ロドニーにとっては、このような属性は奴隷にあたらない。(12)
ロドニー説を確認することも、否定することも、二重の意味で困難である。アフリカの他の地域と同様、シエラレオネの歴史は、シエラレオネの住民が文書を残していないため、ムスリムの文献や口頭伝承の他は、たいてい西欧各国に残る史料で確認することになる。西欧は西アフリカ各地と接触するとほぼ同時に、大西洋奴隷貿易を開始しているので、それ以前の歴史の多くは推測するしかない。それだけでなく、西欧の文献を信用したとしても、19世紀に植民地の官僚として在住したヨーロッパ人の目にさえ、奴隷と主人の区別がつかないときがあったほど、奴隷とそれ以外の人の境界線がヨーロッパの基準からは曖昧であったので、西欧の文献に奴隷の記述がなくても、15世紀より前に奴隷が存在していた可能性は高い。
第二に、奴隷と主人の区別にも関係するが、奴隷制の定義によって、大西洋奴隷貿易以前に、奴隷制が存在したとも、しなかったとも言える。ここでは、単純に基本的には、人身売買の対象となった人たちを奴隷と理解しておく。しかし、人身売買されると、それはすべて奴隷であろうか。ほとんど人身売買と同じように金銭取引され、蔑視と差別の対象とされた、『女工哀史』の女工たちや、金品の授受が当然視された婚姻制度における女性は、奴隷とは言わないのであろうか。確かに、債務の弁済や婚資の授受は「売買」とは異なる。売買自体にさまざまな形式が区別されるので、厳密にみると、人身売買を奴隷化の判断基準とするわけにはいかない。同様に、奴隷解放されるためには、身請けされる必要があるが、「身請け」でし� ��解放されない人たちは、すべて奴隷なのであろうか。
"ミシェルドモンテーニュは、現代社会の何を思うだろう?"
特定の社会存在を奴隷と表現するためには、人身売買の他に、さまざまな属性が要求される。奴隷になるには、戦争で捕虜となったり、借金が返済できなかったり、犯罪を犯したりする必要がある。(13)奴隷は家族から切り離され、原則として、家族をもつことはできないと考えられている。この場合の家族は現代の家族と異なり、成人と言えども、家族に属さないと、社会的存在として認められないような家族=氏族である。家族がないと、自分の「居場所」がなくなるたぐいの家族=氏族である。家族を失うと、いわば、国家・社会・部族・氏族の一員として認められなくて、根なし草になる。子供の養育を中心として形成されている現代の家族とは異なって、いわば共同体的な家族が奴隷には認められなかった。しか� �、共同体的家族=氏族がなくても、奴隷が子供を有する場合は多く、奴隷の身分は一代で終わらないで、子孫に受け継がれる。子供がいて、事実上の夫婦が子供の養育に関心を払っているという、現代なら家族と表現できる組織が存在しても、奴隷のいる社会では、それは家族とはみなされない。
奴隷には主人がいて、その主人に服従する。主人に忠誠を尽くせない奴隷は処刑されるかもしれない。しかし、奴隷は主人の優秀な秘書・労働者・軍人として活躍して、その他の自由人よりも、社会的に高い地位に就く可能性をもっている。マムルーク朝のように、解放されて、国王になることさえあるのが、奴隷である。そのため、どの社会にも適用できる「奴隷概念」があるわけではなく、対象となる社会の構成員やその社会の研究者が奴隷と考えているものが奴隷であるという、定義にならない定義が可能となるほど、奴隷にはさまざまな形式がある。現代の研究者は「人権」が合法的に否定されている人たちを奴隷とよぶことが多く、その意味で、近代の奴隷貿易や奴隷制の廃止に尽力した人たちの思想的遺産に、その定義が依� ��している。
男の奴隷は農耕・鉱業用の奴隷として利用され、協業を必要とする重労働に従事することが多い。その意味では、企業に忠誠を尽くす賃金労働者に似ているが、奴隷は失業しない。他方、女の奴隷は家事・育児にたずさわる家内奴隷であることが多い。その意味では、近代のイギリスで法的に動産(chattel)とされていた妻は、ほとんど夫の家内奴隷である。イギリスの法では、奴隷同様、妻も動産であった。その差は紙一重であるが、差があるので、家内奴隷とその他のものとは区別される。(14)
マイアーズは世界の奴隷制に関する百科事典で、現代の奴隷制として、次のものを指摘する。(15)債務による拘束、他者の土地に縛られているという意味での農奴制、家を離れて長時間の無給労働に従事する子供、貨幣の支払を伴う強制的な婚姻、強制的な売春、債務で縛られた移民労働者、マイノリティや政治犯などの無給の強制労働などなどである。その多くは刑法的犯罪以外の理由で、他者に自分の意思を否定されているという意味で、人権がおかされているので、奴隷制と理解される。人権の否定という点を除いては、これらの隷属的制度は本来の奴隷制とは異なるかもしれない。もちろん、「他者」の大半は共同体や国家ではなく、個人(奴隷主)であるので、本来の奴隷制とかわらない。しかし、本来の奴隷制� �あると言えなくても、それらは奴隷制と表現できるほど、人権概念が浸透している先進国においては、法制度的に、あるいは、道徳的に非難の対象となる制度である。少なくとも債務奴隷制や刑罰奴隷制は歴史上、奴隷制のふつうの形式であった。なお、現在、刑法の領域での懲役刑などの拘束が奴隷制から除かれるのは、その犯罪者の意思自体が他者を奴隷・モノとして扱うものであって、処罰に値すると理解されているからであり、その「意思」の否定は合法的であると考えられている。人権概念は他者の人権を否定する者の権利(人権)を認めることはできない。
4. シエラレオネの奴隷制:シェルブロ人
以下では主に文化人類学的業績であるマコーマックとホルソーの研究に依拠して、シエラレオネの奴隷制のあり方を見ていく。(16)さらに、これらの研究を補足できる史料として、マシューズの『シエラレオネ川の旅』(1788年)も利用する。この本が出版されたのは、英国政府がシエラレオネ植民の援助を決めた翌年であり、奴隷貿易廃止運動が高揚した時期であった。
マシューズは海軍に勤めていたが、アメリカ革命後、再びアフリカ沿岸との交易に従事するようになった。彼は1785年、奴隷商に雇われて、シエラレオネに出向いた。14年前に、その奴隷商の現地代理人が殺されて、ヨーロッパ人が寄りつかなくなった場所に、再び商館(factory)を構築するために、マシューズが派遣された。その商館はフリータウンの西方、シエラレオネ川の南岸にあった。マシューズはシエラレオネに到着すると、まず、この地域の統治者・住民と会合を開いた。マシューズが交渉した人々が英国にフリータウンの定住許可も与えたと推測されている。その会合で、殺人事件を起こした過去を忘れて、マシューズは再び友好関係を築くのに成功した。その商館が置かれた島は白人の土地と名付けられ� ��。その島には、1740年代にはバガ人の1家族がいただけであったが、マシューズの時代にはその他に、スス人とマンディンゴ人の逃亡奴隷が混住していたようである。
その体験をもとに、マシューズはこの本を出版した。彼は枢密院での調査でも奴隷貿易を擁護したが、この本でも同じ主張が展開されている。それによると、シエラレオネのマンディンゴは戦争捕虜を殺していたし、マダガスカルやダホメでも同様であったのに、ヨーロッパ人の奴隷貿易のおかげで、彼らは命を長らえることができるようになった。そして、奴隷制に反対する理由として自由・平等を主張する人たちがいるのを知っているが、現実には、人間には優秀さの相違があり、自然の大連鎖で、代々伝わるものがあると主張して、マシューズは奴隷貿易を擁護した。(17)マシューズは確かにその偏見から現実を歪曲して見てはいるが、それは現代人と同じ程度であろう。その叙述の仕方は、奴隷貿易擁護派にありが� �な、物語を作成するものではなく、知りうる限り、客観的に描写しようとしているように思われる。マシューズがその本でとりあげた部族はバガ、ナル、スス、ブロム、テムネ、マンディンゴなどである。
マコーマックによるシェルブロ人の口頭伝承の研究では、シェルブロ地域では、18世紀まで家内奴隷制は確立していなかったようである。シェルブロ人は当初はブロム人とよばれていた部族の南半分である。17世紀半ばにテムネ人がシエラレオネ川を下ってきたとき、ブロム人は北と南に分かれた。16世紀半ばに南方からマンデ語系のメーン人が侵入してきたときには、彼らはポルトガル船に逃れて、奴隷となったこともある。マコーマックは、この頃までに、シェルブロ社会が支配層と平民層に分かれていたが、家内奴隷は18世紀まで存在しなかったと主張している。(18)18世紀にマンデ語系のメンデ人が侵入してきたときには、彼らは平和的手段で同化していったので、シェルブロ人は奴隷化を免れた。しか� �、この地域でも、19世紀に入って、奴隷貿易が活性化した。現在、シェルブロ人はシェルブロ島やプランテイン島とその対岸あたりで暮らしている。(19)
フリータウンが建設されたのち、シエラレオネの南方から大量の奴隷が輸出された。そのため、1825年にシエラレオネ植民地の総裁ターナーはシェルブロ海岸を植民地に併合しようとした。後任のマコーリー総裁は1826年に、リベリアとの国境地帯であるガリナス地域から年2万人の奴隷が輸出されていると報告した。(20)1896年にこの地域が保護領となり、現在のシエラレオネ共和国の地理的範囲がほぼ確定した。
1898年には、シェルブロの首長層が税金の支払と権威の低下を嫌い、家内奴隷を失うのを恐れて反乱を起こした。この反乱は鎮圧されたが、シエラレオネで家内奴隷制が非合法となったのは、1927年である。(21)
シェルブロ人の家内奴隷制も、奴隷制以外の社会制度との関連で論じられなければならない。マコーマックは「家内奴隷制」(domestic slavery)と表現しているが、これには以下で見るように、氏族制にかかわる深い理由がありそうである。マシューズは明確に、奴隷を労働奴隷と家内奴隷に区別している。(22)労働奴隷は土地に固定され、役畜と同等に扱われる。他方、家内奴隷は家族と同等の敬意をもたれ、奴隷たちは主人を父とよぶ。同じ「奴隷」でも、その扱い方に差がある。マシューズによると、マンディンゴの領袖は家内奴隷の他に、700人をこえる労働奴隷を有している者もいたし、スス人、ブロム人、バガ人、テムネ人はその4分の3が奴隷であった。マシューズの記述を信用する限� �、18世紀後期には、シエラレオネには、かなりの数の奴隷がいたと思われる。この地方では、主人は奴隷に対して絶対的な力を持っているが、奴隷の子や、購入後1年以上の奴隷を売ることはできないという慣習があったようである。呪術などの犯罪行為があった場合は、奴隷を売ることができる。重罪を犯したら、自由人も奴隷として売られてしまうので、奴隷も、犯罪行為によって、再び売買可能な純粋な奴隷となるのである。奴隷の販売可能性に関する、マシューズのこの記述が労働奴隷にも該当するものであるか、どうかは明らかではないが、家内奴隷に限った慣習とみたほうが、合理的に説明できそうである。(23)
マコーマックによると、シェルブロ人は自由人と客人(client)から成り立っている。客人は、中国の客家とは全く異なるが、その社会に認められた他民族=よそ者という意味では、似た発想で社会に受け入れられたのかもしれない。客人は他の部族の者であるが、有力者と主客関係(patron−client)で結ばれて、その土地の用益が認められた人たちである。有力者との個人的関係であるので、奴隷に近いが、奴隷ではない。客人は自分の意思でこの土地に来住したものであり、奴隷のように強制移住させられた者ではない。病気・飢饉などの害を呪術的に取り除く儀式の効果や政治的手腕によって、有力者が評判を得ると、客人がその下に集まる。しかし、罪人が奴隷として連行されたとき、その若者を奴隷とす� ��のではなく、客人として迎えて、若者が属す氏族と友好関係を保とうとする場合もあった。逆に、主人の地位が低いと、自分より上位に立つ可能性を嫌って、奴隷とされた。(24)
それに対して、奴隷は戦争、誘拐によって、社会の構成員としての地位を奪われ、強制的に奴隷にされた者である。マシューズも奴隷の最大の供給源として戦争を指摘し、その他に、呪術や犯罪をあげている。(25)氏族の紐帯を解かれてしまうという意味で、社会の中で、自分の居場所がなくなってしまったのが奴隷である。その他に、奴隷は購入、贈与、相続などで獲得できた。
奴隷化には詐欺的手法も利用された。祭りを開催するという名目で住民を集め、睡眠薬入りのおいしい食事が提供されて、住民の目が覚めると奴隷として売られていたという物語も伝わっている。犯罪で奴隷となるときには、西欧の中世前期と同様、犯罪は親族の連帯責任であったので、犯罪をおかした当人だけでなく、氏族の誰かが奴隷になることもあった。損害賠償金を支払うために、まさに人質がとられ、支払が実行されなければ、人質が奴隷となる。不貞も重罪なので、19世紀末に不貞の罪でスス商人に売られて、奴隷として北部に連れ去られたチャールズ・コーカーのような例も報告されている。(26)
ときに私は、コロンを使うのですか?
シェルブロ人は奴隷をウォノ(wono)とよび、それをロク(lok)とよばれる相続財産であるとみなした。所有権が認められた現代社会と正反対に、シェルブロ社会では個人ではなく、ラム(ram)とよばれる氏族が財産をもつ。氏族が所有する財産、いわば共有財産はクー(kuu)とよばれ、クーが土地の場合は、歴史学で公地や公有地と表現されるものに近い。(27)この共有財産、あるいは、現代の用法でいえば、この土地はコモンズ(入会地)になるのかもしれないが、私有地とコモンズという二者対立的図式を描いた場合、中世以降の社会とは異なり、シェルブロ社会ではすべてがコモンズであって、その中に特別に留保された私有地があるという図式になりそうである。(28)ただし、対象で あるモノとの権利関係よりも、人間の帰属意識のほうに重点が置かれている。
ふつうの人はマノ(mano)とよばれ、これは西洋の概念で翻訳すれば、自由人となるであろう。彼らは氏族の一員であり、氏族が暮らしている領域のモノを用益してもいい。クーを利用できる人が氏族の一員である。奴隷はロクであるが、客人はクーと理解された。客人自身がクーとして位置づけられた。客人はその意味で、自由人より低い地位にあるが、婚姻を通じて、氏族の一員になることができた。
それに対して、家内奴隷などのロクは個人に帰属し、特定の相続人に継承される個人的な財産である。個人の財産であるので、ロクは贈与や売買の対象となるが、主人は奴隷の生殺与奪の権利はもたない。人間の血は大地を汚すと理解されているので、奴隷が処刑されることはない。
奴隷も社会的な権利を持っていた。人間的な扱いを受ける権利、すなわち、抽象的には人権と表現できる権利ももっていたし、ある程度の敬意も受けていた。(29)現実には、奴隷はロクであるが、「あなたは私の奴隷である」と主張するのは、奴隷に対する侮辱であると理解された。主人が奴隷をウォノと呼べば、奴隷は「奴隷と呼ばれたのは私でしょうか。そうなら、あの大きな木の下で泣きます」と嘆くことができる。主人が和解を申し入れると、奴隷は忠誠を誓い、「今日から、あなたは私の親である」と言う。その逆に、奴隷を侮辱した主人が奴隷との和解を拒否したとき、奴隷は有力者の下に逃げて、その保護を求めることができる。有力者が奴隷に分があるとみなせば、彼が奴隷の保護者となる。奴隷の主人は� �ら有力者にその返却を求めることはできず、同じ町の首長などの世話役を通じて、返却を求める。主人は世話役にコーラなどの贈り物をして、奴隷を温かく迎えると公に宣言する。これは妻を連れ戻すときと同じ作法であり、強制的に連れ戻そうとすると、奴隷はすぐに逃亡するので、このような儀礼が必要であると考えられた。(30)
少なくとも19世紀には、シェルブロ社会では、奴隷は主に農作業に従事した。奴隷は自分の生活に必要な土地を活用できたし、奴隷たちが一つの村を構成することもあった。主人のために集団で働き、道路を修繕し、米作用に沼地を排水する。奴隷は有力者のロクであり、有力者に保護されていたので、多くの自由人より奴隷の暮らし向きは良かったとさえ考えられている。1883年、英領シェルブロの行政長官であったピンケット(Fransis F. Pinkett)によると、毎年、数百人の奴隷が主人とともにフリータウンにやってきて、喜んで主人とともに帰っていくと報告した。奴隷は子供と同様に扱われ、侮辱的に奴隷とよばれるのではなく、息子(ta)、娘(wa)とよばれた。
奴隷も自由人と同じに、男性であれば、主人と同じ男結社であるポロに入り、女奴隷は女性の結社であるボンドに加わる。結社の中では、奴隷と自由人の基本的な権利は同じであるが、奴隷が公の地位に就くことはできず、政治的な影響力も行使できない。
この社会では、女性が重要で、女奴隷は労働力や性的対象として、あるいは、子供の養育にとって重要な役割を果たした。現代の日本では、家事労働では金銭的収入が得られないために、いまだに家事労働従事者が蔑視されることが多い。それと比較すると、シェルブロ社会での女性の地位ははるかに高いことが理解できる。いわゆる家事労働自体が共同体の存続にとって、重要な労働として認められていたのであろう。シェルブロ社会は一夫多妻制であったため、自由人男性の婚姻は難しかったが、主人の意思で奴隷は妻をあてがわれた。女奴隷が主人の妻となることもあり、労働と出産に費やされるその役割は、高い評価を受けた。
奴隷所有者は敵の侵入から奴隷を保護した。シェルブロ社会では、奴隷は氏族の正規の一員とは認められなかったので、主人に忠誠を尽くさないといけなかったが、それ以外では、息子や娘と同様に、人間として扱われたと言えそうである。しかし、奴隷はロクであるので、主人の娘の婚資になったり、息子の相続財産となる。シェルブロ社会は双系であるが、母系よりも父系が重んじられた。奴隷の婚姻は主人が決定し、女奴隷が主人の妻となった場合には、その子は主人の氏族の一員となる。しかし、その他の形式の婚姻では、原則として、奴隷の子は奴隷である。原則の例外として、主人に対する長年の功績が認められ、奴隷が主人から自由人の娘を妻として与えられた場合には、その子は母系で理解され、自由人と認められるこ� ��もあった。奴隷の子がポロ結社に入り、氏族の祖先の名をもらうことができれば、主人の相続人の一人と認められる。「祖先」は単に敬うためのものではなく、現代であれば、相続権や国籍に関わるような重要な権原であった。しかし、原則として、奴隷の婚姻は自由人の間の正式の婚姻と異なり、家族を作るものではなく、奴隷を再生産するものにすぎなかった。
1855年にアメリカのプロテスタント系の教会が学校を建設して、奴隷と自由人の子を差別しないで、教育するようになると、ポロ結社は生意気に登校している奴隷少年を、学校から連れ去り、その卑しい身分を思い出させることもあったほど、奴隷は奴隷であった。しかし、奴隷が主人の信用を得て、古代ローマの奴隷同様、家族の教師になることもあった。さらに、あたかも親のように若者を叱責できるほどに、奴隷が氏族内で広く尊敬されるようになると、奴隷とみなされなくなることもあった。そのため、ヨーロッパ人の目には、客人と奴隷が同じに見えることもあった。しかし、一般には、奴隷が身請け以外の方法で解放されるのは困難であった。奴隷は自分自身で身請けすることが可能で、1896年の公式の身請け費用� ��子供が2ポンド、大人が4ポンドであった。法的には、奴隷は財産を保有できなかったが、人徳があり、良識ある主人は奴隷の蓄財を邪魔するものではないと理解されていた。
19世紀後半には、シェルブロ社会では、奴隷や、有力者の客人の数が自由人よりも多くなった。有力者は物的財産ではなく、客人や奴隷、あるいは、妻子といった、その従者の数で、その富を誇った。指導者の力は物的な富ではなく、平民から得られる信頼や尊敬、そして、従者の数に依存した。所有権が中心となって動く現代社会と異なり、贈与が社会の動因であったシェルブロ社会では、成功者の富はいわば一族郎党の要求により、あるいは、外交辞令的な贈与として、社会に分配された。シェルブロ社会で19世紀に奴隷貿易が盛んになると、それまで自然増に頼っていた従者の数が、人工的に、襲撃や奴隷の購入によって、増加した。
5. シエラレオネの奴隷制:ヴァイ人
ホルソーによると、ヴァイ人の歴史はロドニーの説に抵触する。(31)ヴァイ人は1500年頃、現ギニア共和国のサヴァンナ地帯からシエラレオネに移住してきた北部マンデ語族である。現在、シエラレオネには1万5千人ほどのヴァイ人がいる。その他、数万人のヴァイ人が隣国のリベリアに住んでいる。19世紀初期に奴隷貿易で指導的な地位を築いたのが、このヴァイ人とメンデ人である。(32)
ヴァイ人は焼畑耕作と交易で生計を成り立たせていた。ヴァイでは自由な生まれの人をマンジャ・デン(manja den: 複数形はマンジャ・デンヌ)と表現し、これは、首長の子という意味である。その逆の立場にある人たちはジョン(jon: 複数形はジョンヌ)とよばれた。
ヴァイ人とシェルブロ人は、奴隷の供給源も奴隷の利用法も似ていた。ヴァイ社会には、ヨーロッパ人に販売された奴隷の他に、3つの形式の不自由人(ジョンヌ)がいた。一つは、借金を返済するまでの間、強制労働に従事した年季奉公人である。借金を抱えるに至る理由の多くは、不貞によるものであった。一夫多妻制であるので、妻を1人失っても損失にはならないため、損害賠償の支払が完了したら、その不貞相手を妻として与えることもあり、その場合には、婚資を要求して、さらに債務を負わせた。もし完済されなければ、子供の労務を要求して、その償いをさせた。ヴァイ人においても、婚姻制度は労働力の確保と他人への効果的なたかり(美人局)のために悪用された。
第二に、母方のオジはオイやメイを人質として提供することができた。これも隷属の一形式であった。オイやメイはその逆に、母方のオジの財産を自由に利用する権利を持っていた。人質としての労務は死ぬまで続くこともあり、その労働は利子とみなされた。人質も債務で発生するので、人質は債務者の担保となっただけであり、その意味では債務による隷属と同じである。ヴァイ人であるかぎり、債務による場合も、人質による場合も、親族関係が否定されることはなく、形式上は自由人の地位を維持した。しかし、ヴァイ人でなければ、容易に奴隷の地位に落とされた。
逆に言えば、債務による隷属のうち、ヴァイ人でない者の多くが、第三の隷属の形式である家内奴隷の地位に落とされたといえるであろう。債務者や人質はいつかは実質的にもマンジャ・デンヌとして、自由人としてのその地位を回復する可能性を持っているが、奴隷はその可能性がほとんど否定された。家内奴隷は戦争捕虜、重罪犯、奴隷の子、あるいは奴隷商人からの購入によって、確保された。ヴァイ人同士であれば、戦争の場合、奴隷とされるのではなく、身代金の支払いで解放されるか、あるいは、処刑された。奴隷は家長によって、個人財産として所有されたのは、シェルブロ人と同じである。奴隷相続順位は奴隷の主人の長男、主人の弟、そして、約束してあれば、主人の妻の順であった。
奴隷が高く評価されることがあるのもシェルブロ人と同じである。奴隷は奴隷の地位から逃れられなかったが、善良で良く働く奴隷の場合には、マンジャ・デンとの区別が困難になるほど、家族に受け入れられた。主人に対する忠誠の強さとその能力によって、評価を受けたのである。奴隷の多くは主人とは別の地域の村で暮らしたので、監督の目が直接には届きにくかった。農業生産の大半は奴隷が担った。奴隷は蔑視され、汚いと思われ、マンジャ・デンは必要以上には近づかなかった。ヴァイ人は奴隷貿易に積極的に関与したことからも推量できるように、シェルブロ人より、奴隷に対する差別意識が強かったようである。マシューズなら、これを、「労働奴隷」とよぶであろうが、アフリカの社会・歴史の研究者は、この形式も� ��家内奴隷」と表現することが多そうである。
主人の葬式の時には、奴隷が生き埋めにされることもあり、あるいは、ワニが祖先の象徴と理解されているときには、奴隷の子がワニのために人身御供となった。主人の抑圧が限度をこえると、その他の社会と同様、奴隷は反乱をおこし、逃亡した。
ヴァイ人が家内奴隷として利用する奴隷の他に、ヨーロッパ人に売るために獲得された奴隷もいた。その多くは戦争の捕虜で、ヴァイの支配層の資金源となった。内陸部から多くの奴隷がヴァイを通じて、大西洋奴隷貿易で運ばれていった。中でも有名なのが、アミスタッド号事件である。1838年、ヴァイ人の居住地であるガリナス地域から出港したアミスタッド号には、38人の奴隷が乗船し、その中には、テムネ、メンデ、コノ、バンディ、ロマ、ゴラがいた。(33)
どのようにスパルタは終了しました
ヴァイ人とヨーロッパ人との関係は、1500年から1680年の間は誠実で、金、赤色染料木、象牙の取引が多く、奴隷の取引はほとんどなかったと見られている。(34)1680年頃に、イギリスで王立アフリカ会社の独占に対する攻撃が強まり、多くの個人商人がアフリカ交易に参加するようになると、個人商人がヴァイ人から奴隷を買ったという文書が残されるようになった。奴隷の取引が開始されるときには、イギリス人もヴァイ人も互いに人質を確保しておくほどに、相手を疑惑の目で見ながらの取引であった。しかし、1度にせいぜい十数人の奴隷しか取引されなかったほど、この地域からの奴隷輸出は少なかった。
1807年、すなわち、奴隷貿易が非合法化された年が一つの分水嶺になっている。18世紀の間、ヴァイ人は多数の商品の一つとして、奴隷を扱っていたにすぎなかったが、これ以降、スペイン領キューバやポルトガル領ブラジルなどの需要のため、奴隷価格が上昇すると、多数の奴隷が輸出されるようになった。1826年の報告では、1万数千人のヴァイ人の人口のうち、4分の3が奴隷であった。この頃、ガリナス地域での奴隷取引は、他の地域と同様に、ヨーロッパ人の前金で始まった。ヨーロッパ人がシアカ(Siaca)とよばれる王・首長と奴隷供給の契約をして、前金としての商品が渡された。首長はそれを利用して、内陸部から奴隷を購入した。時には、周辺の首長や商人と奴隷供給の契約をして、それぞれに十数� ��の奴隷を購入させることもあった。
奴隷貿易の拡大とともに、戦争も増加し、犯罪者を奴隷とするために、厳しく犯罪が取り締まられるようになった。その時代の様子を伝える物語によると、奴隷受け渡しの期日が迫ると、首長や商人は自分の妻と結託して、美人局となり、不貞の賠償金として10人の奴隷を供出させることもあった。妻の下には罰ではなく、贈り物が届いた。あるいは、船を見学させてあげると女学校の生徒をだまして、白人に奴隷として売り飛ばすこともあった。半ば事実、半ば物語の、このような話が伝わるほどに、奴隷貿易が活性化し、ホルソーは、1823年には、奴隷の輸出は年間3000人程度であったが、1840〜50年代には、1万5千人ほどに増加したと推定している。(35)
ヴァイの奴隷貿易は1850年以降、衰退する。リベリア政府の断固たる態度と、英米の海軍によって、ヴァイ人の奴隷輸出が禁止された。ヴァイは突然、大量の売れない奴隷を抱えることになった。その後も、ヨーロッパ商人の誘いで、ヴァイ人が奴隷、あるいは、年季奉公人という名の事実上の奴隷を輸出できたこともあった。しかし、1857年頃には、ヴァイの首長たちが英国人に、奴隷輸出の継続を求める理由として、それなくして、どのようにして生活を成り立たせればいいのかと問いかけるほどに、奴隷輸出が禁圧されるようになった。もちろん、生活が成り立たないというのは、英国で奴隷貿易が廃止されたときに、奴隷貿易擁護派が主張していた理由の一つである。既得権にしがみつく浅ましさは、どの社会でも同じ� ��ある。
1850年以降、シエラレオネでも、奴隷貿易にかわって、合法的貿易に従事するヨーロッパ商人がシエラレオネとの交易を求めるようになった。奴隷ではなく、パーム油やコーヒーなどが輸出されるようになった。
6. まとめ
白井氏は1990年に行ったコート・ジヴォワールのヤカセ村(アカン系のアニ・ンデニエ人)の調査の結果、その社会の構成員を5種類に分類した。(36)1.母系出自の正規の成員であるアニ・ンデニエ人、2.配偶者と母系出自以外の血族、3.ドレイとその子孫、4.借金の担保としての人質、5.外人あるいは非血縁のアニ・ンデニエ人。アニ語で奴隷はカンガと表現され、カンガは物と交換して連れてこられた人たちであるが、奴隷の転売は道徳的な非難を受けるほどに、アニ・ンデニ人として第二の人生を送ることを運命づけられた人たちである。そのため、白井氏はドレイという訳語は不適切であって、捕虜または隷属民の方がよりふさわしいのではないかと指摘する。(37)農耕に従事した労働奴 隷はともかく、少なくとも家内奴隷に関しては、シェルブロ人もヴァイ人も、奴隷はアニ・ンデニエ人と類似した社会的位置づけを与えられているように思われる。
黒アフリカの家内奴隷制は古代ローマや近代アメリカ植民地の労働奴隷制の萌芽的形式であるのかもしれない。しかし、家内奴隷制の奴隷は、まだ氏族社会の正規構成員になれない段階の、捕虜や隷属民にすぎないという規定性をもっているようである。しかし、家内奴隷の売買に制限があるという点で、近代の奴隷制に見られる奴隷とは異なるかもしれないが、祖先とのつながりを奪われているという意味で、奴隷であることには変わりなく、多くの研究者がそう見ているように、家内奴隷制はおそらく大西洋奴隷貿易以前から黒アフリカ社会に存在したものであろう。白井氏と同様に、ロドニーは彼らを奴隷とはみないので、この点は、何をもって奴隷と定義するかにかかっている。
しかし、正規の氏族員の居住村落とは別に設けられた奴隷村で暮らして、正規の氏族員のための食糧生産に従事させられた労働奴隷制が、大西洋奴隷貿易以前に存在したのか、否かは不明である。推測の域をでないが、奴隷が一つの村を構成するほどの労働奴隷制の場合、戦争によって大量に奴隷を獲得できるようになる必要がありそうである。この点では、もしかしたら、労働奴隷制は大西洋奴隷貿易開始後、本格化したのかもしれない。
しかし、シェルブロ社会をみる限りでは、マシューズ的な区別における家内奴隷と労働奴隷の扱いに、差はなさそうであり、両者とも、氏族の一員になる可能性を秘めた奴隷としての位置づけを得ていたようにも見える。労働奴隷といっても、19世紀に、換金作物用のプランテーション奴隷となる以前には、自給用の米、その他の食糧生産に従事させられていた。自給生産を確保した上で、それ以上の余剰奴隷がヨーロッパ人に奴隷として売られていたと推量される。ヴァイ人のように、自由人の多くが自給用の農業に従事しないで、奴隷交易に特化できるほどになると、奴隷に対する扱いが、まさに奴隷制にふさわしいものになったのかもしれない。
ここで確認できることは、氏族制度の中での奴隷の位置づけである。奴隷は客人や人質と同様に、氏族社会の正規の一員としてみなされない者である。客人は氏族の紐帯を奪われていないし、移住先の氏族の責任者(首長や主だった者)から、定住を認められた、別の氏族の一員である。債務者や人質も債務によって、強制的に労働奉仕を義務づけられているが、氏族の紐帯を切られてはいない。それに対して、奴隷は何らかの理由で奴隷となったときに、氏族の紐帯をすべて破棄される。奴隷は祖先との関係を切られて、身の置き所がなくなる。身請けや婚姻関係などを通じて、祖先とのつながりを回復して、新たな氏族の一員となるのでなければ、いつまでも奴隷として主人に奉仕しなければならない。例外的に氏族の共有財産とな� ��ことはあっても、原則として、奴隷は個人=主人に帰属する。それ以外の点で、どのように奴隷を奴隷として扱うかは、主人の人間性やその社会の性格で、さまざまな形をとる。奴隷は主人の意志に従うが、隷属はかならずしも奴隷の属性とはいえない。それは親の意思に従う子供を、「隷属」した人と表現できないのと同様である。
命を助けられた者が奴隷(servus)の語源であるという説が、2世紀後半のローマの法学者フロレンティヌスによって唱えられているが、シエラレオネにおいては、祖先との紐帯を切られて、氏族に属すことができない者、すなわち、本来なら生きる術のない者が、個人的な帰属先を見つけることができて、その個人に奉仕することで、命を認められた者が奴隷であるともいえる。(38)ロドニーと同様に、近代の奴隷制と類似した奴隷制は西アフリカにはなかったと言えるが、ロドニーと異なり、奴隷制そのものがなかったとは言い難い。
1) ロドニーは上ギニア海岸をガンビア川からマウント岬としている。Walter Rodney, A History of the Upper Guinea Coast, 1545 to 1800, Monthly Review Press, (1970), p.2. パーソンはもう少し南まで含めて、バンダマ川を南限としている。Y.パーソン「海岸沿いの諸民族―カザマンスからコートジボアールの沼沢地方まで」(D.T.ニアヌ編『ユネスコ アフリカの歴史』第4巻上、同朋舎出版、1992年所収)、p.446。
2) 宮本正興、松田素二(編)『新書アフリカ史』講談社現代新書、1997年、p.272。
3) 2001年9月からほぼ半年間、山本は国境なき医師団の一人として、平均寿命が25〜35歳程度のシエラレオネに派遣され、その体験談を語っている。山本敏晴『世界で一番いのちの短い国:シエラレオネの国境なき医師団』白水社、2002年。
4) 川田順造編『黒人アフリカの歴史世界』山川出版社、1987年、p.75。pp.79〜91でクリオ語の語彙、文法が紹介されている。クリオ語は80%ほどの語彙が英語から、その他に、ヨルバ語、チュイ語、メンデ語、テムネ語などから借用されている。
5) サペ人の子孫がテムネ人。パーソン、前掲論文、p.457。
6) Rodney, op.cit., p.244.
7) マンデはジャムーとよばれる父系氏族で構成される。マンデの文化中心地はニジェル川上流のカンガバで、ここでは7年に1度、大祭が繰り広げられて、マリ王国の王家のジャムーであるケイタ一族が参集して、マリ王国の創始者スンジャータの戦いとマンデ首長の忠誠の誓いを語り継いでいるという報告もある。川田、前掲書、p.332−334。
8) 20世紀のシエラレオネの結社に関しては、長島氏が興味深い指摘をしている。シエラレオネには部族結社、芸能結社、職業結社など様々な結社があるが、「それらに共通しているのは、成員の死に際して多額の香奠をその親族に送り、その生活を保障するという保険的規約である」。このような結社の性格からはギルド制度や頼母子講などの類似の制度を連想してしまう歴史研究者も多いであろう。長島信弘「シェラレオネとリベリア」(泉靖一編『ブラック・アフリカの社会経済変容』アジア経済研究所、1964年所収)、p.100。
9) John Matthews, A Voyage to the River Sierra Leone, ... with an Additional Letter on the African Slave Trade, (1788), (in Robin Law (ed.), The British Transatlantic Slave Trade, vol.1 The Operation of the Slave Trade in Africa, Pickering & Chatto, (2003)), p.112。ただし、マシューズが正確に観察できていたとは言えない。なお、内海夏子『ドキュメント女子割礼』集英社新書、2003年、pp.� �6−37に、WHOによる女子割礼の定義・分類と、それが実施されているアフリカの地域の地図が載せられている。内海は同書pp.14−29で、シエラレオネのボンド結社の実例を紹介している。女子割礼という儀礼に対して、内海は「たしかに結婚という条件のもと、女性に性器切除を強いることで、女性の肉体への権力を示し、男性の威厳は確保できるかもしれない。....自分さえ射精すればよいと、この慣習を支持する男たちは本気で思っているのだろうか」(同書、pp.102−103)と問いかけているが、現在の日本でも、本気でそう思っている、同様のタイプの男性は多そうである。そのような男が主張する権利が「夫権」であり、彼らはいまだに家庭内暴力を合法的で正当な権利であると考えている。
10) C.A. Bayly, The Birth of the Modern World, 1780 − 1914: Global Connections and Comparisons, Blackwell, (2004), p.335.
11) James Walvin, Black Ivory: Slavery in the British Empire, 2nd ed., Blackwell, (2001), pp.274−275.
12) Rodney, op.cit., pp.260f.
13) 平田氏はラヴジョイ(Paul E. Lovejoy)によりながら、アフリカにおける敵の奴隷化と奴隷使用の密接な結合を、アフリカの奴隷制の根本的な特徴であると指摘する。平田雅博『内なる帝国 内なる他者』晃洋書房、2004年、p.113。
14) 前田達明『愛と家庭と: 不貞行為に基づく損害賠償請求』成文堂、1985年、p.180。妻子は動産であったので、使用者である夫は被用者である妻の労務(service)が第三者に奪われたとき、誘惑(enticement)、隠匿(habouring)、per quod(其れによって彼はその服従を失う)の3つの訴権を持っていた。すなわち、妻は動産であったため、最終的に1971年に法的に廃止されるまで、不貞による第三者への損害賠償請求権、いわば労務に対する所有権が、英国でも認められていた。この意味で、夫権を主張して、第三者への損害賠償を請求する行為は、妻を奴隷扱いするのに等しい。
15) Suzanne Miers, 'Slavery, Contemporary Forms of', (in Paul Finkelman and Joseph C. Miller (eds.), Macmillan Encyclopedia of World Slavery, vol.2, (1998)), pp.817−822.
16) Carol P. MacCormack, 'Wono: Institutionalized Dependency in Sherbro Descent Groups' and Svend E. Holsoe, 'Slavery and Economic Response among the Vai' in Suzanne Miers and Igor Kopytoff (eds.), Slavery in Africa: Historical and Anthropological Perspectives, University of Wisconsin Press, 1977.
17) Matthews, op.cit., pp.200, 210, 213.
18) MacCormack, op.cit., p.184.
19) Ibid., p.181.
20) Ibid., p.183.
21) Ibid., p.184.
22) Matthews, op.cit., p.192.
23) Ibid., pp.191−195.
24) MacCormack, op.cit., pp.199, 195−196.
25) Matthews, op.cit., pp.187−188.
26) MacCormack, op.cit., p.195.
27) 加藤氏は所有権の発生を個人の権利の保護と投資への動機から論じているようである。加藤雅信『「所有権」の誕生』、三省堂、2001年、参照。しかし、個人概念自体が歴史の産物であり、いわゆる氏族制社会ではいわば氏族の「投資」が保護されないと、個人が損害を被る。奴隷は「個人」ではないので、その投資は保護されない。この社会では、個々人の権利よりも氏族への帰属意識のほうが強くて、個々人の所有という観念自体が発生しにくく、まずは氏族ありきであるように思われる。シェルブロ人の場合、クーが基本であり、ロクは個人の所有権というより、氏族の紐帯を無視できる特別の権利とみたほうがよさそうである。
28) 現代におけるコモンズの重要性に関しては、秋道智彌『コモンズの人類学: 文化・歴史・生態』人文書院、2004年; 宇沢弘文、茂木愛一郎編『社会的共通資本:コモンズと都市』東京大学出版会、1994年。
29) MacCormack, op.cit., p.189。戦前世代の意識が濃厚に残存しているため、日本では恋愛結婚の常識を否定して、司法関係者の多くがいまだに夫による妻の侮辱を人格否定とみないのと比較すると、シェルブロ人の奴隷は日本の妻よりも、その人格が認められていると言ってもいいほどである。
30) Ibid.
31) Holsoe, op.cit., p.300.
32) Rodney, op.cit., p.257.
33) アミスタッド号事件は日本人にとっては、スティーヴン・スピルバーグ監督の映画『アミスタッド』(1997年)で有名であるが、アメリカ人にとっては、高校の教科書的な事件の一つである。The Journal of American History, vol.87, no.3, (2000)では、特集を組んで、反乱の指導者であるセングベ・ピエ(シエラレオネのメンデ語による名前)が解放後、帰国して、奴隷商人になったのか、どうかが検討されている。なお、君塚氏によって、パーマストン外交との関係で、短文ながらも、アミスタッド号事件の興味深い紹介がなされている。君塚直隆「『アミスタッド』の裏側:奴隷貿易の取り締まりとパーマストン外交」『創文』2004年5月。
34) 赤色染料木は17世紀の英語文献では redwood と記載され、現在は camwood とよばれている。日本の建築業界では、この木はアフリカンパドックと表記されているようである。
35) Holsoe, op.cit., p.295.
36) 白井和子「森林の非都市的集落」(嶋田義仁、松田素二、和崎春日編『アフリカの都市的世界』世界思想社、2001年所収)、pp.108−113。
37) 同上論文、p.119、注6。
38) 坂口明「支配の果実と代償:ローマ奴隷制社会論」(『岩波講座 世界歴史 4:地中海世界と古典文明』岩波書店、1998年所収)、pp.301−302。なお、部族や氏族という言葉には、いろいろな意味が含まれている。非西欧的な文化の伝統や儀礼を象徴する言葉として部族(tribe)が用いられたという経緯や、部族制自体がヨーロッパとの接触で崩壊したという歴史を前提にして、部族という言葉を用いたくないという心情を吐露する研究者もいる。宮本正興「多言語・多民族文化論」(赤阪賢(他編)『アフリカ研究』世界思想社、1993年)、pp.136−137。血縁をたどれるリーニジ(lineage)や親族(kinship)、共通の祖先で結ばれた氏族(clan)という言葉と部族� ��区別も、奴隷、隷属民、農奴などの言葉の区別と同様に、困難なときがある。マコーマックはdescent groupやethnic groupという言葉で氏族を表現していて、clanは一度も利用していない。本稿では、祖先を共有して、共同で生活している集団という、おおざっぱな意味で氏族という言葉を用いた。
参考文献
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