2012年6月9日土曜日


[people] 47氏

47氏逮捕

ところで、47氏という名前の由来はなんなのだろう。
金子→ネコ→にゃあ→に2やぁ8→28=4×7→47氏 ? (zokkonさんのコメントで解決!)

立件にあたっての争点は「故意であったか否か」らしいんですが、「法律違反にあたることはわかっていた」と容疑者は述べているそうで、あら、そうだったの。。。しかし、自分側(検察)に都合のいいものはががんがん報道に流す姿勢には危ういものを感じてしまう。

法律にはうといのでわからないけれど、いくら容疑者が違法に使われる可能性の有るものを作ったからといって、それを「故意」だから違法、と決めつけることができるのかなぁ。もし47氏が「包丁」を作ったらどうなるのだろうか? 「人を傷つけることができることはわかっていた」と取り調べで答えたら? <素人問答のようでした。次のリンクを参照(追記)

【関連リンク】幇助犯 from awake in a muddle

もし今回の事件が立件できて違法と判決が出たりすると、それはすぐに拡大解釈されて、P2Pソフトは全部悪いってことになるような? それじゃあ、Timbuktuもダメなのだろうか? 合法違法を切り分ける基準は何なのだろう?
【製品情報】Timbuktu: http://www.dit.co.jp/product/network/timbuktu_pro/
【関連リンク】「故意」の立証が争点に Winny開発者逮捕(asahi.com)

2012年6月5日火曜日


ナショナル・ジオグラフィック誌の2008年8月号のイラン特集で、アラブでもイスラムでもないペルシャの魂を象徴するものとして、王書(シャー・ナーメ)が紹介されていた。お気に入りのアフガニスタンの小説『カイト・ランナー』でも、シャー・ナーメが言及されていた事を今さらながら思い出し、興味を惹かれて読んでみた次第である。

シャー・ナーメの和訳は、岩波文庫版と東洋文庫版がある。東洋文庫版は実質的には単行本で、しかも韻文形式で訳されていて、何だかとっつきにくい。そこで文庫本で、しかも散文形式の岩波文庫版を読む事にした。

2012年6月3日日曜日


 日本書紀は謎の多い書物である。今日の歴史家は、古代天皇の部分はほとんど造作だという。あの天皇もこの天皇も実在しなかった、みんな書紀編纂者たちが創作したと考えるのである。たとえばWikipediaには「古代天皇の実在を証明することは難しいだろう」と述べられている。それが大方の見方のようだ。

 だが最近、私は歴史家たちの言うことは疑わしいと思うようになった。普通、歴史的人物は、文献に出ていること自体が実在の証明であって、それ以外の物的証拠は必要としない。たとえば私たちはヒトラーについて、疑いもなく実在した人物として論ずることができる。しかしほとんどの人は、彼が実在した物的証拠を持っているわけではない。示せるのはせいぜい何か本に書いてあるということだけである。 私の所有物には、ヒトラーに関してまとまった記述や論述のある書物はない。実を言えば、多少とも誇張や創作を交えた物語にヒトラーが登場する場合が多い。

 もちろん、ヒトラーの実在性を疑う人などいるはずはなく、実在の証拠を出せと言われることもない。それでも「虐殺はなかった」などと言う人はいる。戦勝国側によって「悪の極致」とされ、まるで悪魔が人間の姿をまとって現れたような扱いであるから、疑問を持つ余地はある。最近読んだ小説にはヒトラーの隠し子がいて、その人物がやがてアメリカ大統領になるというパラレルワールドものがあった。ヒトラーの遺伝子を持つと悪魔になる、と思っている人は少なくないようである。そうした考えは迷信よりもっと悪いものだ。

 当時のド イツ人は、自分たちの利益が、国内に入り込んだ他民族によって奪われているということをひしひしと感じていた。マックス・ウェーバーのフライブルグ大学教授就任講演では、主としてポーランド国境においてドイツが経済的に侵食され、「低い段階の精神しか持たないスラブ民族が、低級であるが故に競争に打ち勝ち、もっと高貴な精神を持つドイツ民族の生存を脅かしている」と警告し、こうした民族を排除すべきだと述べた。スラブをユダヤに置き換えれば、ナチスの主張にそっくりである。もちろん、ナチスはユダヤだけでなくポーランド人も迫害した。当時のドイツ人は、みんながこうした憂いを抱えていたのである。ヒトラーはその「空気」にうまく乗ったのだ。政権奪取はクーデターに近い乱暴なやり方だったが、彼の政� ��下でドイツ経済はめざましい回復をとげ、失業率は劇的に低下した。だから当時のドイツ人はヒトラーを「キリストの再来」とまで崇めたのだ。だが彼の歩んだ道が少しでも違っていれば、悪魔でも独裁者でもなく、ちょっと風変わりで孤独な芸術家(画家)に終わっていただろう。

<架空説とはどんなものか>

 私が初めて日本の歴史を学校で教わったとき、日本書紀は非常に疑わしい書物であり、初期天皇はすべて架空の存在だと説明された。「こんなん信じたらアカンで」と言いながら、先生が話したところによれば、その論拠は異常な長寿、事績記事の欠如(つまり欠史)、諮号の後代性などである。要するに「後代の創作と考えれば説明が付く」ということであって、何か具体的な証拠に基づいて言うのではない。文献こそ証拠だという立場で言えば、古代文献のすべてが、初期天皇は実在したという前提に立っていることは明白であり、したがって歴史学的には実在した証拠があることになる。

 最近の歴史教育では、古代天皇はほとんど姿を消しているらしい。卑弥� �の時代の次に、いきなり聖徳太子時代になる。架空説、造作説が有力になり、日本の古代史はほとんど信用できないというので、中国文献を継ぎ合わせて記述しているのである。

 この文を読む人の中にも、古代天皇についてはほとんど知らない人があると思うので、表に整理した形で書いてみよう。

代数

諮号

即位時年齢

在位期間

崩御時年齢

事績記事

子供の数

‾武

51

76

127

即位前記(東征)のみ

男3

綏靖

51

33

84

即位前記のみ

男1

安寧

29

38

67

なし

男2

懿徳

43

34

77

なし

男1

孝昭

30

83

113

なし

男1

孝安

35

102

137

なし

男1

孝霊

52

76

128

なし

男4女2

孝元

59

57

116

なし

男4女2

開化

51

60

111

なし

男3

10

崇神

51

68

119

四道将軍派遣など

男6女5

2012年6月2日土曜日


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2012年5月31日木曜日


アフリカ系アメリカ人(英語: African-American)は、アメリカ合衆国民のうち、アフリカ出身の黒人(ネグロイド)もしくはその子孫である。アフリカン・アメリカン、アフロアメリカン、アメリカ黒人。

アフリカ系アメリカ人という言葉には黒人を意味する語は入っていないが、コーカソイドに属する北アフリカ系アメリカ人は含まない。

大半は、19世紀半ばの南北戦争以前にアフリカ(サハラ砂漠以南のブラックアフリカ)から奴隷貿易によりアメリカに連れてこられた奴隷の子孫である。ただし若干だが、より新しい時代に自由な移民として渡米した黒人やその子孫もいる。彼らをアフリカ系 (African) と呼ぶべきかどうかについて、また、黒人 (Black) と呼ぶべきかどうかについては、論争がある。中米に奴隷として送られたのちに移民として渡米するなど、より複雑な経緯を持つ者もいる。

奴隷として連れて来られた際は出身集団や民族集団が異なっていたが、奴隷制度によって民族・文化的なつながりが乏しくなり、また、長い年月によって混血が進んだため、民族集団ではなく、アメリカ合衆国に在住する黒人の人種コミュニティとして度々用いられている(米国内の黒人人種比率: 12.9%、2005年)。

アフリカ系アメリカ人は、長い間人種差別の対象とされ苦難の道を歩んできたが、現在はブラジルなど他のヨーロッパ系主体の移民国家のアフリカ系住民より社会進出が進んでおり、ホワイトカラーや軍人、俳優やスポーツ選手で活躍する場合も多く、多数の閣僚を輩出するなど、国政の中枢にまで上りつめるようになった。

以前は「ニグロ」(negro、ニガー - nigger)などとも呼ばれたが、これは1960年代の公民権運動の高まり(「ブラック・パワー」)以来差別用語とされている。 その一方、アフリカ系アメリカ人男性同士の人類同胞主義の表現として「ニガ (nigga) 」が使われる事も多々あり、その傾向は特にラップ音楽において顕著である。しかし日本人などの黄色人種や白人系アメリカ人を含め、アフリカ系アメリカ人以外の者達がこの表現を使う事は差別的言動とみなされる。

民族的回帰運動でもある「ブラック・パワー」を提起した黒人たちは、「ブラック・イズ・ビューティフル(黒は美しい)」をスローガンに掲げ、白人から否定され、自らも否定してきた黒人の人種的特徴を「黒人らしさ」として逆に強調し、彼らの民族的アイデンティティーを主張する表現のひとつとしてアフロヘアーという髪型も生み出した。彼らはキリスト教からイスラム教へ改宗したほか、自らを「ブラック(黒人)」と自称し、これは現在の黒人たちの一般的な自称となっている。

[編集] 定義に関する論争

移民大国のアメリカには、現在に至ってもアフリカ、中南米やカリブ海諸国から黒人の移民がやってくる。しかし、彼等はアメリカによってアフリカから連れて来られた黒人奴隷の子孫でない(中南米やカリブ海諸国から来た場合はスペインやフランス、イギリスなどにより連れて来られた黒人奴隷の子孫である)ことから、アメリカ国籍を持っていない場合は、「アフリカ系アメリカ人」という呼び名は当てはまらないとの指摘もある。例えば、コリン・パウエルはアフリカからジャマイカを経由しアメリカに来た移民の子であり、カリビアン・アメリカンが正当な名称であるが、実際にはアメリカ国籍を持ちアフリカにルーツを持つ場合は、アフリカ系アメリカ人と呼ばれているのが現実である。また「初のアフリカ系大統領」と呼� ��れるバラク・オバマもケニヤ人を父親にもつイングランド系アメリカ人だという認識もできる。これは高祖父がサウスカロライナの黒人奴隷だった、すなわち「奴隷の末裔」(マーチー・ルーサー・キングJr.)のミシェル・オバマとは対照的である。

2012年5月19日土曜日


 一カ月後に迫った名古屋ウィメンズマラソンに関する記事が紙面に載るようになってきました。

 他人から強制されれば、苦役でしかない四二・一九五キロ。女性には過酷すぎるという見方もあり、オリンピックに女子マラソンが採用されたのは一九八四年のロサンゼルス大会でした。

2012年5月17日木曜日


あまりにも有名な剣で昔からいろんなゲームに登場しています、その名も「竜殺し」でありドラゴンタイプのクリーチャーに有効(あるいは致命的)であるという設定は共通していますがその形状は特に定まっていません。
ドラゴンを退治した人物(あるいは集団)をドラゴンスレイヤーと呼ぶこともあります。
さて、ドラゴンスレイヤーの形状は一般的には普通の片手剣をしていますが、剣という武器はあくまで人間に対して考案された武器であり、巨大なドラゴンと戦うには適した形状とはいえないように思います。

その論拠として、


以上の2つがあります。もちろん2〜3m程度の大きさのドラゴンなら通常の剣でもそれなりに効果を上げるでしょうが、退治して名声が轟くほど凶悪なドラゴンは大概10m近い巨体で描� �れています。

でもやはり武器としてのドラゴンスレイヤーは剣であって欲しい!そこでドラゴンスレイヤーとはどういう武器(剣)なのか考えると可能性として次のものがあると思います。

2012年5月15日火曜日


Diplomat Innはオンタリオ州ナイアガラフォールズにあるホテルで、スカイロンタワーから徒歩7分です。虹の形の屋外プール、高速インターネット回線、広々とした客室(ケーブルテレビ付)を提供しています。 伝統的な内装の客室には冷蔵庫、コーヒーメーカー、シーティングエリアが備わり、市内通話を無料で利用できます。スパバス付きの客室もあります。...

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2012年5月14日月曜日


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2012年5月12日土曜日


西 村 洋 子 の 雑 記 帳 (11)

(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10)(12)(13)(14)(15)もご覧下さい。

2010年10月15日(金)

昨夜10:00〜11:00にナショナルジオグラフィックチャンネルで「銀の棺のファラオ」という番組がありました。第21王朝プスセンネス1世に関連した番組で、第三中間期のファラオが取り上げられるのは珍しいので、録画して観ました。

ヨーロッパでは1939年9月1日の、ドイツのポーランド侵攻を契機に第二次世界大戦が始まりましたが、その頃ナイルデルタのタニスで考古学史上重要な発見がありました。ピエール・モンテ教授率いるフランス考古学調査隊はタニスで10年以上アメン大神殿の遺跡の発掘を続けていました。エジプトでは約170人の王が君臨したにもかかわらず、70人の王の墓がいまだに発見されていません。モンテ教授は大神殿を取り囲む分厚い日干しレンガの壁の内側に未発掘の墓があるかもしれないと信じていました。そして1939年2月27日にアメン大神殿の壁のそばに王家の墓らしき建造物を発見しました。それは紀元前850年頃の王家の墓でした。玄室の天井にはすでに盗掘の穴が開いていましたが、墓碑銘には第22王朝オソルコン2世の名前が彫ら� �ていて、王の親族も埋葬されていました。モンテ教授は早速発掘範囲を10mほど広げるように作業員たちに指示しました。1940年2月15日、盗掘された墓の隣で未盗掘の墓を発見しました。玄室の前の小部屋で、彼はパーセバーハーエヌニウト・メリーアメン(直訳すると「都に昇る星、アメン神に愛されし者」、紀元前1047-1001年在位)すなわち第21王朝プスセンネス1世の名前を発見しました。当時テーベの支配者たちについてはよく知られていましたが、プスセンネス1世に関する知識はほとんど皆無でした。玄室への入口は巨大な花崗岩で閉ざされていたため、彼は6日間岩を砕きました。そしてついに1940年2月21日、玄室に足を踏み入れました。モンテ教授は「アラビアン・ナイトの世界だった。」と言いました。豪華な副葬品が収められていた からです。王の棺は部屋のほとんどを占める巨大な石棺(JE87297)の中に収められていました。石棺の巨大な蓋はカイロ博物館に収蔵されています。石棺の中には第二の石棺(JE85911)が収められていました。つまり二重の石棺で王の棺が守られていました。1940年2月28日、調査隊の後援者であったエジプト国王ファールーク1世が世紀の瞬間に立ち会うためにモンテ教授を訪問しました。国王は財宝に関心がありました。王の棺は銀製の人型棺(JE85917)でした。しかもミイラは黄金のマスク(JE85913)をつけていました。黄金と銀の他にもラピスラズリが大量に使われていました。副葬品にはどれも王のカルトゥーシュが彫られていました。財宝の価値はその量と細工の質の高さから分かりました。経済が衰退し、エジプトが南北に分裂し、他国からの侵� �にも脅かされていた暗黒時代と思われていた第三中間期の、無名の王の墓が歴代の偉大な王たちの墓に匹敵するほどの豪華さでした。しかし、モンテ教授にはすべての出土品を調べる余裕がありませんでした。ヒトラーの軍隊がフランス国境に迫り、数週間以内に侵攻を始める勢いだったからです。モンテ教授は発掘隊を解散し、家族のいるフランスに急いで帰国し、その後5年間エジプトを訪れることはありませんでした。出土品は保管のためカイロ博物館に移送されました。第二次世界大戦のためプスセンネス1世の墓はほとんど話題にならず、モンテ教授の功績もよく知られないままでした。

さて、プスセンネス1世のミイラを調査したのは、ツタンカーメン王のミイラを調査したカイロ大学解剖学教授ダグラス・デリーでした。デルタで発見されたミイラは腐食しやすく、調査が困難でした。そのためデリー教授はプスセンネス1世のミイラの一部を調査したという方が正確です。調査結果は論文"An Examination of the Bones of King Psusennes"に発表されましたが、プスセンネス1世が亡くなったとき高齢だったということを突き止めただけでした。王のミイラはその後大学の資料室の奥深くに収められ、70年間忘れ去られました。今デリー教授の後継者で、カイロ大学のファウジー・ガバラー教授が王のミイラの再調査に乗り出しました。筋肉や皮膚は失われていますが、骨から生前の王について多くのことが分かります。王の身長は約166cm、がっしりした体格で、平均寿命が35歳だった時代に80歳近くまで生きました。王の第七頸椎には一度折れて、再び完治した跡があります。それは疲労骨折の一種でした。上腕を酷使したための損傷も見られます。腰の部分の背骨にはリューマチ性疾患が見られ、石柱の靱帯が骨のように硬くなっています。

次に法医学的な技術を駆使して王の在りし日の姿を解明します。法医学アーティストのメリッサ・ドリング女史は王の素描を描きながら次のように解説しました。王は頭が大きく、身長は低めで、精力的に身体を動かしていた。右目の位置が左目の位置よりもわずかに高いこと、ほお骨の始まる位置と終わる位置が左右でずれていることに注目し、口はきつく結ばれ、毅然とした厳格な表情をしていたと推測します。

プスセンネス1世の素描は、下記のURLをご覧下さい。

王は身体が丈夫で長生きしたため、権威ある統治者だったでしょう。プスセンネス1世は46年間統治しました。しかし、プスセンネス1世のような偉大な王ですら南部の支配者たちと国を二分せざるを得なかったのはなぜでしょうか? 原因はラムセス2世です。彼がデルタ地帯に新しい王都ペル・ラムセスを建設したために、王国のバランスを崩すことになりました。テーベではカルナックのアメン神の神官長たちが王に対抗出来るほどの力を持ちました。彼らは神殿を運営する実業家であり、軍隊を指揮することも出来ました。アメン神の神官長たちがそれほどの力を持つようになったのなぜでしょうか? 王が神殿に領地を与えると、その領地で神官たちは儀式を行い、自分の石像を立て、名声を誇示しました。王は神官たちに漁業 や狩猟の権利を与え、ナイル河の交易を許可することもありました。それで神官たちは富を築くことが出来たのです。裕福になった神官たちはついに自分が王になろうと考えました。プスセンネス1世が即位する少し前、神官長は王と同等の権力を獲得していました。カルナックのアメン神の神官長たちはメンフィス以南を支配し、王はデルタ地帯に追いやられました。

それでは、プスセンネス1世は狭い領土でどうやって巨万の富を築いたのでしょうか? 彼はアメン神の神官長でもあることが小さな杯の銘文から知られます。つまり、プスセンネス1世には王としての収入(民からの租税)と神官長としての収入があったのです。さらにプスセンネス1世は紀元前1,070年頃のカルナックのアメン神の神官長パネジェム1世界の息子でした。パネジェム1世の4人の息子のうち3人が彼の後を継ぎましたが、そのうちの一人がプスセンネス1世でした。王になったプスセンネス1世にはアメン神官長の地位も与えられました。そしてカルナックのアメン神の神官長になった自分の兄弟の下に娘を嫁がせました。つまり、王は家族のつながりを武器に政略結婚や同盟によって富や権力を勝ち取ったのです。

モンテ教授はタニスこそペル・ラムセスだと確信しました。というのは、タニスで発見された多くの石材にラムセス2世の名前が彫られていたからです。しかし、デルタにはナイル川のたくさんの支流があり、川の流れは常に変わりました。泥が堆積して次第に陸地になる地域もあれば、水没する地域もありました。1970年代にタニスから20kmほど離れた小さな集落で調査していた考古学者たちはモンテ教授の説に疑問を抱きました。というのは、彼らはモンテ教授が見落としていた支流で新たな都市の痕跡を発見したからです。そこからはラムセス時代の大量の陶器が出土しました。そこで、地中探査レーダーを持ち込んでスキャンしたところ、巨大な都市が現れました。その都市には神殿や軍事施設までありました。ラムセス2世の 厩舎まで見つかりました。今は地中に埋もれていますが、信じられないくらいに巨大な都市にラムセス2世の都(=ペル・ラムセス)である証拠があふれていました。

マンフレッド・ビータック博士たちが発掘調査しているテル・エル・ダヴァ〜カンティールにかけての地域のことですね。このことについては「西村洋子の雑記帳(3)」の2007年4月4日の記事をご覧下さい。ここを流れていたナイル川の支流は泥が堆積してせき止められ、進路を変えたことが分かっています。ペル・ラムセスは乾燥した荒れ地となり、人が住めなくなりました。それは紀元前1,047年頃のプスセンネス1世の即位直前のことでした。そこで、プスセンネス1世はペル・ラムセスの建造物を解体し、タニスに移しました。タニスの遺跡とスキャンしたペル・ラムセスの画像を比べてみると、二つの都市の神殿はそっくり同じ作りだったことが分かりました。プスセンネス1世はペル・ラムセスを自分の都市に取り込み、自分の� �力と権威の高さを世に見せつけたのです。これは統率のとれた労働者たちと有能な役人たちを率いていなければ出来ない大事業でした。王はそれだけの才能と行動力を備えていたのです。

ところで、プスセンネス1世はなぜ銀の棺を選んだのでしょうか? 古代エジプトでは黄金は神々の肉体とされ、銀は神々の骨とされました。黄金はヌビアの東部砂漠で豊富に算出しましたが、銀は乏しかったので、もっと早い時代にはとても貴重でした。しかし、プスセンネス1世の時代には交易を通じて黄金の半分の価値で銀を購入することが出来ました。考古学者で銀細工職人のジョン・プリベット氏はプスセンネス1世の銀の棺を研究しています。銀は加工するのに相当な労力と技術を要します。黄金は柔らかくて加工しやすいですが、銀はまったくその逆です。加熱して結晶構造を柔らかくしてからでないと加工出来ないし、それを何度も繰り返す必要があります。プスセンネス1世の棺は重さ90kgの銀で出来ていました。胴体� ��薄い銀板を打ち出して作られていたので、発掘の際一部破損しましたが、頭部は暑い銀で出来ており、鋳造の後槌で打って整えられたことが分かります。古代エジプトでは鋳造技術が発達しており、まず鋳型に銀を流し込み、原型を作り、それを磨いてはのみで削り、王の顔を形作りました。それは厖大な手間と時間を要する作業でした。

モンテ教授は1966年に死亡しました。彼は自分が発見した都市がペル・ラムセスではなかったことを知らずに亡くなりました。しかし、プスセンネス1世の墓の発見が考古学史上重要な出来事だったことに変わりはありません。プスセンネス1世は徐々に注目を集めつつあります。私たちはプスセンネス1世を再評価する必要があります。

現在のタニスの調査については、下記のURLをご覧下さい。

ナショナルジオグラフィックチャンネルからの写真は、下記のURLをご覧下さい。

プスセンネス1世については、「古代エジプトの歴史 24. 第三中間期(2)」もご覧下さい。

2010年12月31日(金)

12月16日(木)から毎週ヒストリーチャンネルで新シリーズ「密着 ザヒ・ハワス博士のミイラ発掘」が始まりました。放送時間帯は22:00〜23:00です。華々しい考古学上の発見や新説の紹介ではなく、日々の考古学の実践を追うドキュメンタリー番組です。全10回で、12月はそのうちの2回が放送されました。

初回は「末期王朝のミイラ」です。ハワス博士は「エジプト人の過去は私たちみんなの過去でもある。これぞ歴史なんだ。」と語ります。ハワス博士は撮影スタッフからは「ファラオ」と呼ばれて恐れられています。エグゼクティブ・プロデューサーのゴーハー氏によると、ハワス博士は「気が短くて、誰かがへまをすると許せなくて、すぐにカッとなって怒り出す。しかし、心優しい人だ。」そうです。

番組の前半は考古学研修生がジョセル王の階段ピラミッドの地下に閉じ込められる事件についてでした。ハワス博士は20年間サッカラの階段ピラミッドで修復作業をしています。この日クレア・ジョンソンという考古学研修生が来る予定でしたが、何かの手違いで、ゾーイというカナダ人女性の考古学研修生がやってきました。ハワス博士はとても忙しいので、挨拶もそこそこにどこかへ行ってしまいました。そこでゾーイは研修制度コーディネーターのアラン・モートン博士に頼んでサッカラの階段ピラミッドの地下を見学させてもらいました。

2012年5月11日金曜日


 ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』は1970年代のイタリアの政治状況を中世の教会世界に移していた‥‥という説がある。ほんとうかどうかは知らないが、もしそうだとすると、エーコが関心をもった政治状況の中心にはアントニオ・ネグリの動向が大きく印象づけられていたということになる。実際にもエーコはしばしばネグリについて発言した。
 ネグリはエーコに惚れられるにふさわしい武勇伝の持ち主だった。いや、武勇はいまなお続いているし、これからも何がおこるかわからない。ネグリといえば「赤い旅団」や「逃走」や「亡命」が有名なので、その武勇伝にばかり話題が走るか、あるいは「アウトノミア」やマイケル・ハートとの共著『帝国』の話題に走りがちなのだが、それだけではネグリは語れない。ネグリにはつねに「生政治性」(ビオポリティーク)というものがある。
 しかし、なるほど武勇伝も痛快である。そこで以下は、これらを適宜交ぜながら、これまでの活動を総じてふりかえりたい。

 アントニオ・ネグリは1933年にパドヴァに生まれた。父親がイタリア共産党の創立メンバーで、ネグリが2歳のときにファシストに惨殺された。ムッソリーニのファシスト党が絶頂期のときに、これに真っ向から対決する革命地下組織をつくろうとしたのだから、少年ネグリにとっては父親の惨殺は政治社会というものの惨(むご)たらしい本質を告げたのは当然だ。
 その惨たらしさにどう復讐するか。少年は少年にしてすでにコミュニストの顔付きをする。実は祖父や義兄も共産主義者だった。
 ネグリは青年期には筋金入りの組織労働運動の活動家になっていた。とくに1956年のハンガリー動乱(マルクス主義陣営ではしばしばハンガリー革命とよぶ)のさなかに創刊された「クァデルニ・ロッシ」(赤い手帖)に参画したのが大きく、そのときからは公然と政治活動と表現活動にとりくんだ。その第一弾がマッシモ・カッチャリらと携わった「クラッセ・オペライア」(労働者階級)の創刊と「オペライア主義」(労働者主義)や「オペライスム・イタリアン」(イタリア労働者主義)の計画である。このときネグリはすでに「労働の拒否」というラディカルなスローガンを出している。
 この「労働の拒否」を行動メッセージとした活動は、のちにネグリが「ビオス」という言葉でまとめたスタイルになっていく。ビオスは「生のスタイルをともなった活動あれこれのアクチュアリティ」といった意味だと思うのだが、そこにネグリは「知識と行動はともにビオスでなければならない」という付加価値をこめていた。これが「生政治性」(ビオポリティーク)の発芽になった。

2012年5月9日水曜日


シルクロード研究(2):万里長城編

シルクロード研究(2):万里長城編

 ― 私が見た万里の長城 ―

 私が初めて真近に見た「万里の長城」は、北京の北西にある「八達嶺」である。煉瓦造りの堅固な城壁の上につくられた階段状の道を登って行くと狼煙台があり、そこから眺めると、山の稜線に沿って蛇がくねるように、長城がどこまでも続いていた。決して大袈裟な表現ではなく、実に感動を覚える程の素晴らしい光景であった。

 先般の「中国・シルクロードの旅」では、敦煌郊外の玉門関近くにある「漢の長城」と、上記した武威〜張掖にかけて残っている「明と漢の時代の万里長城」を見た。

― 万里の長城の歴史 ―

 「万里の長城」は紀元前221年に中国統一を果たした「蓁の始皇帝」が造ったと教科書などには載っているが、始皇帝によって創建されたものでは無く、長城がはじめて建設されたのは紀元前5世紀前後にさかのぼる。
この頃、北方に住む遊牧騎馬民族が度々中国に侵入して来ており、それに備えるために各地の諸侯達が長城の建設を始めた。つまり、始皇帝の長城というのは、既に戦国期に、蓁、魏、趙、燕などが独自に築いていた幾つもの長城(土塁)を繋ぎ合わせ、これを修復し、更に延長したものなのである。
始皇帝のいた紀元前3世紀頃には匈奴による侵略に悩まされていたが、その後も北からの脅威は中国の長い歴史を通じて常に続いた。万里長城とは、農耕 民族である中国人が北からの脅威、つまりは、北方地域に住む遊牧民族の騎馬による侵略を防ぐために築いた、長い長い土の防塁なのだ。
 蓁・始皇帝時代の長城は、次の漢王朝によって更に延長されるなど、歴代の中国皇帝達によって、補強と改修が何度も繰り返されるが、7世紀の唐の時代には、戦略的な価値が低いとして長城に対する関心が一時的に薄れたこともあった。

 どこまでも延々と続く万里長城を見ていて思ったのは、「偉大ではあるが、時としてバカバカしいとすら思えるこの歴史的建造物は、一体全体どんな理由で造られ、また、歴史的に見て、実際にどんな意味や役割を果たしたのであろうか」ということだった。しかもその陰には、建設に狩り出された多くの農民達の血と汗と失われた命があり、また、何時攻めて来るかも分からない敵に備えて、故郷から遠く離れた辺境の地に配備された沢山の防人達がいたのだ。
そこで、以下に「万里長城」の歴史や造られた目的、その他、長城に関する全般的な知識について記すこととしたい。 

 ― 万里長城の総延長距離は約6千キロ ―

2012年5月7日月曜日


瀬高のセロリ

セロリといえば、あの国民的アイドルグループの曲にもなっているように、人によって好き嫌いが分かれる野菜の代表格。もともと、古代ローマやギリシャでは、強精剤や整腸剤としても利用されていたほど栄養豊富な野菜で、あの独特の香りが好みが分かれるところだ。食卓に絶対欠かせない食材かといわれると言葉に詰まるが、あったら普段の料理が何倍も美味しくなる。特にサラダや肉料理、煮込み料理にセロリが加わったときの美味しさといったら。
そんなセロリの日本三大生産地がある。長野県、静岡県。そして、福岡県瀬高町だ。どうして福岡県だけ瀬高町とつけるかというと、その生産量のほとんどが、瀬高町だから。しかも、瀬高町でセロリを作っている農家はわずか28軒で平均年齢は42歳と若い。日本中の農村地を悩ます高齢化や後継者不足をよそに、格段に若い顔ぶれといえるだろう。もちろん、瀬高にもベテランのセロリ農家は健在だが、その次の世代を担う若いファーマーたちへのバトンが順調に受け渡されている。この28軒の農家のみなさんが、九州一はもとより、西日本随一のセロリ生産を担っているのだ。ここでは、瀬高町で新しく誕生した、乾燥スープの素「セロリズッペン」の材料となる、福岡・瀬高町のセロリの話をしようと思う。

もともとセロリはレタスなどと同じく、暑さが苦手で涼しい気候を好む野菜。日本に初めて伝えられたのは、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際。加藤清正が持ち帰ったことから「キヨマサにんじん」などと呼ばれたりもしていた。そんなセロリがどうして、温暖な福岡の瀬高町で栽培されるようになったのか? これは、太平洋戦争終戦後に、米軍が佐世保に基地を設けたことと深い関係がある。日本国内に設けた基地とはいえ、食事は当然洋食。軍人さんやその家族たちが慣れ親しんだ洋食にセロリは欠かせない食材。だが当時、日本にセロリを本格的に栽培している地域はなく、その候補地として瀬高町に白羽の矢がたったのだ。

2012年5月6日日曜日


グレート・ジンバブエ遺跡

グレート・ジンバブエ遺跡

2012年5月4日金曜日


【通訳を探している話】

バンダジェフスキー博士の講演会の通訳を探しています。前にも伝えましたが、ロシア語通訳能力がまずかなり高くて、医療用語に通常以上に認識できる可能性のある方です。ご自身が、レベルもあり、情報精査も含めて、対応できる方は、至急、僕までメールしてください。仕事として依頼する話です。nagaikenji2007092/span>

同時通訳レベルの方なら、なお望ましいです。ある程度の日程は、仮に頼んでいますが、さらに、東京、京都の日程で探してます。また、その現地での講演会開催が、現在は未定ですが、東北や北海道エリアでもお願いする可能性があります。その地域在住の方で、可能性がある方はメール下さい。 

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【バンダジェフスキー講演会の申し込みについて】

現在の講演会日程で確定しているのは下記のとおりです。

3/11 沖縄・那覇 那覇市民会館

3/13  東京・世田谷区等々力  玉川区民会館   e+で2/21より販売開始

3/15  京都 ひとまち交流館

3/18  東京・恵比寿  日仏会館 専門家向けセミナー(終日)

 

バンダジェフスキー博士講演会&専門家セミナーの詳細は下記のとおり。

 

申し込み方法などは、リンクを参照して、注意事項を確認して行って下さい。

 

 

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放射能ガレキ焼却問題について

2012年5月2日水曜日


副島隆彦です。 昨日(26日)は私も、小沢一郎に対する東京地裁の無罪判決をテレビで見ていた。NHK以外は、ほとんど現場からの実況の報道をしなかった。日本のテレビ、新聞は、いよいよ腐りきっている。

それでも、まだ社会部(サツ回りを中心とする実社会の事件を追いかける)には、まともな判断力のある記者たちが残っているだろう。それに期待するしかない。

 小沢一郎への政治裁判、政治弾圧、裁判所・検察庁まで使った違法裁判への、かろうじての無罪の判断があって本当に良かった。 これで、まともな神経をしている小沢派の政治家(国会議員)たちを中心にして、それを支える私たち日本国民の努力が、少しは報われた。私も言論人の端(はし)くれとして、これまで3年間、ずっと、小沢無罪を� �張してたくさんのことを書いてきて嬉しく思う。
 
 
(転載貼り付け始め)

「 小沢被告に無罪判決 陸山会事件」

産経新聞 2012年4月26日 10:14  

 資金管理団体「陸山会」の土地購入をめぐる事件で、政治資金規正法違反(虚偽記載)罪で強制起訴された民主党元代表、小沢一郎被告(69)の判決公判が26日、東京地裁で開かれ、大善文男(だいぜんふみお)裁判長は無罪を言い渡した。求刑は禁錮3年。平成21年5月に導入された強制起訴制度による判決は2例目で、いずれも無罪となった。

 無罪判決が相次いだことで、検察審査会や強制起訴をめぐる議論に影響を与えそうだ。小沢被告は、元秘書らと共謀し、陸山会が平成16年10月に支払った土地取得費計約3億5200万円を、16年分ではなく17年分の政治資金収支報告書に支出として記載した、などとして強制起訴されていた。

 小沢被告は「検察が違法な捜査を行い、検察� ��査会を誘導した」と無罪を主張。(1)検審の起訴議決に基づく起訴の適法性(2)虚偽記載の有無(3)元秘書との共謀の有無-が争点となった。

 小沢被告に「収支報告書の内容を報告し、了承を得た」とする元秘書らの供述調書がほぼ唯一の直接証拠だったが、東京地裁は2月、取り調べに「利益誘導や圧力があった」として大部分を退けた。

 「 全面戦争で検察完敗…小沢氏に軍配 強制起訴は「適法」 」

産経新聞 2012年4月26日

 小沢一郎民主党元代表は初公判から一貫して、起訴議決を出した検察審査会ではなく、捜査を担った検察への批判を繰り広げた。「検察VS小沢氏」の構図となった法廷。裁判所は審理の末、今回の起訴議決に基づく強制起訴を「適法で有効」とし、強制起訴の効� ��に関して初めてとなる司法判断を提示。一方で、捜査を「謀略」と指弾した小沢氏側に軍配を上げて無罪とし、検察当局には衝撃が広がった。

 「今回の事件は民主党の政権交代が現実味を帯びた状況下で、小沢つぶしを画策した検察の謀略だ」 昨年10月6日の初公判の意見陳述。小沢氏は冒頭からこう切り出し、検察との対決姿勢を鮮明にした。

 小沢氏は政治資金収支報告書の処理には関与していないことを強調し、東京地検特捜部について「国民から何の負託も受けていない一捜査機関が、議会制民主政治を踏みにじった。憲政史の汚点として後世に残る」と強く非難した。

2012年5月1日火曜日


どうやら、上手くいけば、5月5日の全人類解放日(全世界が悪の支配者の逮捕を念じる日)から、1か月間の間に創造神の光が地上に降り注ぐことになるようです。

なんだか、ワクワクしますが、その時期に大きな出来事があちこちで起こることが予想されます。

2012年4月29日日曜日


>検索してみたらSD_VIDEOのPRLというところにあることがわかりました。
>新しいSDカードでどこに貼りつけたらいいかがわかりません
>(古いSDの表記と異なるのでよくわかりません)

では、PRLというフォルダに目的の動画が
全てはいってるということですね??

2012年4月28日土曜日


海江田 万里(かいえだ ばんり、1949年2月26日 - )は、日本の経済評論家、政治家、衆議院議員(5期)、衆議院財務金融委員長。

市民リーグ代表(初代)、民主党政策調査会長(第5代)、内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)、内閣府特命担当大臣(科学技術政策担当)、経済産業大臣(第14代)などを歴任した。

[編集] 生い立ち

東京都杉並区出身。

新聞記者だった父は中華人民共和国や台湾にいたことがあり、万里の名前は万里の長城に因むことから、自身も「中国とのかかわりは、生まれた時から」と語る[1]

また父は鹿児島県出身で、大学を卒業するまでの本籍は鹿児島県日置郡金峰町(現南さつま市)だったことから、「鹿児島は私の故郷」という[2]

東京都立鷺宮高等学校、慶應義塾大学法学部政治学科卒業。

[編集] 経済評論家として

慶大卒業後、タレント政治家であった野末陳平秘書を経て、自身もタレント、経済評論家として独立。テレビ、ラジオ、雑誌などで税金や経済情勢の解説者として幅広く活躍した。ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!に「海江田総理(当時の海部総理のパロディ)」として数秒出演したことがある。バブル経済で財テクブームが到来すると、一般向けの財テク指南書を多く出版した。また、1989年4月~1991年3月まで「TXNニュース THIS EVENING」の土曜メインキャスターを務めた。

[編集] 政治家として

1986年、第14回参議院議員通常選挙に税金党公認で東京都選挙区から出馬し、落選した。1993年、第40回衆議院議員総選挙に日本新党公認で旧東京都第1区から出馬し、初当選した。1994年9月に日本新党を離党。民主新党クラブを経て、1995年に山花貞夫ら日本社会党を離党したグループを糾合して市民リーグを結成し、代表委員(党首)に就任。翌1996年、村山富市の首相辞任に伴う首班指名選挙では、市民リーグを代表したが惨敗した。その後、新党さきがけを離党した菅直人や鳩山由紀夫らの主導による旧民主党結党に市民リーグとして合流する。1996年、第41回衆議院議員総選挙では東京都第1区から出馬し、小選挙区で落選(自由民主党の与謝野馨が当選)、比例東京ブロックで復活当選した。

1997年10月、金正日の北朝鮮国防委員会委員長推戴を記念する祝賀宴に参加した[3]

2000年第42回衆議院議員総選挙では東京1区で与謝野を破り当選した。同年、民主党東京都連会長に就任。同年12月には在日本朝鮮人総連合会の招請による民主党の訪朝団に参加し、北朝鮮を訪問した[4]

2002年には党政策調査会長に就任した。2003年、第43回衆議院議員総選挙では再度与謝野を破り当選した(与謝野も比例復活)。

2005年第44回衆議院議員総選挙に東京1区から民主党公認で出馬し、与謝野に敗れ落選。比例復活もできなかった。

2009年8月、第45回衆議院議員総選挙では東京1区から民主党公認で出馬し、与謝野を破り4年ぶりに当選した(与謝野も比例復活)。総選挙後、民主党選挙対策委員長代理に就任した。

2009年12月10日、小沢一郎を中心とした民主党議員143名、その他民主党支持者500名あまりが参加した小沢訪中団に参加。

2010年9月民主党代表選挙に一旦は出馬する意向を表明し、小沢一郎にも出馬の意向を伝えた。しかし、当の小沢が出馬の意向を示したため自身の出馬表明を撤回、代表選挙での小沢への投票を明言した。小沢は菅直人に敗れた。同年9月に発足した菅第1次改造内閣で内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)とともに内閣府特命担当大臣(科学技術政策担当)に就任し、初入閣した。また、国務大臣として宇宙開発担当[5]の補職を受けた。

2011年1月、菅第2次改造内閣では経済産業大臣に横滑りした。この内閣改造では小選挙区のライバルである与謝野馨も入閣した。与謝野の入閣に関し、海江田は「人生というものは不条理だ」と感想を述べた。2011年4月11日、国務大臣として原子力経済被害担当[6]の補職を受けた。

2012年4月26日木曜日


ピラミッド  ピラミッドパワー

                             

 世界の七不思議の一つに、"ピラミッド"があります。 世界文化遺産に登録され、多くの謎を秘めたピラミッド。エジプトや中米、南米だけでなく、日本など世界各地でも発見されています。古代文明の遺産といえるピラミッドの建造時期や目的、建造方法、機能などについては、諸説がありますが、まだ充分解明されていない現状です。
 科学が高度に進歩した今日に至っても未だに真相が解明尽くされていません。今日までの主流な説では、ピラミッドは王の墳墓で、建造目的は農閑期における公共事業説がほぼ定説となっているようでした。
 しかし、巨大で神秘的な建造物であるピラミッドには、何か人間智を超えた秘密が隠されている気がします。単なる"王様の墓"という雰囲気はありません。数トン もの石を数百万個積み重ねて造られた巨大ピラミッド。しかも宇宙的データが秘められた緻密な建造物。現代の最新技術でも数十年の年月と数千億円の費用と超高精密な宇宙工学を駆使しなければ建造出来ないと最近言われています。 当時の人たちがどういう方法で建造したのか、真の建造目的、使用目的もまだ推測の域を脱していないようです。
 ピラミッドとは、古代エジプト語の「昇る」という言葉に由来しているとされています。太陽を目指して上昇していく精神、その象徴がピラミッド。建造当時は、化粧石に覆われ、陽光に、月光に美しく光り輝いていたと言われています。ピラミッドは、大宇宙と人間とを結び、交流するための「精神の塔」「神との交流の場」であったのでしょうか。後世の人類へのメッセージ、モ� �ュメントとして建造されたのでしょうか。それとも地球や人類の"波動調整装置"として建造されたのでしょうか。
 いわゆる"ピラミッドパワー"と呼ばれている、脱水、防腐、活性化等の不思議な作用がなぜ生じているのか、不思議なことが数多く秘められています。
 今回、ピラミッドに関する数々の謎を探ってみたいと思います。

Ⅰ.ピラミッドの概要
《ピラミッドとは》

   ・ ピラミッド(Pyramid)とは、四角錐状の巨石建造物の総称。また、同様の形状の物体を指す。  --- フリー百科事典
   ・ 石や煉瓦で造られた四角錐形の建造物。古代エジプトでは王・王妃などの墳墓として前2,700~前2,500年頃を中心に建設され、81基が現存。エジプトの古王国時代の王の墳墓群は有名。 最大のものは、ギゼーにあるクフ王建造のもので、高さ146メートル、基底の一辺が約230メートル、その四稜は東西南北を指す。中南米の古代遺跡では神殿の基壇をなすものが多い。金字塔。--- 大辞泉事典
   ・  語源は三角形のパンを指す「ピラミス」ピラムス、ピューラミスとも)。古代エジプト語ではギザのピラミッドに「昇る」という意味の「メル(ミル、ムルとも。ヒエログリフでは△と書く)」という言葉を当てていた。
   ・ ピラミッドの語源は諸説あって確定できない。
   * 日の光が満ち溢れる神殿』
   * 超古代の日本語の"日来神宮"(ヒラミット)((比彌廣殿))が伝承により海外で使用され、変化した呼び名。

   ・ 世界文化遺産・・・・・・・ギザからダハシュールまでのピラミッド地帯 1979年登録。
  ・ メキシコ・中央アメリカにも約8,000基。
  ・ 南米、東南アジア、日本等各地にも存在。
   ⇒ アステカ文明の遺跡ティオティワカンの「太陽と月のピラミッド」、メキシコのマヤ文明のウシュマルのピラミッド、ジャワのボロブドール、バミューダの海底ピラミッド、日本では葦嶽山、位山、皆神山などがある。

《ピラミッドの形状》

  ① 階段ピラミッド   階段状の四角錐の形状のピラミッド。
  ② 屈折ピラミッド   途中から勾配を54度から45度に変更して造られたピラミッド。
  ③ 真正ピラミッド   勾配約43度、側面が二等辺三角形のピラミッド。
  * 自然の山を円錐状に加工。
※ 世界最大のピラミッドは、エジプトのギザに築かれた「ギザ」のピ ラミッド。スネフルの次のクフ王によって発見・世界中で有名になった。
 【特徴】
  ・ 正確に東西南北に面して建てられている。
  ・ 方位は東西方向でわずか約0.5度の誤差。四隅の角も90度03'02"~89度56'26"と4つの角はほぼ直角。
  ・ 底辺は各辺230m、高さ146.7(146.5)m(現在は137.28(137.5m))の正四角錐。 長さと高さの比は黄金比 1:1.6になっている。
  ・ 容積:約260万m3で、平均2.5 t の石材を約230~270万(300万)個積み上げたと計算される。
  ・ 地上60mの高さには、60トンの巨石が組み込まれている。
  ・ 西面が230.35m。北面が230.25m。東面が230.39 m。南面が230.45m。
  ・ 最長と最短の差はわずか約20センチ。誤差0.09%
  ・ 傾斜角は51度52分。誤差は、平均3アーク秒(1度の5%程度)。(傾斜角51度50分35秒)
  ・ 大岩は1個数千トンと推定されている。
  ・ 最頂部には一辺が3.5メーターで高さ2.2メートル、約20トンのクラウン(キャップストーン:冠石)が載せられている。
   ※ 現代建築の誤差は、1,000分の一。

  * 三大ピラミッド --- クフ王、カフラー王、メンカフラー王のピラミッドが有名。
  * 三大ピラミッド以外のピラミッドは、通常技術で建造可能。
  ・ カフラー王のピラミッドは建造当時143mで現在は136.4m。 底辺各210m、高さ143.5m、辺の角度52度20分。
  ・ メンカウラー王のピラミッドは最も小さく、66メートル。

Ⅱ.ピラミッドの起源   ( 2,006.4.12 UP )
  
 
・ 世界各地で発見されているピラミッドのうち、初期の建造年代は、約紀元前1万年~1万5千年前と判断される。
    根拠 ⇒ ① 地質学者の調査により、侵食の形跡等を解析した結果、紀元前約1万5千年前頃。
             (最後のナイル川の大氾濫:最後の氷河期)
         ② 三大ピラミッドの配置が、星の歳差運動を考慮してコンピューターでの計算結果、1万450年前のオリオン座の三つ星を正確に地上に配置したものと判明。
           ⇒  (三大ピラミッドとナイル川の配置が、オリオン座と天の川に一致)
         ③ 各種の神話、伝説が標記の説に一致。
  ∴ 信頼できる情報等総合判断すると、ギザの大ピラミッドとスフィンクスは
紀元前1万450年頃。(紀元前1万490年~1万390年に建造。)


    ※ 初期のピラミッド完成後、大転変地変で文明が壊滅、一部分の当時の文明がかろうじて伝承され、下記のような古代エジプト文明以降の道を辿っていった。(難破物語には巨大蛇神国が火山の爆発で沈没したとパピルスに記録されている。)
    ※ 初期ピラミッド後に建造されたピラミッドは、時代経過とともに貧弱なピラミッドとなる。
  ※  三大ピラミッド以外はすべて王権誇示の為に作られた疑似ピラミッド  

2012年4月25日水曜日


9 人中、9人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。

5つ星のうち 3.0 発明の歴史を知る一冊, 2006/9/18

レビュー対象商品: 誰が本当の発明者か (ブルーバックス) (新書)

本書は、発明にまつわる話を集めた本である。本書を読めば…

・ 国や時代によって、発明者が異なることがある

・ 発明は、多くの先行研究があって成り立つものである

・ 発明には、争いがつきものである

・ 発明者を一人(1グループ)に絞り込むのは難しい

…ということが分かるであろう。


どのような種類の木は、インドのクリスマスに飾られています

例えば、エジソンが発明したとされる白熱電球。白熱電球は日本では、エジソンが発明したというのが常識となっている。しかし、英国では白熱電球はスワンが発明したことになっているらしい。当然、白熱電球にも先行研究があった。それは英国のデービーが発明したアーク灯である。ちなみにデービーは、ナトリウム,カリウムなど8つの元素を発見したことでも有名。また、白熱電球の特許権に関連して裁判が起こっている。

上記のようなことは、白熱電球に限らず、多くの発明に関連して起こっているらしい。

2012年4月24日火曜日


 「ビジュアルタイムライン
    アメリカ・インディアンの歴史」

グレッグ・オブライエン著 阿部珠理訳 東洋書林

本書の特徴は、多角的に先住民を捉える総合的な視点と、その記述内容
のバランスの良さにあるだろう。アメリカ・インディアンに関する歴史書は、時と
して先住民を一方的な被害者として描いたり、中立を目指すあまりヨーロッパ
の植民地主義の加害性を充分に明らかにしない態度をとったりするものもあっ
た。本書は、ヨーロッパ社会とのコンタクトがもたらした先住民社会および文化
の変容の要因と過程を、できうる限り公正に記述するという姿勢に貫かれて
いる。

例えば、インディアン社会の衰退を考える際、その背景として伝染病や白人と
の戦い、ヨーロッパの市場経済に巻き込まれる過程で激化する部族間抗争、
諸部族間の伝統的な敵対関係を利用して植民勢力を拡大しようとするヨー� ��ッ
パ諸国と、彼らへの先住民部族の自主的な協力などがあげられる。ヨーロッパ
植民勢力の明白な先住民劣等視と彼らの際限ない強奪の一方で、それを容易
にした先住民社会の分断と分裂も明らかになる。そしてそれらが、地域によって
異なる先住民部族社会に共通する歴史であることが納得される。
(本書 訳者あとがき より引用)

 
「この大地、わが大地」
アメリカ・インディアンの抵抗史
J・コスター著 清水和久訳 三一書房

この本の原著は、米国のジャーナリスト、ジョン・コスター氏が日本人の読者
のために書いた約800枚のタイプ原稿である。(中略) この本の前半が、過去
の調査や研究に多くを負っていることはあきらかだが、事実の提出の仕方や
捉え方、組み合わせ方には独特のものがある。そして、いうまでもなく、圧巻
は後半である。いわさか冗漫で未整理な記述もあるとはいえ、コスター氏が
1960年代後半以降のインディアンの抵抗運動に共感しつつ、自分の目、耳、
足で現場で取材し、抵抗者と交流した他に得難い記録がここにある。1970年
代に入って、日本の読者にも、ディー・ブラウン「我が魂を聖地に埋めよ」(鈴木
主税訳 草思社)、藤永茂「アメリカ・インディアン悲史」などをはじ� �として、
いくつかのすぐれた書物が手に入るようになったが、最近10年間のインディア
ンのたたかいをこれほど詳しくまとめあげた本は、当の米国にも見当たらない
のではなかろうか。前に記したように、コスター氏には、この本にもしきりに登場
するロバート・バーネット氏との共著「ウンデッド・ニーへの道」があるが、氏は
過去6年間、インディアンの抵抗運動に強い関心をもって報道してきたジャーナ
リストで、氏の書く記事は北米新聞連盟のシンジケートを通じて、米国やカナダ
の読者の手に渡っている。訳者は「ニューズウィーク」誌や、インディアン自身
の新聞「アクウェサスニー・ノーツ」紙などで、氏の文章を読んだこともある。
「ウンデッド・ニーへの道」は74年6月の発売から 一年間に10万部以上売れ、
著者は、「シグマ・デルタ・カイ賞」を受けた。「報道部門における公衆への貢献
顕著」が受賞理由だったという。
(本書 訳者あとがき より引用)

 
「奪われた大陸」 
ロナルド・ライト著 香山千加子訳 植田覺監修 NTT出版 

原題が示すように、著者はコロンブス以後の500年間の歴史を、南北両
アメリカ大陸先住民の記録を通して問い直している。勝者の側から書かれた
従来の歴史は、コロンブスの「発見」を人類の輝かしい瞬間であったと教えて
きた。しかしアメリカ大陸の先住民にとっては、これが侵略の始まりであり、
今日まで続く長い抑圧の歴史の第一ページであった。1492年のアメリカ大陸は、
全世界の約五分の一の人口を擁していた。それらわずか数十年を経ずして、
海を渡って運び込まれた疫病と、異邦人による虐殺の犠牲となって、ほとんど
の先住アメリカ人が姿を消した。ヨーロッパからやってきた侵略者たちは、巨額
の富を手中にし、偉大な芸術を破壊し、大陸そのものを奪った。しかし先住民族
の� �べてが死に絶えたわけではなかったし、彼らの歴史が消滅したわけでもな
かった。著者ロナルド・ライトは、アテスカ、マヤ、インカ、チェロキー、イロコイの
五民族を取り上げ、先住民の言葉で語られた彼らの歴史を、我々読者の目の
前に展開している。アジアやアフリカの場合と異なり、アメリカ大陸には侵略者が
居すわり続け、今日に至っている。両大陸のほとんどの国々で中心を成している
人々は、ここに腰を据えたヨーロッパ人たちである。しかし、アンデスにはインカ
の言語を話す1200万人の人々が住んでいる。また、もしグアテマラが多数決制
を採用していたなら、マヤ共和国が成立していたであろう。現在ペルー政府を
悩ませている極左ゲリラ・センデロ・ルミノソの虐殺行為は、ピサロによ� ��
アタワルパ虐殺の物語の一部であり、1990年カナダのオカにおけるモホーク
の暴動は、かつてカナダがイロコイを裏切ったことに端を発している。15世紀
から1990年までの五民族の歴史を、多くの先住民の生の言葉をちりばめな
がら描き出している本書は、「勝者の語る歴史」にしか触れる機会のなかった
多くの読者に、驚きと新たな視点を与えてくれることと思う。
(本書 訳者あとがき より引用)

 
 
「古代社会 上下巻」 
L.H.モルガン著 青山道夫訳 岩波文庫

以上に述べた四種の事実は、野蛮状態から文明に至る人類進歩の行程に
沿うて平行して進展するものであり、本書における論究の主題を形成するもの
である。われわれが、アメリカ人として特別な義務のみならず特別な興味をも
有する研究の一領域がある。アメリカ大陸は物質的な富の豊富なことで有名
である。それはまた、未開の大時期を例証する人種学的、言語学的、考古学
的資料においても、あらゆる大陸において別々ではあるが斉一な経路をすす
み、人類のすべての部族および民族においてきわめて一様に、同一進歩の
状態にいたったのである。したがって、アメリカ・インディアン部族の歴史と経験
とは、それに対応する状態にあったわれわれ自身の遠い祖先の歴史と経験と
を、多少と もそれに近く示すことになるのである。彼らの制度、技術、発明およ
び実際的経験は人類の記録の一部を形成するものであり、インディアン人種
それ自身をはるかに超えた高度なそして特別な価値を有するのである。発見
された当時、アメリカ・インディアンの部族は三つの異なる人種的時代を示し
ていた。そして、その当時地球上において示されるどこよりもそれを完全に示
したのである。人種学、言語学および考古学の資料は比類なく豊富に提供さ
れた。しかしこれらの科学は、今世紀にいたるではほとんど存在せず、そして
現在のわれわれの間においても、その研究はわずかにしか行われていない
のである。のみならず、地中に埋没されている化石の遺物は、将来の学徒に
対しても現状を保つであろ� ��が、インディアンの技術、言語および制度の遺物
は、そうではないであろう。それらは、日々、消滅しつつあり、そして三世紀以
上もすでに消滅しつづけていたのである。インディアン部族の種族的生活は、
アメリカ文明の影響のもとに衰滅しつつあり、彼らの技術および言語は消滅
をたどり、彼らの制度は崩壊しつつある。もう数年もたつならば、現在容易に
集められる事実も、発見が不可能になるであろう。これらの事情は、アメリカ
人に対してこの大なる領域に入り、その豊富な収穫を蒐集すべきことを強く
訴えるのである。
1877年3月 ニュー・ヨーク州ローチェスターにて。
 (本書 「序言」 モルガン より抜粋引用)

 
「ゴースト・ダンス」 
アメリカ・インディアンの宗教運動と叛乱 
ジェイムズ・ムーニー著 荒井芳廣訳 紀伊国屋書店 

19世紀のアメリカ合衆国。白人たちの「フロンティア」は西へ進行し、先住民
たるインディアンのほとんどはいまや支配下におかれていた。旧来の生活様式
を失い、不公正な行政に苦しむ彼らのあいだに、このとき一つの宗教が生まれ
る。やがてメシアが到来して、死んだ祖先たちを甦らせこの世を楽園として再生
してくれる、その実現のためには、儀式をおこない全員で踊りつづけなければ
ならない −−− このような千年王国的な信念に支えられた宗教運動が、
「ゴースト・ダンス」である。この運動がどのように展開したか、白人とのあいだ
にどんな軋轢をうんだかを、著者ムーニーは細心の観察と綿密な取材調査に
もとづいていきいきと描き出していく。約一世紀前に書かれたものであ� �ながら、
その叙述は今日でいうエスノヒストリーの先駆であり、民族誌としての<古典>
と評価されている。さらに本書は、運動展開の過程で生じた出来事として、
インディアン史上きわめて重要なエピソードである「スー族の叛乱」や「ウンデッド
ニーの虐殺」にも詳細にふれ、インディアンに加えられた迫害をなまなましく伝える。
その意味では、現在のアメリカ文化というものがいかなるエスノサイド(民族破壊
)の上に成り立ったかの、同時代における貴重な証言でもある。
(本書より引用)

 
「コロンブスが来てから 先住民の歴史と未来」 
トーマス・R・バージャー著 藤永茂訳 朝日選書

コロンブスのアメリカ「発見」によって始まった、南北両アメリカの先住民に対す
る五百年の残虐の歴史は、まことにすさまじい。まさに「テリブル」である。この
コロンブスの影、ヨーロッパの白人たちの影は、黒々と今も南北のアメリカ大陸
をおおっている。しかし、本書を読むことで、あらためて白人に対する怒りをたし
かめ、白人をさげすみ、それによって一種のカタルシスを、快感を味わうつもり
ならば、その人は失望に終わるだろう。本書では、私たち日本人も「白人」の中
に組みこまれているからである(本書第六章、第十一章)。インディアンに対する
残虐行為の昔話は読みあきた、映画でも見あきた、と思う人もあろう。ちょっと
待っていただきたい。本書の第九章を、とにかく読んでいた だきたい。バルトロメ
・デ・ラス・カサスが四百五十年前に描述したインディアンの虐殺が、今、この私
たちの時代に、グアテマラの山中で進行中なのである。インディアンの苦境に
同情し、インディアンを愛し、彼らの「自然と一体」のミスティックな生活様式に
ほれこんだ人たちに対しても、本書は、苦い薬を用意しているかもしれない。この
著者は「先住民を愛し、いつくしめ」とは、ひと言も言わない。ただひたすらに
「わが身を糾(ただ)せ」と、私たちに迫るばかりである。動物愛護の先頭を切る
と自負する人たちは、まず第一〇章を開かれるとよい。この本は、過去につい
ての書物ではない。現在について、未来についての書物である。先住民につい
て語る以上に、私たちについて語ってい� ��。問題は、人権の問題である、と著者
トーマス・バージャーは言い切る。本書の「エピローグ」は、コロンブスの大陸
「発見」五百年を機に綴られた、最も美しく力強い文章の一つであろう。それは、
四百五十年前のラス・カサスの言葉「人類は一つである」に呼応する。トーマス・
バージャーは現代のラス・カサスである。
(本書 訳者あとがき より引用)

2012年4月22日日曜日


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2012年4月21日土曜日


文明社会への道を歩むホモ・サピエンス

ホモ・サピエンスはどのように文明社会への道を歩んでいったのか。番組では、世界的な古人類史の専門家の指導下、人類史上で重大な変化が生まれた瞬間を、大胆な演出でドラマ化した。

1. 定住の始まり(紀元前1万年)

移動民と定住民との出会いと交流を描く。犬の家畜化や穀物の備蓄、家族の概念の確立、私有財産の始まりなど、この時期、文明の基礎が築かれた。

2012年4月19日木曜日


 

 さてさて、近代的道徳哲学が前提とする人間像が揺らいできている〜。自覚できる心的経験に先立って、それを決定する無自覚的な過程が存在していて、私たちは自分自身の内的過程を推論するしかできない、しかもこの推論過程でさえ無自覚的である―としか解釈できないような実験結果が現れてきたからだ。つまり人間は思った以上には、自分自身を知らないのである。私たちの心の過程は、私たち自身に、実は隠されているのではないか??

「認知的不協和理論」

 まず社会心理学の分野から「認知的不協和理論」を紹介しよう。「1ドルの報酬」という実験があるのだが、被験者に1時間退屈な作業をさせた後、「次に来る人に、この作業は面白かったと伝えてくれ」と強制的に頼みます。そして作業の謝礼として、あるグループには1ドルを、別のグループには20ドルを渡した。最後に1時間の作業を評価してもらった。さて、1ドルの謝礼をもらった人と、20ドルの謝礼をもらった人のどちらが、作業を面白いと評価したでしょうか。答えは、なんと1ドルの謝礼をもらった人だったのである。

 20ドルの人は、退屈な仕事だったが、20ドルもらったので、報酬と退屈さが釣り合っている。だから素直に「面白くなかった」と評価したようだ。1ドルの人は報酬と退屈さが釣り合っていないという認知と、「面白かった」と別の人に伝えた認知の間に葛藤が生じる。そこで、この不協和を縮めるために、作業を「面白かった」と評価したと解釈できるわけだ。しかも、この心的過程は、本人にも隠された無自覚な心理的合理化なのである。

「情動二要因論」 

2012年4月17日火曜日


アン・ボニーの後半戦です

アンの恋人ラカムについてちょぴっと。
ジャック・ラカムは小型スループ船でもっぱら小型商船を狙っていく海賊でしたが、ラカムは「殺さず奪う」をモットーにしていた海賊で、2枚目なところと3枚目なところがある、割と人気のある海賊でした。
ところでスカルヘッドに2本のカトラスというジョリーロジャーは誰もが一度は目にしてるんではないでしょうか。イングランドイベント24章でもらえるグレートパイレーツ紋章です。「海賊旗」といえば誰もが思い描くのではないでしょうか。
これはラカムが愛用していた海賊旗です。キャリコ(白木綿)の装束を愛用したり、特別デザインのジョリーロジャーを掲げたりと、ジャック・ラカムは伊達男だったんですね。

まぁ最期はよっぱらってる所をあっさり拿捕されて処刑されたりするお茶目さんでしたが…

さて、アンはある時、拿捕した商船の乗組員の中に小柄な美少年を発見します。
見つけてしまったからには、即お持ち帰りです。
ショタなんですね。

ラカムはいいんでしょうかね?
なんでDOLの船だと名倉がすし詰めなのですかね?
マスターアンドコマンダーだって・・・
or2・・・

ところが、お持ち帰りの美少年を手篭めにしようとしましたが、その美少年は男装した女性でした。しかもアンより年上。
かわいい坊やが実はお姉さまだったわけですよ。

そのお姉さまは、後にアン・ボニーと最強コンビを組むカトラス使いのメアリ・リードでした。

メアリは貧しい家庭に生まれました。当時は女性で稼ぐといったら、自ずと方法は限られてくる時代です。メアリは男装をして軍隊に入ったり、雇われ船員になったりしていたわけです。
メアリーとアンはなにか通じるものがあったのか、すぐに大親友になりました。

1720年に、ラカムの失態が原因でラカム一味は逮捕されます。
アンはその後釈放されたという説がありますが、メアリーは1721年に牢獄の中で亡くなっています。
海賊なんてやっぱダメですね or2

〜大航海ぼに〜

特徴
・眼鏡っ子です
・拳銃よりは鈍器が好きです。ラブリュス(´∇`)ケッサク
・古代神聖ぼに語を時々話します
・突発的な行動をとります
・江戸っ子です

〜今日のぼにっき〜

・資金稼ぎでロンドン⇔ドーバーをしつこくやりました
 大航海始めたころを思い出してなんだか楽しくなりました
 (´Д` )イェイェイェァ

・今日の資産状況
 800K→1M→200K
 (´・ω:;.:...

・新しい職場で疲れていたのか
 それともここしばらくのデータ入力の仕事で目がいってたのか
 22:00頃には爆睡してまつた
 がんばって稼がねば・・・

・リンク3件
 鄭さん、よーかんさん、ゆきちゃ、ありがとーん

帆船の歴史でも語ろうかと思ったですよ。
で、仕事の帰りに本を1冊買って読んだですよ。

帆船の分類は、はっきり言って不可能

or2…

なんだか色んな国の分類が混ざっています。

諸説ありすぎます。

キャラックのスペインでの呼び名がナオとかでてきたですよ。
戦列艦はイングランド海軍の分類ですよ。
戦列艦よりでかいフリゲートがでてきたですよ。

まぁ手作りの世界じゃけん、いろいろあるものと…

(;´д`)ノ  今度の連休にでもじっくり取り組んでみるかのぅ

〜今日の名言〜

サンタ・マリア号遅ェよ!!
ピンタ煽るんじゃねぇよ!!
                 byコロンブス

キャラックは喫水が深く上り帆走が苦手だったそうな。カラベルのピンタ号・ニーニャ号の方がはるかに軽快だったとさ。
なもんでコロンブスはサンタ・マリア号が大嫌いだったそうで…

〜今日のぼにっき〜

大海戦参加しますた
1勝0敗ですた。
個人的には2隻撃沈しますた。レアルとアラガレです。

少ない・・・ or2

ポルトガルよ、攻めて来るならちゃんと攻めてきてちょうだいな〜〜

なんか列ができてました

列があると思わず並びたくなりませんか?

あたしゃー、実は人ごみが嫌いでして

まだ学生のころ、朝の新宿駅で乗り換えようとして

人ごみに巻き込まれて

遠くへ流されていって以来

人ごみは嫌いです

(ノ´)ヽ(   )ノヽ(ー`ヽ)ヽ(´ー`)ノ(ノ´ー`)ノ(ノ´ー)ノ

でも、とりあえず並んでみたりして・・・

〜今日のぼにっき〜

・大海戦2日目戦跡 1戦1勝0敗
 撃沈1(提督を砲撃クリティカル後、ラムで船尾から串刺し エッチィー♪…(*ノ∀ノ)イヤン )

戦争そのものよりも、戦争前に同じ艦隊のエアさんと帆船談義で盛り上がったほうが楽しかったりw

なんだか初期の大海戦のような華々しさがなくなってちょっぴり切ないですね。

でも、歴史的にも
海戦の初期といえば、雑多な船長たちがめいめい船を持ち寄って、作戦もなにもなく、てんでばらばらに戦っていましたが、トラファルガーの海戦あたりの常設海軍が一般的になってきた頃には
訓練されて統制された海軍が戦列を組んで(ほとんどの大砲が舷側についているために、横1列になって戦うほうが集中砲火を浴びせやすい)戦うようになった事情から、急速に海軍の組織化・分業化が行われるようになりました。
なので、いわゆる戦列艦(Ship-of-the-line.)は大規模会戦、砲門20-40のフリゲート艦は通商破壊や警備と、目的で船が分けられていったのですね。
まぁ、フリゲートやピンネースで戦列艦の砲列に突っ込もうというのが大いなる間違いで、今の海戦の様な分業も、まぁよいのではないでしょうか。
システム的に偵察や支援に回らざるを得ない戦列艦以外の船は、得るものがなくて切ないですが つД`)・゜・。・゜゜・*:.。..。.:*・゜

だから、こてこての軍人以外でも何かできるように、大海戦をもそっと長くして、その期間中は互いの商船(NPC含む)を襲っても悪名がつかないとか、むしろそこから戦功がたまるとか
相手の同盟港を経済以外の軍事的な方法で陥落させるようになるとか
いろいろできそうですよね。

ほかにも戦列艦などの大型艦艇の価格をもっと高くしてランニングコストももっとあげてもいいじゃないかなとも思います。フリゲートはランニングコストのよさというのが強さの一つなんですから。
実際第1等戦列艦(砲門90-100以上)なんて、1国に1隻あるかどうかのシロモノですしね。

光栄さん、期待してます。

・ふぃるるんから商用クリッパーもらいました
ありがとねー、大事にするおー
(〃▽〃)キャー♪

でもクリッパー、期待してたほど速くないですよね。
本来クリッパーは16〜20ノットの巡航ができる快速船ですが
なんかサムブやジベとかわらない気がします。
(´・ω・`)ショボーン
16-20ノットといえば、現行のコンテナ船くらいの速度ですね。
日清戦争の頃の日本や清の軍艦の中においても真ん中〜速いくらいの速度です。
帆船の究極進化形でこれだと、これ以上の速度はありえないのですかねぇ・・・

あと、有名どころで出ていない船といえば
快速で海賊船の代名詞ともいえるスループ(スキップジャックとも)船と、海軍の補助艦艇として活躍したコルベット(フリゲートより小さくスループより大きい10-20門装備の軍艦)くらいですかのぅ
コルベットはこの世界では出ても、もう誰も乗らないような中途半端な船になるかも・・・
スループはせめてものすごく速くて小回り利くようにしてくだちい
あ、バウスプリットはなが〜〜〜いの希望でw

大海戦、なにげに全部参加してますが
初記録が二つです。

?3日間で一度も撃沈されなかった
これは喜んでよいことなのでしょう…かね?
んー、まぁ3日目は戦ガレ2隻に絡まれたものの1隻は敗走させ(撃沈はできず! 残念)、もう1隻ともつれている間に戦闘終了なんてシーンがあったり
でも、あまり「撃沈されるかも」という焦りはぜんぜん無かったです。戦場を見る余裕が出てきたということでしょうか?
戦列艦とやりあう機会が(幸いにして)来なかったというのもありますかね。

2012年4月16日月曜日


どんな戦争でもそうですが、長い間続けていると兵士が勝手に武器を改造しはじめます。最初から物資がたりない反体制派ならなおのこと。その場にあるものを使えるよう、ものすごいレベルの切ったり貼ったりが日常的に行なわれています。現在、リビアで発生している紛争で利用されている色々なDIY兵器の画像です。


反体制派にとって、逃走した政府軍が残していった物資はとても貴重なもの。

基地にはこうした武器や弾丸、車両が丸々のこっています。

いっぱい発見。

カダフィの7番目の息子、カミス率いる精鋭部隊「カミス旅団」が使っていた最新鋭のライフル、FN社のF2000もゲット。

ロケット弾。

なにぶん古い物も多いので、まずはサビを落とします。

動けなくなった戦闘車両から装甲板をはぎ取る。

切ったり貼ったり溶接したり。

2012年4月14日土曜日



30年一括借り上げ(サブリース)ですね?

これには大きな落とし穴があります。
確かに30年一括借り上げしてはくれるのですが、保証する家賃額は当初10年間のみ固定で、その後は下がっていきます。
ので、実質的には10年間しか保証してくれません。(それ以降はレオパレスが提示する賃料(=更新のたびドンドン下がる)を飲まないと、サブリース契約は解除されます)

2012年4月12日木曜日


長城は遊牧騎馬民族の侵入に備えるという目的に対して充分役に立っています。

長城が最初に作られたのは、戦国時代で後に秦の始皇帝が一つの長城にまとめ上げています。その後は、主要部分の補修はなされたようですが、本格的な修築がなされ現在も残っているのは明の時代に作られたものです。

2012年4月11日水曜日


2012年4月10日火曜日


NY外為(午前):ドルが全面高-中国経済懸念で資金逃避
  3月20日(ブルームバーグ):20日午前のニューヨーク外国為替市場では、ドルがユーロに対し4営業日ぶりに反発。英豪系鉱山会社BHPビリトンが中国の鉄鋼生産の伸びが鈍化していると指摘したことで中国経済への懸念が広がり、比較的安全とされるドルの需要が高まった。

ドルは主要16通貨に対し全面高。世界的な株安も資金逃避の動きを強めた。

ドルの対ユーロ相場はニューヨーク時間午前6時18分(日本時間午後7時18分)現在、前日比0.3%高の1ユーロ=1.3196ドル。前日までの3営業日で1.6%下げていた。円に対しては0.5%上げ1ドル=83円78銭での取引。

原題:Dollar Rises 1st Time in Four Days Versus Euro on ChinaSlowdown(抜粋)
記事:ロンドン Lucy Meakin lmeakin2012/03/20 19:50 JST

  3月15日(ブルームバーグ):ニューヨーク外国為替市場では円が対ドルで11カ月ぶり安値から戻した。最近の円安は急速過ぎるとの見方から買いが入った。

ポンドは対ユーロで3日ぶりに下げた。格付け会社フィッチ・レーティングスが英国の格付け見通しを引き下げたことを嫌気した。ニュージーランド(NZ)ドルは上昇。同国の製造業活動が2010年以来の速いペースで拡大したことが背景。スイスの中央銀行が成長見通しを引き上げため、スイス・フランはユーロとドルに対して上昇した。

バンク・オブ・ニューヨーク・メロン(BNYメロン)のシニア為替ストラテジスト、マイケル・ウールフォーク氏(ニューヨーク在勤)は「日本が金融緩和により積極的で、米国はそれほど積極的ではないとの見方に傾き過ぎたかもしれず、それが対円でのドルの動きに影響した」と指摘。「ドル買いが頭打ちになり、ドルのロングを幾らか解消する動きが出た」と述べた。  

ニューヨーク時間午後4時3分現在、円は対ドルで0.3%上昇して1ドル=83円49銭。アジアの時間帯では84円18銭と、昨年4月以来の安値をつける場面もあった。対ドルで見た円の相対力指数(RSI、期間14日)は5日連続で30を下回っており、下落が行き過ぎ、ペースが急速過ぎたことを示唆している。円は対ユーロで0.1%安の1ユーロ=109円26銭。ユーロは対ドルで0.4%上げて1ユーロ=1.3088ドル。

2012年4月8日日曜日


ギリシア全土の存亡のかかったテルモピュライの戦い。レオニダス王以下スパルタ重装歩兵300人は、 総数200万とも伝えられるペルシア帝国軍の侵攻を7 日間にわたって阻止した後、全滅した。

スパルタ兵士の戦いかたは、ギリシャ方陣。

右手に長い槍を持って、左手に大きな盾を持ち、お互いに密集して方陣を組む。ギリシャ方陣では、 戦士は隣の兵士の持つ盾の中に身を隠す。兵士の盾は、自分自身を守るためのものではなく、 隣に立つ戦友を守るためのもの。

この戦法は、陣形が崩れなければ、威力が強いけれど、兵士がお互いを信用できなくなった瞬間に 陣形は崩れ、方陣もろとも潰されてしまう。

  • 200万の軍勢を前に全滅したスパルタ兵士は、どうやってギリシャ方陣を保ちつづけられたのか?
  • 自らの死を前にしたとき、人は戦友を守るために自らの盾を掲げられるものなのか?

テルモピュライの戦いを描いた小説、「炎の門」は、そんな勇気と恐怖をめぐる物語。 以下、引用多数ネタバレ上等で。

恐怖の対義語とは何か

「常に頭にとり付いて離れぬ問いがある。それは恐怖の対語とは何か、ということだ。」

決戦直前、スパルタのベテラン兵士ディエネケスは、こんなことを語り始める。

それを無恐怖だといっては意味がない。それは反命題の形で表された命題でしかない。 私が知りたいのは真の相対物なのだ。

文中、最悪の恐怖として常に名指しされるのは、死の恐怖。恐怖を克服する力、 「死にたくない」という、保身の願望よりも強い力となるのが「勇気」というもの。

スパルタ人は、死の恐怖をさらに大きな別の恐怖で埋め合わせている。すなわち、不名誉という 恐怖、群れから除外される恐怖だ。それは勇気であろうか?不名誉を恐れて何かをするのであれば、 それはすなわち恐怖から出た行動ではないのか?

英雄の勇気すらも完全ではない。彼らは不名誉を恐れて戦うのではなく、 栄誉を求めて戦う。それは立派なことであろう。しかし、それが真の勇気であろうか?

2012年4月7日土曜日


生情報である!
言論統制に走る当局・・・(実は、その上に企業権力がある?!)

「放射能」「除染」「抗癌」「原 発」の言辞はご法度だそうな?!
そして、
それに唯々諾々として従う業界も業界だ!!

 言論は死んだ。まるで戦時統制の情況だ。特に、原発戦争下に日本社会はある。

 「放射能」「除染」「抗癌」「原 発」の言辞に関する広告は、関連法規(例えば、薬事法等)で告発の脅しが、ふれ回っているそうな。だから、広告業界は戦々恐々としているらしい。


 いずれ、インターネット界に波及するかも知れない。そうすると、当ブログやつむじ風ねっとショップなどいの一番に狙われるだろう。放射能について、書きまくりだからだ。

 その時は、年貢の納め時だろうが、その時まではいささかも手を緩めない。

 それは、真実だからである。

 どちらが先にくたばるかである。

 もはや、戦争状態にあると書いたことがある。その通りになっている。家二郎(iejiro)さんも興奮気味に伝えてきた。まあ、そっちが法律で来るなら、法律で対抗するしかないが、面白い、徹底抗戦である。

2012年4月5日木曜日


投石器(とうせきき)は、片手で握れる程度の石を遠くへ投げるための紐状の道具。中沢厚によれば、非体制側の武器[1]

古くから羊飼が羊の群を誘導したり害獣を追い払ったりするのに使い、土地によってはその用途で現代まで使われている。鳥など小型の動物を対象とする猟にも使われた。また安価に作れて弓矢と同等以上の射程と十分な威力を持つことから、古代・中世には兵器としても使われ、現代でも暴動などの際に使われることがある。スリング投石具投石紐とも呼ばれる。

基本的に、中央の石を包むための幅広い部分と、その両端の振り回して速い回転速度を得るための細長いひも状の部分からなる。ひも状の部分の一方の端は投げる時に手から離れないようループになっているか、手に巻き付けられる様にやや長くなっている。材料は羊毛や麻の繊維を編んだものや皮革や布でできたものやなどがある。長さは二つ折りの状態で0.5mから1.5m程度。

また、90cm程の長さの棹の先に割れ目を付け、石を包み込める幅広い部分を有する紐の一端を棹に括りつけ、紐の括っていない方の端側に結び目を作って割れ目にひっかけ、紐に石をセットして、振りかぶって一振りで飛ばす投石器(スタッフ・スリング)もあり、射程距離は高速回転させて飛ばす通常のスリングより短くなるが、扱いは容易で前方に飛ばしやすく、両腕の力を込める事ができるのでより重く大きい弾丸や岩を飛ばすことができた。

2012年4月3日火曜日


英語でスーツとかジャケットなどと呼ばれるものが
なぜわが国でセビロと呼ばれるようになったのでしょうか
いくつかの説がありますが代表的なものを挙げてみます
あなたはどの説を支持されますか

2012年4月1日日曜日


シエラレオネの大西洋奴隷貿易

シエラレオネの大西洋奴隷貿易

英文題名: Atlantic Slave Trade in Sierra Leone

児島秀樹(Kojima Hideki)

1. はじめに

シエラレオネは解放奴隷による植民が行われた国として有名である。その首都フリータウンはまさに解放奴隷が暮らすために創設された。しかし、奴隷貿易廃止後も、シエラレオネでは奴隷貿易が行われていた。解放奴隷によるシエラレオネ植民が始まっても、奴隷貿易も行われていたという点で、シエラレオネは特異な歴史をもっている。

シエラレオネは上ギニア(Upper Guinea)の一部として扱われることが多い。上ギニアはガンビア河口からマウント岬までの地域である。(1)西欧人が西アフリカに進出してきた頃には、シエラレオネの北側に位置するセネガンビアには中央集権国家が存在し、その南側のギニア海岸地方もヨルバ人を初めとした有力な部族によって統治されていた。それに対して、シエラレオネ地方は数カ村程度にまとまった小部族の連合体にすぎなかった。

大航海時代の先駆をなしたエンリケ航海王子が死亡した年、1460年に、ポルトガルの西アフリカ遠征はシエラレオネまで到達していた。イギリスも遅くとも1562年にはシエラレオネに到達し、ジョン・ホーキンズが軍事的援助と引き換えに、シエラレオネの王たちから多数の捕虜・奴隷を獲得した。(2)

エルティスたちが編集したCD−ROMデータを利用すると、シエラレオネ(ヌネス川からマウント岬)から積み出された奴隷の数がアフリカ全体に占める位置づけは表1のようになる。

      表1: シエラレオネの奴隷輸出の割合

出典: D. Eltis, S.D. Behrendt, D. Richardson and H.S. Klein (eds.), The Trans−Atlantic Slave Trade: A Database on CD−ROM, Cambridge, (1999).

エルティスたちのデータを見る限りでは、シエラレオネからの奴隷の積み出しは、1760〜1810年(1777〜83年のアメリカ独立戦争時代を除く)が一つのピークをなして、その後も、1820−26年、1829−30年、1833−40年に1000〜4000人をこえる、間欠的な山が続いている。シエラレオネからの奴隷が入港した港は、18世紀には、サント・ドミンゴ、ジャマイカ、グレナダ、カロライナで60%をこえていたのに対して、19世紀には、確認できるアメリカの地域としては、キューバが25.6%を占め、ギアナとカロライナが10%弱で続いた。

2. シエラレオネの現在と過去

シエラレオネの輸出品は西欧諸国と接触することで、象牙や染料木などの特産品から始まった。18世紀に奴隷の輸出に重点が移されたが、19世紀には、プランテーションで産出されたコーヒー、カカオなどの農産物の輸出が重要となった。しかし、農産物は、現在では、輸出品の10%程度にすぎなくなり、チタンの原料鉱である金紅石の他、ダイヤモンドやボーキサイトなど、鉱石の輸出が総輸出の70%以上を占めている。ダイヤモンドをめぐる戦乱も経験し、シエラレオネ共和国の乳児死亡率が世界で1位であるのは有名である。(3)

シエラレオネは現在、英語を公用語とし、クリオ語、メンデ語、テムネ語なども話されている多民族国家である。クリオ語はフリータウンを中心に20万人の話者がいて、第2、第3言語として使用する人々は30万人をこえると言われている。(4)宗教的には、シエラレオネ人口の半数ほどがアニミズム的な伝統的慣習を守り、3分の1ほどがイスラム教を奉じ、キリスト教信者が残りを占めている。

テムネ人とメンデ人が、現在、シエラレオネ共和国の人口の3割程度をかかえている。テムネ人は15世紀にシエラレオネ北部に移住してきた。メンデ人は米を主食とし、16世紀半ばに南部に移住してきた。この二つの種族によって、シエラレオネは国が二分されている。

15・16世紀に、ポルトガル人はシエラレオネの海岸地方に住む人々をサペ(Sape)とよび、内陸部のメイン(Mane)と区別した。(5)このメインが16世紀半ばにシエラレオネ南部に移住してきたメンデ人であり、彼らは海岸地方に進出した。この侵入、すなわちメイン戦争によって、多くの捕虜がポルトガル商人に奴隷として売られ、メイン戦争がこの時期の奴隷供給源となった。その後、ポルトガルはコンゴ、アンゴラを中心に奴隷を求めていたが、17世紀末には、ブラジルの需要をまかなえなくて、上ギニアからも再び奴隷を輸出するようになった。しかし、18世紀に入ると、実際には、ポルトガル船よりも英仏の船舶のほうが多く奴隷を獲得したようである。上ギニア地方でのフランスの奴隷貿易は� �8世紀前半、特に1736〜44年が最盛期であり、ナントの船舶の3割が上ギニアに向かった。その後、ヨーロッパ内での戦争でフランスが後退すると、18世紀後半にはイギリスが介入することとなった。(6)

その他にシエラレオネには、西欧人が渡来する以前からこの地域に定住していたリンバ人(現在、30万人以上で、人口の10%弱)、15世紀にテムネ人と同様に、沿岸地域にやってきたシェルブロ人(現在、13.5万人ほどで、人口の3%強)などの、伝統的な社会を形成している人たちもいる。その他に、スス(約12万人)やヤルンカ、ヴァイ、ブロム、キッシなどの少数部族がシエラレオネで暮らしている。

メンデ人はマンデ語系の種族である。マンデ、あるいは、マンディンゴとよばれる人々はマリを中心におおよそセネガルからコートジボアールまで広く居住している。スス、ヤルンカ、ヴァイもマンデ系である。10世紀のガーナ王国はマンデ系のソニンケ人が形成したものであり、1324年に黄金を携えてメッカ巡礼の旅に出た、第9代のマンサ・ムーサ王の話で有名なマリ王国もマンデ系である。(7)

シエラレオネの多くの種族は、米の他に、キャッサバ、モロコシ、ミレット、綿花、インディゴ、サツマイモなどを栽培していた。シエラレオネの住民は米や綿花の栽培技術を持っていたので、北アメリカのプランターはシエラレオネ出身の奴隷を高く評価できた。

大多数の土着の人々はフリータウンのエリート層と異なり、結社を基軸とする伝統的な社会を構成している。(8)アフリカ大陸の北部と南部を除き、西アフリカから東アフリカにかけての28カ国で広くみられる女子割礼の慣習は、シエラレオネでは、成人になるための通過儀礼として、女性用のボンド結社によって遂行されている。ただし、18世紀のマシューズの報告によると、シエラレオネにおける女子割礼はスス人とマンディンゴ人だけが行ったものにすぎない。(9)

クリオは解放奴隷の末裔である。彼らは、1787年に建設されたフリータウンを中心に生活し、実業家、官僚、教師などのエリート階層を形成している。クリオは1839年からナイジェリア南部などへも植民を開始した。クリオ人エリートは、ヨーロッパがアフリカで福音伝道を開始して、英国流の教育を受け入れた最初の人たちであると言われる。(10)

解放奴隷が定住していたにもかかわらず、18世紀末頃から1896年まで、シエラレオネでは奴隷を獲得するための戦争・襲撃が繰り返された。1808年、フリータウンはイギリスの直轄植民地となり、奴隷貿易取締のために、英国海軍の基地が設けられた。英国海軍によって、大西洋上で捕獲された奴隷貿易船の奴隷はフリータウンで解放された。フリータウン直轄植民地以外のシエラレオネ各地は、1896年にイギリスの保護領とされたが、1961年4月27日に、イギリス連邦に加わる形で、シエラレオネは独立国となった。

奴隷貿易の時代、アフリカの人口の約3分の1が子供であったと推測されている。1800年以前に、奴隷として大西洋を渡ったアフリカ人の中で、子供は20%より少なかった。それに対して、子供が多かったので有名なのがシエラレオネで、シエラレオネからの奴隷の35%ほどが子供であった。ところが、19世紀に入ると、1811〜67年に大西洋奴隷貿易で扱われた奴隷の41%が子供となった。中でも、ザイール川北部からの奴隷は52%以上が子供であり、アンゴラの奴隷は59%、東南部アフリカの奴隷は61%が子供であった。19世紀には「大西洋奴隷貿易は子供の貿易になった」とさえ言われる。(11)

シエラレオネは解放奴隷の定住地となるとともに、奴隷輸出がそれほど減少しなかった地域でもあった。ここではその疑問に直接に答えるのではなく、奴隷輸出がなくならないほどに、シエラレオネで展開していた奴隷制がどのようなものであったのかを調べてみよう。アメリカの先住民と黒人を比較すると、奴隷制それ自体や農業技術へのなじみの点で、黒人のほうが奴隷として適格であったと思われる。

3. 西アフリカの家内奴隷制

シエラレオネの奴隷に関しては、ロドニーが論争を提起している。アフリカには昔から奴隷制が存在したのか、それとも、大西洋奴隷貿易に関連した制度であるのか。ロドニーはシエラレオネ地方の奴隷制は、そして、おそらくサハラ以南のアフリカの家内奴隷制は大西洋奴隷貿易以前には存在しなかったか、存在しても、その人口の割合からすると重要なものではなかったと主張した。大西洋奴隷貿易とともに、その重要度が増して、規模も拡大したにすぎないと。ロドニーは「家内奴隷制」(domestic slavery)という表現で表されているものは奴隷制ではないと考える。その「奴隷」たちは主人の世帯の一員であり、重罪を犯さないと売買されないし、自分用の土地も持っているし、その成果に対する権利も持っ� ��いる。彼らは結婚もできたし、子供には相続権もあった。ロドニーにとっては、このような属性は奴隷にあたらない。(12)

ロドニー説を確認することも、否定することも、二重の意味で困難である。アフリカの他の地域と同様、シエラレオネの歴史は、シエラレオネの住民が文書を残していないため、ムスリムの文献や口頭伝承の他は、たいてい西欧各国に残る史料で確認することになる。西欧は西アフリカ各地と接触するとほぼ同時に、大西洋奴隷貿易を開始しているので、それ以前の歴史の多くは推測するしかない。それだけでなく、西欧の文献を信用したとしても、19世紀に植民地の官僚として在住したヨーロッパ人の目にさえ、奴隷と主人の区別がつかないときがあったほど、奴隷とそれ以外の人の境界線がヨーロッパの基準からは曖昧であったので、西欧の文献に奴隷の記述がなくても、15世紀より前に奴隷が存在していた可能性は高い。

第二に、奴隷と主人の区別にも関係するが、奴隷制の定義によって、大西洋奴隷貿易以前に、奴隷制が存在したとも、しなかったとも言える。ここでは、単純に基本的には、人身売買の対象となった人たちを奴隷と理解しておく。しかし、人身売買されると、それはすべて奴隷であろうか。ほとんど人身売買と同じように金銭取引され、蔑視と差別の対象とされた、『女工哀史』の女工たちや、金品の授受が当然視された婚姻制度における女性は、奴隷とは言わないのであろうか。確かに、債務の弁済や婚資の授受は「売買」とは異なる。売買自体にさまざまな形式が区別されるので、厳密にみると、人身売買を奴隷化の判断基準とするわけにはいかない。同様に、奴隷解放されるためには、身請けされる必要があるが、「身請け」でし� ��解放されない人たちは、すべて奴隷なのであろうか。

2012年3月30日金曜日


 半島有事・ラスト7巻目。てっきり来週末だろうと思っていたら、昨日、首都圏での入手のご報告を頂戴しました。なので全国的には、月曜発売になろうかと思います。
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※ 野田首相が原発事故「収束」宣言 記者から「違和感」指摘する声

 原発反対な皆様は、「収束」というフレーズに反応しているようですが、地元的にも、それが不愉快な表現であることは解る。政府として年内収束に執着したことも明かだろうし。ただ、冷やし続ければ、いつかは科学的な意味合いで冷温停止することは明かなわけで、やっとその状況に至ったというだけのお話でしょう。
 あんた見たんかい!? な批判があるのも多少は致し方無いとは思いますけどね。あの壊れっぷりだと、それを言われるのも仕方無い。

※ 米国:イラン制裁法成立へ 各国経済に打撃も

2012年3月28日水曜日


古代エジプトに関するQ & A (1)

質問1. ローマ人は牛肉を食べなかったそうですが、古代エジプト人は牛肉を食べたのですか? 食べなかったのですか? (福元)

ギーザのピラミッド近くで発見された労働者村からはたくさんの屠殺された牛の骨が見つかっていますから、労働者たちは牛肉を食べたと思われます。また祭礼時に神々に捧げられた牛肉も、あとで神官達や町の人々に配分されて、食べられましたね。(西村)

質問2. ナルメル王のパレットで首を切断された死体が並んでいますが、ギロチンのない当時は何で首を切断したのですか? (福元)

1996年にヒエラコンポリスの北にあるアダイーマで、ナカダ2期に年代付けられる埋葬から、喉を切られた後、頭を切り落とされた殉死者の例が二つ見つかっています。喉を切るのはフリント製のナイフででもできると思いますが、フリント製のナイフで頭も切り落とせるのかどうかわかりません。他方、ナカダ2期から銅製の斧やナイフの製造が盛んになりますので、銅製のナイフで喉を切った後、銅製の斧で頭を切り落としたのかもしれません。ナルメル王の後継者アハ王の銅製の斧はすでに二つ見つかっていますので、ナルメル王が銅製の斧で捕虜達の首を切り落とした可能性は十分にありますね。(西村)

質問3. 中東では邪視をはねかえすための眼の形をした護符をよく見かけますが、古代エジプトの眼にもそのような力がありますか? (泉)

邪視とは嫉妬や憎悪のまなざしによって災いがもたらされるという民間信仰のことですね。古代エジプトには二種類の眼があって、一つはホルスの眼、ウジャトです。これはセト神によって潰されたホルス神の左眼をトート神が魔力で復元したことから、病気治癒の力があるとされています。またこの眼はオシリス神の復活に必要不可欠であることから、ミイラの護符としてもよく使われます。もう一つはラーの眼で、ハトホル女神あるいはセクメト女神と同一視されています。これはラー神に背いた人類を滅ぼすためにラー神によって地上に送られた殺戮の女神で、彼女を人間の血に見立てたワイン(人類滅亡の神話ではレッド・オーカーを混ぜたビール)で宥めることによって彼女の破壊力は守護する力に変えられたとされてい ます。一般に図像でよく見かけるのはホルスの眼ですが、邪視を防ぐために使われたかどうかは不明です。(西村) 

質問4. 私達は羊と言えば角が側頭部で渦を巻いているものをすぐに思い浮かべますが、古代エジプトの羊は角が渦を巻いていませんね。品種が違うのでしょうか? (北村)

現代の家畜の羊は品種改良がくり返されて生まれたもので、古代から現代までどのような系統樹になっているのかは、私にはよくわかりません。古代エジプトの羊は水平にねじれながら伸びた角を持ちます。学名をOvis aries longipesといい、紀元前五千年頃から飼育されました。角以外の特徴は、垂れ耳で、毛が長く、毛の色は白・茶・白と黒のまだらなどです。中王国第12王朝になると、学名をOvis aries platyuraという別の種類の羊が輸入されました。通常「アメンの羊」と呼ばれます。この種類の羊はまず後方へ大きく彎曲し、それから前方へ伸びる角を持ち、羊毛を取ることができました。後者は現代のエジプトでも飼育されています。古代エジプトでの羊の利用法は、その乳を飲んだり、肉を食べたり、農作業で種を踏ませたりすることでした。(西村)

質問5. 故人の名前にはマア・ケルウ「声正しき者」という賛辞が付けられますが、どうして遺族に故人が死後オシリスの裁判で勝ったかどうかがわかるのですか? (福元)

それは亡くなってから遺族が埋葬の準備をするのではなく、故人が生前に代金を払ってお墓や棺、供養碑などを作らせるからですね。故人は、職人に注文を出す時に、決まり文句の供養文の他に書いてもらいたいことを言っておくのです。あまりたくさんの代金を払えない人は、名前の部分が空欄になっている既製品を購入し、自分の名前を入れてもらいます。古代エジプト人は経済的に余裕ができればすぐに死後の準備を始めましたが、死後の準備が整わないうちに死んでしまう人も多かったようですよ。(西村)

質問6. 供物として捧げられる鳥とは鶏ですか? (芝田)

ガン、カモ、ガチョウなどの水鳥ですね。鶏はプトレマイオス時代になるまで一般的な家禽ではありませんでした。トトメス3世の年代記には王が西アジアから持ち帰った珍しいものとして鶏の記述が見られますが、鶏がいつどのようにしてエジプトに輸入されたかについてはまだ議論されています。(西村)

質問7. 上・下エジプトの統一を象徴するセマ・タウィで表される植物はパピルスともう一つは何ですか? (藤永)

一般に「南のユリ」と呼ばれていますが、もちろんユリではありません。パピルスが下エジプトを象徴する植物であり、ロータス(睡蓮)が上エジプトを象徴する植物なので、ロータスかもしれません。しかし、すでに様式化されているので、どの植物かは不明です。(西村)

質問8. ホルスとセトの神話で、セトがホルスに対して性行為を行おうとする場面がありますが、古代エジプトでは神様の性別は一定ではなかったのですか? (加藤)

ホルスもセトも男神です。セトが性行為によってホルスより優位に立とうとしたのですね。セトは荒々しい力の権化であり、性欲もそのような力の一つと考えられているのです。(西村)

質問9. テレビの通販番組で、ザクロは古代エジプトで医療用として使われていたと言っていましたが、本当ですか? (加藤)

医学パピルスのエーベルス・パピルスによれば、ザクロは虫下しや胃薬として利用されていました。虫下しの治療法としてザクロの根を水に浸し、一晩置いたものを服用するとあります。ザクロの根にはタンニンが含まれているので、虫下しに効果があるのですね。また胃薬としては、ビールにつけておいたザクロの根をたたきつぶし、水瓶の中で一晩置いたものを布で漉し、飲用するとあります。古代エジプトでは牛肉や豚肉から寄生虫が人体に侵入することが多く、若死の原因になっていたようです。(西村)

質問10. あるテレビ番組で、古代エジプトの王妃は絹の衣装を着ていたと言っていたのですが、古代エジプトでは絹織物を作っていたのですか? それとも交易で入手したものを着ていたのですか? (加藤)

絹糸を吐き出すかいこが中国からヨーロッパに伝わったのは、ユスティニアヌス帝の時代、つまり6世紀のことなので、古代エジプトでは絹は作られませんでした。古代エジプトの亜麻布には基本的に4つのランクがあり、最高級のものはロイヤル・リネンと呼ばれていたそうです。私人墓の供物リストや神殿への寄進リストからはもっと多くの種類が知られていますが、テレビ番組ではおそらくこのロイヤル・リネンを絹と言っていたのだと思います。(西村)

質問11. ナイル川の恩恵を受け、人々が生活する土地は「黒い土地」(ケメト)、ナイル川の恩恵が届かなく、死者の領域と考えられていた土地は「赤い土地」(デシェレト)と言われますが、古代エジプト人は「黒」・「赤」に対してどのようなイメージを持っていたのでしょうか? (加藤)

黒はナイル河がもたらした肥沃な土の色であるだけではなく、冥界の色でもありました。したがって壁画で冥界の領域に属する者たちは黒く塗られます。オシリス神の肌の色が黒く塗られるのは、彼が豊穣の神であると同時に冥界の支配者でもあるからです。死者を冥界に導くアヌビス神も常に黒く塗られます。死後テーベ西岸の守護女神となったアフメス・ネフェルタリ王妃も肌の色を黒く塗られます。ツタンカーメン王の彫像の中には黒く塗られているものが何体かありますが、これは彼が来世で再生復活することを願って、オシリス神のように黒く塗られているのです。しかし、ときどきアメン神やミン神が黒く塗られるのは、彼らが豊饒の神だからです。豊饒と冥界が同じ色で表されるというのは、一見奇妙な感じを受� �ますが、あながち無関係とは言えないと思います。というのは、死者は冥界を通過して再生するのであり、豊饒は新しい生命を生みだすからです。だから古代エジプト人は黒に対して大変良いイメージを持っていたと言えます。

赤はセト神の色です。外国人はセト神の領域に住む人々なので、壁画に描かれた外国人はしばしば髪の毛を赤く塗られました。神に捧げられる動物も赤毛の牛が選ばれます。赤毛の牛の屠殺はセト神の殺害を意味しました。デンデラのハトホル神殿には赤毛のロバがセト神として屠殺される場面を表すレリーフがあります。赤はまた死・危険・血も表します。夕焼けは太陽神の敵たち(冥界で太陽神の航行を妨げようとする魔物たち)が流した血で空が染まるから起こると考えられました。ワインは神の敵たちの血として捧げられました。埋葬の際に赤い壷を割ることは、オシリス神の敵を殺すことを意味します。宗教テクストで書名や章の題名は赤インクで書かれますが、書名や題名に含まれる王名、神名、死者の名前だけは危険 防止のために黒く書かれます。反対に文中に現れる危険な魔物の名前は赤く書かれます。しかし、赤が守護力を意味する場合もあります。イシス女神の帯留めを象った紅玉髄製の護符は、ホルス神を身ごもったイシス女神をセト神から守ったので、ジェド柱とともに併用されて、死者の生命の安全を保証します。また赤色っぽい珪岩や花崗岩は太陽の再生力を表すと考えられました。その他激怒や炎も表します。赤はつねに悪い意味とは限らないのですね。(西村)

質問12. アビュドスのオーパーツはどのようにして生まれたのですか? (岡沢)

2012年3月27日火曜日


ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

アグスティン・サイス著の「ドイツ軍装備大図鑑」を読破しました。

いやいや、なんですかね、この本・・。
偶然、ネットで見つけた去年の11月に原書房から出た大型本ですが、
318ページで定価はなんと、9450円!
先日も大きな本屋さんの軍事モノのコーナーに行って来たばかりですが、
こんなのは売っていなかったと思います。
しかし、値段が値段ですし、内容もイマイチ不明なことから図書館で調べてみると・・、
ありました。しかも「在架」・・。ニヤニヤしながら早速、図書館へ・・。
そして手に取ってみると、この大型本はオールカラーで当時の現物の写真集であるという
通常は洋書でしかありえない、スゴイ代物であることが判明しました。

原著は2008年、スペイン人のコレクターによるもので、「プロローグ」では、
「軍隊暮らしにおける所持品やその使い方を図版で生き生きと観察することで、
戦闘員の姿を身近に理解してもらうことにある」と執筆の目的を語ります。
ただ、出だしの「1930年までベルリン士官学校の校長を務めたクラウゼヴィッツ・・」には、
かなりビックリしましたが・・、でも以降は気になる誤字はありませんでした。

続く「序章」ではナチ党員の有名な丸い赤白のバッジのカラー写真と共に、
逆三角形の青ベースの「ナチ党婦人部のスカーフ用バッジ」が載っていました。
これは初めて見ましたが、「母親十字章」もそうですが、ドイツの伝統、またはナチ党に、
女性ものには「青」を使うというなんらかの理由があるんでしょうか??

本文は「鉄ヘルメット」からです。
第1次大戦までの、美しく様式化された「スパイク付きヘルメット」が1916年に近代的なものとなり、
1918年にはさらに進化(M1918)、それをベースにナチス・ドイツのM35ヘルメットが・・ということも
最初に紹介され、M40、M42と3つのモデルを写真で比較しながら、
戦局悪化とともに素材も工程も仕上げも、徐々に粗雑になっていく様子が、目で理解できます。
「がんこなハマーシュタイン」で ハマーシュタインがかぶっていたのが
「M1918」モデルだったんですねぇ。
この「鉄ヘルメット」だけで12ページ・・。これでもか・・という徹底ぶりで驚きました。

2012年3月25日日曜日


1 五十音図カ行の第1音。軟口蓋の無声破裂子音[k]と母音[a]とから成る音節。[ka] 2 平仮名「か」は「加」...
か【化】
[名]影響を他に及ぼすこと。「恵を施し、道を正しくせば、その―遠く流れん事を知らざるなり」〈徒然・一七一〉 [接尾...
か【戈】
古代中国で使われた武器。ほこ。
か【火】
1 火曜日。 2 五行(ごぎょう)の第二位。方位では南、季節では夏、五星では火星、十干では丙(ひのえ)・丁(ひのと...
か【可】
1 良い悪いの二段階評価で合格を示す。「栄養―」 2 《「可能」の略》よいとして許すこと。「分売も―」 3 成績な...
か【価】
1 化学で、元素・基の原子価、イオンの電荷の価数や、アルコールに含まれる水酸基の数を表す。「二―の基」「多―アルコ...
か【佳】
[名・形動]よいこと。すぐれていること。美しいこと。また、そのさま。「味すこぶる―なり」「夕方の景色もまた―である」
か【果】
[名] 1 《(梵)phalaの訳》仏語。 ①原因から生じた結果。⇔因。 ②過去の行為から生じた結果。報い。⇔因。...
か【科】
1 物事を区分した、その一つ。学問・教育の場で系統別に分類したもの。「英文―の学生」 2 生物分類学上の基本階級の...
か【香】
1 かおり。におい。現代では、良いにおいをさすことが多い。「磯の―」「湯の―漂う温泉街」 2 美しい色つや。光沢。...
か【夏】
殷(いん)以前にあった中国最古の王朝。始祖は禹(う)。紀元前15世紀ごろの桀(けつ)王が暴政を行ったため、殷の湯(...

2012年3月23日金曜日


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3 論理ピラミッドを構築して活用する
 3.1 論理ピラミッドによる論理構築とは
  3.1.1 論理ピラミッドの作成には2 つのアプローチ
   トップダウン・アプローチ
   ボトムアップ・アプローチ
  3.1.2 メッセージは論理的に正しく,簡潔で,具体的に
  3.1.3 論理的なつながりを言葉で確認する
   論理結合に対応する言葉
   シングル・チェーン・ロジックには注意しよう
   同一論拠を2 か所以上で使用するには
 3.2 論理ピラミッドを活用してみよう
  3.2.1 説得力のあるプレゼンテーション・シートを作成する
  3.2.2 価値ある議論を生産的に進める
  3.2.3 ロジカルな報告書・論文を書く
  3.2.4 短時間でエッセンスを伝える
  3.2.5 進むべき基本戦略方向を見極める
 3.3 本章のまとめ

「第4章 論理ツリーに展開して活用する」に進む

第3章 論理ピラミッドを構築して活用する


本章からは論理思考の応用に入ることになる.論理思考の応用分野は「第 2 章 問題解決の主役はロジカル・シンキングである」の中でも若干触れたが, 広くは問題解決を中心に課題設定,課題遂行,戦略立案,提案・プレゼンテー ション,交渉,議論,論文・レポート・文書作成等様々である.図 3.1 にそのイメージを描いて載せたので参考にしていただきたい.

「+創造思考」などと記載されているのは「論理思考」だけでなく他の能 力とともに協働することを意味している.また,図3.1 の応用分野はそれぞ れが必ずしも独立しているわけではなく互いに部分的に重複しているところ もあるということもお断りしておきたい.
これらすべてのビジネス実務における応用について,それぞれを詳細に説 明するだけのスペースを割くことはできないが,これから学ぶ論理思考の基 本的な活用方法をマスターすれば応用範囲の全体をカバーできるはずである.

論理思考の基本的な活用スタイルには大きく分けて「論理構築:論理ピラ ミッド,論理展開:ロジックツリー,因果関係解明:因果関係図」の3 種類 がある.3 種類の基本スタイルは,ちょうど「第2 章問題解決の主役はロジ カル・シンキングである」の「問題解決のプロセスを正しく理解しよう」の ところで登場した,原因のある問題の3 つのタイプにおける本質的原因発見 の方法に対応している.本章ではこれらの3 種類の基本的な活用スタイルの 中で,まず,「現象型の問題:論理ピラミッドを構築する」に対応する「論理 構築への応用」について学ぶ.実は「論理ピラミッドの構築」というのは現象 型の問題に限らず,設定型,創造型の問題を含め,すべての問題に対してその 本質を明らかにする場合などに適用することが可能であり,応用範囲が広い.

 ・現象型の問題をはじめ,すべての問題:論理ピラミッドを作成する(論理構築)
 ・発生型の問題:ロジックツリーを作成する(論理展開)
 ・構造型の問題:原因と結果の因果関係図を作成する(因果関係解明)

3.1 論理ピラミッドによる論理構築とは

既にすべての論理は演繹法推論と帰納法推論の組合せによって構成されて いるということを学んだ.人に,単なる個別の事実ではない,結論的な事柄 をわかりやすく伝えるにはこれから学ぶ論理構築,具体的には論理ピラミッ ドの作成が大いに役に立つ.私達は何らかの報告書などを書くときには,あ まり意識しないで,相応の論理を持ちながら書いているものだ.議論におけ る主張も,多くの場合ある程度は論理を内包している.そういった論理は完 全とまでは言えなくとも大抵帰納法と演繹法を組合せて構成されており,全 体として「論理ピラミッド」形の構造になっている.
わかりやすい論理はピラミッド構造となるという考え方を「ピラミッド・ プリンシプル」として広く紹介したのはバーバラ・ミント脚注3-1)である.

では,実際に例題を使い,ある文書を取り上げてその論理構成を考えてみ よう.

例題3-1 次の文章で主張している論理を構造化して示せ.
 人々が食べるための農産物資源,水産資源の確保にはエネルギーが欠かせない.農産物を 作るにも太陽光と水だけでなく,肥料を与え,田畑を耕すための機械を動かすエネルギー が要る.魚貝類や海老・蟹などの水産資源を養殖し,あるいは捕獲するにも設備や船を動 かすエネルギーを使う.
 生活に欠かせない食料品・製品をつくるためにはエネルギーが必要である.確保した食 糧資源の加工にもエネルギーを使う.私達の住まいを作るには,大抵,工場で機械を使っ て加工した材料を使う.衣服も工場で紡績機や織機を使って作られた材料を使って縫製さ れている.
 また,人々が生活して行く上で,物や人の移動にもエネルギーを必要としている.資源 や生産物を運ぶためにエネルギーが必要である.運搬は自動車,貨物列車といったエネル ギーを必要とする運輸手段に依存している.製品の運搬に大量のエネルギーを使う船舶, 飛行機も利用しなければならない場合もある.人々が住まいと職場の間を移動するにも子 供達を学校に運ぶためにもエネルギーを必要としている.私達は日常的にバスや電車,自 家用車,バイクなどを利用している.
 人々の健康な生活のためにもエネルギーが必要である.家庭での照明,熱利用,調理お よび冷蔵のためにもエネルギーが必要である.夜になれば電灯を使う.お風呂にも入る. ご飯を炊いたり,野菜を炒めたり,肉を焼くにもガスや電気を使う.寒ければ暖房にもエ ネルギーを使う.食料品の保存に電気冷蔵庫なども使っている.医療活動に際してもエネ ルギーを必要としている.救急医療では患者の移動や手術時の照明などにエネルギーは必 須である.診断医療機器には電気を使うものが多い.医療器具の消毒・殺菌・洗浄にもエ ネルギーを使う.
 このように私達人類が生きて行くためにはエネルギーが必要である.

殆ど接続語が使われていない文章であるが,内容からつながりを理解する ことが可能なので難しい文章ではない.要するに「人類にはエネルギーが必 要だ」というようなことを主張している文章だ.よく読むと,改行部分で5 つのブロックに分かれていて,上4 つのブロックはやや重なりがあるが,そ れぞれエネルギーが必要である理由を別の観点から述べており,最後の1 行 が結論になっていることがわかる.しかも,4 つの各ブロックは最初にまと めの文があり,その後に具体的な例を挙げて説明することによって構成され ている.
解答例 例題3-1 の文を原文のまま階層化すると次のようになる.
結論:私達人類が生きて行くためにはエネルギーが必要である.
 ・人々が食べるための農産物資源,水産資源の確保にはエネルギーが欠かせない.
  −農産物を作るにも太陽光と水だけでなく,肥料を与え,田畑を耕すための機械を動かすエネルギーが要る.
  −魚貝類や海老・蟹などの水産資源を養殖し,あるいは捕獲するにも設備や船を動かすエネルギーを使う.
 ・生活に欠かせない食料品・製品をつくるためにはエネルギーが必要である.
  −確保した食糧資源の加工にもエネルギーを使う.
  −私達の住まいを作るには,大抵,工場で機械を使って加工した材料を使う.
  −衣服も工場で紡績機や織機を使って作られた材料を使って縫製 されている.
 ・また,人々が生活して行く上で,物や人の移動にもエネルギーを必要としている.
  −資源や生産物を運ぶためにエネルギーが必要である.
   *運搬は自動車,貨物列車といったエネルギーを必要とする運輸手段に依存している.
   *製品の運搬に大量のエネルギーを使う船舶,飛行機も利用しなければならない場合もある.
  −人々が住まいと職場の間を移動するにも子供達を学校に運ぶためにもエネルギーを必要としている.
   *私達は日常的にバスや電車,自家用車,バイクなどを利用している.
 ・人々の健康な生活のためにもエネルギーが必要である.
  −家庭での照明,熱利用, 調理および冷蔵のためにもエネルギーが必要である.
   *夜になれば電灯を使う.
   *お風呂にも入る.
   *ご飯を炊いたり,野菜を炒めたり,肉を焼くにもガスや電気を使う.
   *寒ければ暖房にもエネルギーを使う.
   *食料品の保存に電気冷蔵庫なども使っている.
  −医療活動に際してもエネルギーを必要としている.
   *救急医療では患者の移動や手術時の照明などにエネルギーは必須である.
   *診断医療機器には電気を使うものが多い.
   *医療器具の消毒・殺菌・洗浄にもエネルギーを使う.

階層化されている各ブロックは帰納法推論の形式をとっており,各ブ ロックの最上位にある文はやはり帰納法推論の形式で結論を支えている. つまり,図で表記すると主張は図3.2 のような構成によって論理構築さ れているということになる.


いかがであろうか.これで具体的な根拠と論理的なつながりを持った相応 の説得力のある主張になっているのではないだろうか.論理構造を全体イメー ジとして捉えると1 つの頂点のあるピラミッドの形になっていることがわか る.例題の文には演繹法推論は使われていないが,どこかに演繹法推論が使 われていても全体として同じようにピラミッド形となる.
このような論理構成を称して「論理ピラミッド」と呼ぶが,ここで,つい でに「論理ピラミッド」について2,3 の用語を知っておこう.頂点にある箱 を第1 階層と呼び,その中身を「主命題(または,主メッ セージ)」と言う. 頂点につながった矢印の元にある箱を第2 階層と呼び,その中身を「サブ命 題(またはサブ・メッセージ)」と言う.以下,第3 階層第4 階層となる. 矢印の上側にある階層を上位階層,下側にある階層を下位階層と言う.従っ て,主メッセージのことを最上位層にある命題,つまり最上位命題とも呼ぶ. 上記の論理ピラミッドにおいては第4 階層が最も深い最下位層ということに なるので,第4階層にある命題を最下位命題とも呼ぶ.第3 階層が最下位層 になっている部分も見られるが,やはりその場合も第3階層にある命題が最 下位命題ということになる.

論理ピラミッドに関する次の大事なことを確認しておいてほしい.

論理ピラミッドにおける命題階層位置とその性格
論理ピラミッドにおいては上位命題ほど「抽象的・包括的」命題に,下 位命題ほど「具体的・個別的」命題となり,最下位命題は事実または誰 もが認める事柄になっている.

例えば,下記部分をご覧いただきたい.最上位命題から第4 階層の最下位 命題までの,ある1 つのルートをたどって命題を並べてある.最上位は「人 類が生きて行くため」と抽象度・包括度が高いが,第2 階層,第3 階層と下 位に行くに従って,具体的になって行き,最下位層では「自動車,貨物列車 による運搬」といった具体的・個別的な命題が置かれていることがわかるだ ろう.
私達人類が生きて行くためにはエネルギーが必要である.
 ・人々が生活して行く上で,物や人の移動にもエネルギーを必要としている.
  −資源や生産物を運ぶためにエネルギーが必要である.
   *運搬は自動車,貨物列車といったエネルギーを必要とする運輸手段に依存している.

下記の部分はどうだろうか.この部分は3 階層しか存在しないが,やはり, 下位層に行くに従って抽象度が下がり,第3 階層の最下位命題には具体的・ 個別的な命題が置かれている.
私達人類が生きて行くためにはエネルギーが必要である.
 ・生活に欠かせない食料品・製品をつくるためにはエネルギーが必要である.
  −衣服も工場で紡績機や織機を使って作られた材料を使って縫製されている.

どちらの最下位命題も事実または誰もが認める事柄と考えて良いだろう.一 方は第4 階層に最下位命題が置かれ,他方は第3 階層に置かれているが,同 じ抽象度の命題であっても,1 つのツリーが枝に分かれた先では異なる深さ の階層に置かれていても何ら差し支えはない.

多くのビジネス文書を始め,新聞・雑誌等の身近な記事,実験報告書,提 案書,技術検討報告書,出張報告書,製品企画書なども論理的と言える内容 の文書であれば,解析すると殆ど論理ピラミッド構造になっている.もちろ ん,長い文書によっては主張点が複数存在する場合もあるので,いくつもの ピラミッドがあるものも珍しくはない.しかし,中には複雑で,構造的に言 えば論理のつながりに相当する矢印が錯綜していて,難解な文書も沢山存在 する.背景の記述などを含め,特に論理を構成していない文が混じっている 文書もある.
適切な命題が使われ,シンプルで論理的つながりが明解な文書はわかりや すく,伝えたいことを正しく伝えることができる.議論における主張も全く 同様である.文や主張の論理を構築するには,以上のような具合にして論理 思考に基づいて「論理ピラミッド」をイメージしながら進めて行くのである. 論理ピラミッドは文章や主張の論理を構築するという場合に限らず,例え ばプレゼンテーション全体の論理構成を作る場合や1 枚のプレゼンテーショ ン・シートを作成する場合にも活用する.報告内容のエッセンスを必要な人 に短時間で要領よく伝える場合なども論理ピラミッドの活用が役に立つ.

ここで,もう1 度論理思考の定義を確認しておこう.論理思考とは事実や 誰もが認める事柄に基づいた根拠によって,結論に至る展開の筋道につなが りを持ち,目的に合った明確な結論を導出するための思考である.

3.1.1 論理ピラミッドの作成には2 つのアプローチ

論理ピラミッドによる論理構築,つまり論理ピラミッドの作成のためのア プローチの仕方には基本的にトップダウン・アプローチとボトムアップ・ア プローチがある.


トップダウン・アプローチは,当初から結論が明確で確たる根拠がある程 度存在する場合に進めやすい論理構築方法である.しかし,「始めに結論あり き」で論理構築したときにどうしても根拠不十分という場合がある.その際 には不足している根拠を再度捜し求めるか,あるいは使える根拠だけに基づ いた最上位命題となるように修正して完成させる必要がある.そうしないと 根拠のないことを主張していることになる.
一方,結論がどうなるのかわからないが,確かな関連情報がいくつも存在 しているという場合もある.そのような場合には,存在する情報の確かな根 拠に基づいてボトムアップで結論を構築することができる.しかし,ボトム アップ・アプローチにおいても「もう少し明確なことが言えないか」というと きがある.その際には不足の根拠を情報収集することによって,より確度の 高い結論を構築することができる場合がある.このように基本的なアプロー チの方法としては,トップダウン・アプローチとボトムアップ・アプローチ があるが,現実的には両方を使って上位・下位の命題間を往き来して完成さ せることが多いだろう.

なお,KJ 法脚注3-2)と呼ばれる問題解決の方法が知られているが,そのアプロー チの中心的な部分の基本的な考え方は本節の後半で紹介するボトムアップ・ アプローチと重なると思われる.

トップダウンアプローチ

確たる根拠があり,感覚的にも「これだ!」と思うことができる主張があ るなら,トップダウン・アプローチで論理ピラミッドを構築することを試み る価値がある.提言や提案に該当する「・・・すべきである」といった主命題 を掲げて何らかの主張を行う場合の多くは,トップダウン的な論理構築にな る可能性がある脚注3-3)
トップダウン・アプローチによる論理構築においては,通常,主命題の作 成,主命題を支える論拠(サブ命題)として演繹法を使うのか帰納法を使う のかという論理構成の決定,更にサブ命題を支える必要十分な根拠の配置と いう順序で進める.主命題の論拠として帰納法推論を採用する際に,必要十 分な論拠をそろえるということがなかなか難しいと思うが,後の「4.1 節  ロジックツリーによる論理展開とは」のところで,基本的な事柄を学ぶので, ここではアプローチのステップと方向について理解しておけば良い.

それでは,例題に取組んでみよう.