シエラレオネの大西洋奴隷貿易シエラレオネの大西洋奴隷貿易
英文題名: Atlantic Slave Trade in Sierra Leone
児島秀樹(Kojima Hideki)
1. はじめに
シエラレオネは解放奴隷による植民が行われた国として有名である。その首都フリータウンはまさに解放奴隷が暮らすために創設された。しかし、奴隷貿易廃止後も、シエラレオネでは奴隷貿易が行われていた。解放奴隷によるシエラレオネ植民が始まっても、奴隷貿易も行われていたという点で、シエラレオネは特異な歴史をもっている。
シエラレオネは上ギニア(Upper Guinea)の一部として扱われることが多い。上ギニアはガンビア河口からマウント岬までの地域である。(1)西欧人が西アフリカに進出してきた頃には、シエラレオネの北側に位置するセネガンビアには中央集権国家が存在し、その南側のギニア海岸地方もヨルバ人を初めとした有力な部族によって統治されていた。それに対して、シエラレオネ地方は数カ村程度にまとまった小部族の連合体にすぎなかった。
大航海時代の先駆をなしたエンリケ航海王子が死亡した年、1460年に、ポルトガルの西アフリカ遠征はシエラレオネまで到達していた。イギリスも遅くとも1562年にはシエラレオネに到達し、ジョン・ホーキンズが軍事的援助と引き換えに、シエラレオネの王たちから多数の捕虜・奴隷を獲得した。(2)
エルティスたちが編集したCD−ROMデータを利用すると、シエラレオネ(ヌネス川からマウント岬)から積み出された奴隷の数がアフリカ全体に占める位置づけは表1のようになる。
表1: シエラレオネの奴隷輸出の割合
出典: D. Eltis, S.D. Behrendt, D. Richardson and H.S. Klein (eds.), The Trans−Atlantic Slave Trade: A Database on CD−ROM, Cambridge, (1999).
エルティスたちのデータを見る限りでは、シエラレオネからの奴隷の積み出しは、1760〜1810年(1777〜83年のアメリカ独立戦争時代を除く)が一つのピークをなして、その後も、1820−26年、1829−30年、1833−40年に1000〜4000人をこえる、間欠的な山が続いている。シエラレオネからの奴隷が入港した港は、18世紀には、サント・ドミンゴ、ジャマイカ、グレナダ、カロライナで60%をこえていたのに対して、19世紀には、確認できるアメリカの地域としては、キューバが25.6%を占め、ギアナとカロライナが10%弱で続いた。
2. シエラレオネの現在と過去
シエラレオネの輸出品は西欧諸国と接触することで、象牙や染料木などの特産品から始まった。18世紀に奴隷の輸出に重点が移されたが、19世紀には、プランテーションで産出されたコーヒー、カカオなどの農産物の輸出が重要となった。しかし、農産物は、現在では、輸出品の10%程度にすぎなくなり、チタンの原料鉱である金紅石の他、ダイヤモンドやボーキサイトなど、鉱石の輸出が総輸出の70%以上を占めている。ダイヤモンドをめぐる戦乱も経験し、シエラレオネ共和国の乳児死亡率が世界で1位であるのは有名である。(3)
シエラレオネは現在、英語を公用語とし、クリオ語、メンデ語、テムネ語なども話されている多民族国家である。クリオ語はフリータウンを中心に20万人の話者がいて、第2、第3言語として使用する人々は30万人をこえると言われている。(4)宗教的には、シエラレオネ人口の半数ほどがアニミズム的な伝統的慣習を守り、3分の1ほどがイスラム教を奉じ、キリスト教信者が残りを占めている。
テムネ人とメンデ人が、現在、シエラレオネ共和国の人口の3割程度をかかえている。テムネ人は15世紀にシエラレオネ北部に移住してきた。メンデ人は米を主食とし、16世紀半ばに南部に移住してきた。この二つの種族によって、シエラレオネは国が二分されている。
15・16世紀に、ポルトガル人はシエラレオネの海岸地方に住む人々をサペ(Sape)とよび、内陸部のメイン(Mane)と区別した。(5)このメインが16世紀半ばにシエラレオネ南部に移住してきたメンデ人であり、彼らは海岸地方に進出した。この侵入、すなわちメイン戦争によって、多くの捕虜がポルトガル商人に奴隷として売られ、メイン戦争がこの時期の奴隷供給源となった。その後、ポルトガルはコンゴ、アンゴラを中心に奴隷を求めていたが、17世紀末には、ブラジルの需要をまかなえなくて、上ギニアからも再び奴隷を輸出するようになった。しかし、18世紀に入ると、実際には、ポルトガル船よりも英仏の船舶のほうが多く奴隷を獲得したようである。上ギニア地方でのフランスの奴隷貿易は� �8世紀前半、特に1736〜44年が最盛期であり、ナントの船舶の3割が上ギニアに向かった。その後、ヨーロッパ内での戦争でフランスが後退すると、18世紀後半にはイギリスが介入することとなった。(6)
その他にシエラレオネには、西欧人が渡来する以前からこの地域に定住していたリンバ人(現在、30万人以上で、人口の10%弱)、15世紀にテムネ人と同様に、沿岸地域にやってきたシェルブロ人(現在、13.5万人ほどで、人口の3%強)などの、伝統的な社会を形成している人たちもいる。その他に、スス(約12万人)やヤルンカ、ヴァイ、ブロム、キッシなどの少数部族がシエラレオネで暮らしている。
メンデ人はマンデ語系の種族である。マンデ、あるいは、マンディンゴとよばれる人々はマリを中心におおよそセネガルからコートジボアールまで広く居住している。スス、ヤルンカ、ヴァイもマンデ系である。10世紀のガーナ王国はマンデ系のソニンケ人が形成したものであり、1324年に黄金を携えてメッカ巡礼の旅に出た、第9代のマンサ・ムーサ王の話で有名なマリ王国もマンデ系である。(7)
シエラレオネの多くの種族は、米の他に、キャッサバ、モロコシ、ミレット、綿花、インディゴ、サツマイモなどを栽培していた。シエラレオネの住民は米や綿花の栽培技術を持っていたので、北アメリカのプランターはシエラレオネ出身の奴隷を高く評価できた。
大多数の土着の人々はフリータウンのエリート層と異なり、結社を基軸とする伝統的な社会を構成している。(8)アフリカ大陸の北部と南部を除き、西アフリカから東アフリカにかけての28カ国で広くみられる女子割礼の慣習は、シエラレオネでは、成人になるための通過儀礼として、女性用のボンド結社によって遂行されている。ただし、18世紀のマシューズの報告によると、シエラレオネにおける女子割礼はスス人とマンディンゴ人だけが行ったものにすぎない。(9)
クリオは解放奴隷の末裔である。彼らは、1787年に建設されたフリータウンを中心に生活し、実業家、官僚、教師などのエリート階層を形成している。クリオは1839年からナイジェリア南部などへも植民を開始した。クリオ人エリートは、ヨーロッパがアフリカで福音伝道を開始して、英国流の教育を受け入れた最初の人たちであると言われる。(10)
解放奴隷が定住していたにもかかわらず、18世紀末頃から1896年まで、シエラレオネでは奴隷を獲得するための戦争・襲撃が繰り返された。1808年、フリータウンはイギリスの直轄植民地となり、奴隷貿易取締のために、英国海軍の基地が設けられた。英国海軍によって、大西洋上で捕獲された奴隷貿易船の奴隷はフリータウンで解放された。フリータウン直轄植民地以外のシエラレオネ各地は、1896年にイギリスの保護領とされたが、1961年4月27日に、イギリス連邦に加わる形で、シエラレオネは独立国となった。
奴隷貿易の時代、アフリカの人口の約3分の1が子供であったと推測されている。1800年以前に、奴隷として大西洋を渡ったアフリカ人の中で、子供は20%より少なかった。それに対して、子供が多かったので有名なのがシエラレオネで、シエラレオネからの奴隷の35%ほどが子供であった。ところが、19世紀に入ると、1811〜67年に大西洋奴隷貿易で扱われた奴隷の41%が子供となった。中でも、ザイール川北部からの奴隷は52%以上が子供であり、アンゴラの奴隷は59%、東南部アフリカの奴隷は61%が子供であった。19世紀には「大西洋奴隷貿易は子供の貿易になった」とさえ言われる。(11)
シエラレオネは解放奴隷の定住地となるとともに、奴隷輸出がそれほど減少しなかった地域でもあった。ここではその疑問に直接に答えるのではなく、奴隷輸出がなくならないほどに、シエラレオネで展開していた奴隷制がどのようなものであったのかを調べてみよう。アメリカの先住民と黒人を比較すると、奴隷制それ自体や農業技術へのなじみの点で、黒人のほうが奴隷として適格であったと思われる。
3. 西アフリカの家内奴隷制
シエラレオネの奴隷に関しては、ロドニーが論争を提起している。アフリカには昔から奴隷制が存在したのか、それとも、大西洋奴隷貿易に関連した制度であるのか。ロドニーはシエラレオネ地方の奴隷制は、そして、おそらくサハラ以南のアフリカの家内奴隷制は大西洋奴隷貿易以前には存在しなかったか、存在しても、その人口の割合からすると重要なものではなかったと主張した。大西洋奴隷貿易とともに、その重要度が増して、規模も拡大したにすぎないと。ロドニーは「家内奴隷制」(domestic slavery)という表現で表されているものは奴隷制ではないと考える。その「奴隷」たちは主人の世帯の一員であり、重罪を犯さないと売買されないし、自分用の土地も持っているし、その成果に対する権利も持っ� ��いる。彼らは結婚もできたし、子供には相続権もあった。ロドニーにとっては、このような属性は奴隷にあたらない。(12)
ロドニー説を確認することも、否定することも、二重の意味で困難である。アフリカの他の地域と同様、シエラレオネの歴史は、シエラレオネの住民が文書を残していないため、ムスリムの文献や口頭伝承の他は、たいてい西欧各国に残る史料で確認することになる。西欧は西アフリカ各地と接触するとほぼ同時に、大西洋奴隷貿易を開始しているので、それ以前の歴史の多くは推測するしかない。それだけでなく、西欧の文献を信用したとしても、19世紀に植民地の官僚として在住したヨーロッパ人の目にさえ、奴隷と主人の区別がつかないときがあったほど、奴隷とそれ以外の人の境界線がヨーロッパの基準からは曖昧であったので、西欧の文献に奴隷の記述がなくても、15世紀より前に奴隷が存在していた可能性は高い。
第二に、奴隷と主人の区別にも関係するが、奴隷制の定義によって、大西洋奴隷貿易以前に、奴隷制が存在したとも、しなかったとも言える。ここでは、単純に基本的には、人身売買の対象となった人たちを奴隷と理解しておく。しかし、人身売買されると、それはすべて奴隷であろうか。ほとんど人身売買と同じように金銭取引され、蔑視と差別の対象とされた、『女工哀史』の女工たちや、金品の授受が当然視された婚姻制度における女性は、奴隷とは言わないのであろうか。確かに、債務の弁済や婚資の授受は「売買」とは異なる。売買自体にさまざまな形式が区別されるので、厳密にみると、人身売買を奴隷化の判断基準とするわけにはいかない。同様に、奴隷解放されるためには、身請けされる必要があるが、「身請け」でし� ��解放されない人たちは、すべて奴隷なのであろうか。